さよならと言った唇


それは星の瞬くむし暑い夜の事でした。
昼と夜、夢と現の違いを持たない私ですが、あの星明りだけは一生忘れることはないでしょう。

私が周囲から白眼視されるようになったのは、高校に入ってすぐのことでした。高校と言ってもそこは本土から離れた南の島にあり、生徒たちは寮で暮らしながら勉強するという専門的な学校です。はじめは私も、自分がだらしないのだと思っていました。気づくとチャイムが鳴り終わって授業が終わっていたり、体育の最中にも呆けてしまったり、挙句の果てには一時間目を寝過ごして全く授業を受けられなかったりするようになったのです。けれどそれは私がおかしいだけなのです。別にみんなの時間が早く進んでいるわけではないし、私の時間が遅く進んでいるわけでもない。
だから私は、あの常夏の島で暮らし始めてから半年と経たずに逃げ出したくなっていました。

そんな頃だったと思います。天上院君と出逢ったのは。

私はいつものように授業のチャイムが鳴ってから随分経って目を覚まし、うんざりした気分で部屋を出ました。それから授業も出ずに、女子寮の前の水辺をふらつきながら何時間も過ごす。そんな怠けた生活のせいで、同じブルーの女子たちからは色々言われていたし、先生や男子生徒にもきっと散々悪口を言われていたに違いありません。ひどく悲しい気分で右足と左足を交互に押し出しながら、私はいつも思っていました。「このまま普段のように私の時間が止まって、永遠に目覚めないでいられたら………」
酷い眠気で、欠伸が、もれました。

そして、ぼうっとした意識の中で、ふと、おかしなことに気づいたのです。そこは静かな女子寮ではない上に、私は歩いているどころか保健室のベッドに横になっていました。状況が理解できないまま、今度はベッドのわきに誰かが座っていることに気づいてますます混乱します。その誰かに焦点を合わせると、彼も私を見つめていることがわかりました。彼の顔は、真剣そのものでした。
「……天上院…くん?」
私は彼を知っています。知らないはずがありません。彼は学年で三大トップの成績を誇る男子生徒のうちの一人で、外見から性格にいたるまで、あらゆる学生に愛されていたのですから。そんな彼がどうしてここにいるのかと、私は首をかしげずにはいられませんでした。
「良かった、目が覚めて」
私が喋ったことに対し、天上院君がほっと息を吐いてから浮かべた笑顔。それを見たとき、みんなが彼を愛する理由なんて簡単に理解できました。私は霞んだ思考の奥でも、たしかに彼を好きになった……だから今もこうして、彼の面影を脳裏に留めつづけているのだと思います。
「急に倒れたからびっくりしたよ。」
倒れた? そう尋ねると、彼は何があったのか話してくれました。女友達を寮へ送るためにたまたま寮の近くを歩いていた時、意識を失う直前の私を見つけたのだそうです。
今思うと、彼と一緒にいた女の子とやらの話はその後一切聞かないし、第一、あの時間はまだ授業を行っていたはずですから、彼が告げた物語は嘘に決まっています。でも、いつものごとくぼんやりしていた私はその不自然さを見落としたのです。

そのとき助けてくれた天上院君による普段の私の様子、そして私自身の語りから、保健室の先生は私がただのだらしない学生ではなかったのだと教えてくれました。
私はあの日、たしか、泣きました。だってあのときの天上院君を思い出そうとしても、ぼやけた輪郭ばかりが頭に浮かぶのですから。

けれど、以降彼とは本当に親しくなりましたから、天上院君の笑顔なんていくらでも思い出すことができます。いったいどれだけの日々を過ごしたのか、正確にはわかりません。何故って、私には、昼も夜も関係ないからです。
「天上院君…なんだか、申し訳ないよ。こんなに毎朝起こしに来てくれたり、付き添ってくれたり…」
「そんなこと言わないで。ぼくがきみを放っておけないんだ」
申し訳ない、それは事実でしたが、それだけじゃありません。彼の隣を歩いていると、多くの視線が突き刺さります。それは、かつて授業に出なかった私に対する侮蔑の視線が、別の色にすり替わったