天使だったのかもしれない


 それは、ある夜のことだった。
 監督生として消灯前の見回りを終えた僕は、くたびれた足を引きずってグリフィンドール塔へと戻ってきた。途中でうっかり消える段差に足をかけてしまったのがいつも以上に疲れた原因かもしれない。今夜は寮に戻ったら、ジェームズ達の悪ふざけに付き合わずさっさと寝てしまおう。固く心に決めながら太ったレディに合い言葉を告げ、談話室へ入れてもらう。
 談話室に一歩踏み入れたときまずはじめに聞こえたのは、ぱちぱち火のはじける音と、「おかえりなさい」という少し眠たそうな声だった。僕はまだ談話室に人が残っていたのに驚く。声のした方を振り向けば、薪の少なくなった暖炉の前に、彼女はいた。ゆらゆらゆれる炎をぼんやり眺め、自分の足を抱えて絨毯の上に座っている。人けのない部屋に一人、いつからそうしていたのだろう。
「何をしているの」僕は抑揚のない声で言った。自分でも驚くくらい無機質な声だった。いつもはなるべくあたたかい声を出すよう努めている分、たった今自分が発した声が自分のものだと信じがたい。彼女もわずかに動揺したように身じろぎしてこちらを見上げた。けれども直ぐに、いつも通りふにゃりと笑う。
「あなたを待っていたの」
 彼女は静かにそう言った。彼女の肩越しにきちんと閉まっていないカーテンが見えた。僕はそれを見たとたんひどく疲れた気がして、半ば投げやりに返事をする。「なぜ僕を」彼女は僕がそう言ったことに驚いたようだった。まるで前々から巡回の後に約束がしてあったような顔をするものだから、僕が何かおかしなことを言ってしまった気にさせられる。彼女はその顔を崩さないまま静かに言った。

「だって最近、ひどく具合が悪そうだったから」

 僕はその言葉に目をぱちくりとさせ、それからふと思い出す。暖炉の火を瞳に映り込ませる彼女を僕が苦手とする理由。そして彼女の瞳の中にある火を見つめる僕の体調が優れない理由。
 僕は真っ赤なカーテンから覗くしぼみはじめの月に心の中で悪態をついた。
 彼女の方を見ればいつの間にかその瞳はゆれる炎ではなくくたびれた僕が映っていて。別に何を言われた訳でもないのに、その真っ黒な瞳にぎくりとする。もしかしたらこの子は、もう全て気づいているのではないか。一月に一度ひっかき傷だらけになる同級生を訝しんだって何もおかしくはない。ああ、もし本当に気づかれているのなら一貫の終わりだ。危険生物を受け入れてくれる奇特なヒトなんて、あの愉快な三人の他にいるはずがないもの。
「余計なことを」
 僕は落ち着かなさから、思わずそう口にだしていた。彼女のゆるい笑みが一転、虚を突かれたようなぽかんとした顔になる。当たり前だ。僕だって自分が言ってしまったことに驚いている。薄く口を開けるその顔を見てほんのかすかな罪悪感が生まれたけれど、ぱちぱち爆ぜる暖炉の火に、それもあっさりとかき消されていく。人狼だと見破られたのかという焦りから動悸が激しく不規則になっていたが、彼女がそういう類いのことを一言も発しなかったので、やがてそれも落ち着いてくる。拍動がようやく安定してくると、次第に倦怠感が強まり、目の前で呆けた顔をする彼女が疎ましくなる。
 −−今夜はひどく疲れた。早く熱いシャワーを浴びて、ふかふかのベッドにもぐり込みたい。
 段々と体が重くなってくるような感覚。痺れたように動かしづらい僕の手足。満月の後はいつだってこうだ。脳みそまで麻痺しているような気がしてきて嫌になる。いっそのこと本当に麻痺してしまえばなにも感じずに済むのに。どこかの誰かが痛みにうめくのを無視し、言葉が出なくなっている彼女へもう一度口を開く。
「君は、高慢だよ」
 彼女はますます意味が分からないといった顔で僕を見上げた。彼女の絹のような黒髪が暖炉の火に照らし出される。それが縁取るのは、ひどく間の抜けた邪気のない顔。愛されて、慈しまれて育ってきたのだというのが、一目で分かるような顔。僕は僕の心がざわざわと波立つのを感じた。彼女はそんな僕の内情を知ってか知らずか、その薄いくちびるで穢れのない言葉を吐く。
「私があなたを心配するのは、いけないこと?」
 そう言って、瞼を数度しばたかせた。僕の心臓はどきりと跳ねる。透明な文字の羅列が、僕の耳から体中を浸食していくみたいだ。言語化された率直すぎる真理は、親にすら腫れ物扱いされる僕にとって、恐ろしい毒か鋭利な刃物のようだった。
 しかしその本質が何か考える前に、僕の心は棘のようにささくれ立つ。満月の翌日の僕は、そんなに哀れに見えるのだろうか。世間的に黙殺されているヒトではない何か。同じ年の女の子から同情されるほどに、救い難い生き物。
 なんだか目の前が真っ暗になったような気がして、大声を張り上げる。

「君のそれは心配なんかじゃない」僕は息苦しさに目を伏せる。その息苦しさが疲れからくるものなのか、波立つ心からくるものなのか分からなかった。
「僕を同情して見下して、自分が満たされていることを確認したいだけだ。自分をやさしく仕立て上げるのに、僕を使わないでくれ」

 言ってしまってからすぐに、また後悔する。こんなことを平気で言ってのけるだなんて、いったい僕は心まで狼のようになってしまったのだろうか。彼女の瞳がゆらゆらとゆれだしたのを見てそう思った。僕らの国では比較的珍しいその色に、心の中のどろどろと薄汚いものまで見透かされたような気になる。これだから僕は彼女が苦手なのだ。
 透明な真っ黒が最短距離を駆け抜けて心臓に刺さる。僕だって本当は気づいている。彼女がただ甘やかされて苦労を知らない連中とは違うことや、僕を見下してなんかいないこと。故郷から遠く離れた異国で、あらゆる偏見と闘ってきた彼女に自分を重ねたことだって、一度や二度では済まされないのだけれど。それでもそう思わないとやっていけないのだ。自分が姿だけでなく心まで醜い狼だと知りたくない。世界で一等みじめな生き物だと思いたくない。誰かを悪者にしないと、人間として生きていかれないから。
 彼女は目に薄い膜を張りながら、「そんなつもりじゃ」と呟いた。
 僕はもう引っ込みがつかなくなって、また口を開く。「君に君の何がわかるんだ」今度はさっきと裏腹にぽつりとした静かな声がでた。「僕らは何者にもなれないというのに」僕の言葉を聞いた彼女は、とうとう目から雫を零した。

 思えば、彼女はとてもよく泣く人だった。手紙を届ける梟が怪我をしたといっては泣き、魔法薬学で芋虫を輪切りにしながらごめんなさいといって泣く。些細なことで心を痛め、黒い瞳に透明な涙を浮かべて。ひどく精神の摩耗しそうな生き方だと思った。
 けれど彼女は、泣くのと同じかそれ以上に、よく笑う人だった。いつだって気の抜けたふにゃふにゃの笑顔で、終いには彼女を良く思っていない人まで脱力させてしまう。もし僕が人間だったら、あんな風に泣いて笑えたろうか。くだらない考えを僕に起こさせる彼女は、大声で泣いて全身で笑う、そんな人。

 だけど僕は、今彼女が涙を見せたことが、とても意外だった。彼女が涙を流すのは、決まって他人のためだと知っていたから。
 あれは僕らがホグワーツに入学したてのころ。東洋人の特徴である真っ黒な髪と瞳、そして僕らより少し黄ばんだ肌をもつ彼女は、初めよく思われていなかった。ヒトは自分と少しでも違う誰かを見つけたら迫害せずにはいられないらしい。彼女が英語を不得手とするのをいいことに、みんなが彼女の悪口を言った。大抵は影でこそこそ言う程度だったのが段々とエスカレートしていき、ある日彼女へ面と向かってぶつけられた言葉。
「早く国に帰れイエロー」
 はたして誰が言った言葉だったか忘れてしまったけれど、朝食の席でそう言われた彼女の顔は一生忘れないと思う。悲しむわけでも怒るわけでもない、ただ知ってしまった顔。自分の存在を否定された人特有の表情。通途から外れる怖さ。ヒトのあまりの脆弱。
 僕は彼女がまた泣き出すとばかり思っていた。けれどそんな僕の予想を裏切り、彼女が泣くことはなかった。涙一滴浮かべないで、ただ耐えていた。
 そのときやっと僕は、彼女が泣き虫でないことを知った。

 それゆえに、不思議でしょうがない。
 自分のことでは決して涙を見せない彼女が、どうして今泣いているのか。僕はその疑問に、自分が疲れて苛立っていたことすら忘れてしまう。
「どうして泣くの」
 僕は真実、何の気なしにそう尋ねた。彼女は潤んだ瞳を見開いて、信じられないとでも言いたげな表情を浮かべる。それからしばらく談話室には、ぱちぱちと鳴る炎の音しか聞こえなくなった。彼女は数秒の間押し黙っていたけれど、やがてためらいがちに口を開く。
「本当に分からないの」この数年でだいぶ流暢になった英語が僕の耳に届いた。「そんなに痛そうな顔をしているのに」
 僕は急に冷水をかけられたような気になる。指摘されて初めて気がついた、自らの頬の筋肉のこわばり。どこかの誰かは気づいていた。本当に痛いのが昨晩かきむしった体ではないこと。精神が摩耗する生き方というのが、何も見ないよう聞かないように口を噤んでいることだという事実。彼女の言葉のせいでひどく情けなく、また恥ずかしくなった。やはり、彼女は他人のために涙を流していたのだ。彼女の真っ黒い瞳をゆらして。

「何が言いたいのか分からないよ」僕は声の震えを抑えて言った。それからおそらく一番彼女を効率的に傷つけられる言葉を選び抜いて、音に乗せる。「そうやって最後まで僕をかわいそうなやつに仕立て上げようっていうんだろう。この偽善者」

 我ながらよくもまああんなに意地の悪いことが言えたものだと感心する。僕はあの瞬間を思い出すたびに変身したときよりも辛い苦しみに襲われてしょうがない。
 あのとき僕の言葉を聞いた彼女は、それまでより激しく泣き出して女子寮へ続く階段を上っていった。その後姿をぼんやり見ていた僕には彼女の考えが手に取るように理解できて、それがより一層僕をみじめにさせた。もし僕が人間だったら、彼女を追いかけて手をとっただろうか。なんて、ばかばかしい仮定。
 それから彼女は泣かなくなって、また笑わなくなった。僕は卒業するまでずっと罪悪感に苛まれたけれど、彼女に謝罪することも誰かに僕の悪行を吐露することもしなかった。そんなことをしたら僕が人狼だということまでばれることになってしまいそうだったから、とても謝ったり他の人に話したりなんてできなかった。
 畢竟僕は彼女を傷つけたことより自己の保身に重きをおく、卑劣な獣だったのだ。僕が人狼だから卑劣なのか、卑劣だから人狼なのか。もうそんなことですら、どうでもいい。

 けれどもあれから十数年経って、唯一ヒトでない僕を忌み嫌わなかった友人達が、みんな僕の前から姿を消してしまった今、ふと思う。
 人狼差別も人種差別も相変わらずはびこり、純血主義だって根強く残っている現代。その上闇の帝王が人々に強烈な影を落としているこの世界が、ひたすらどうしようもなく非情で自然なのだ。まっとうに生きようとすれば傷つき、傷つかず生きるには誰かを傷つけなくてはいけない。そんなこの世界で生きるのに、彼女は少しばかり優しすぎた。自分を守り他人を傷つけるためのガラスの棘を持とうとしなかったから。些細なことで心を痛めて、他人のために涙を流して。優しさをかけた相手に牙をむかれても、ただただ相手の心情を推し量る。
 もしかしたら、君は。

 僕はあの夜によく似たかけはじめの月を見上げながら、そっと瞼を閉じた。

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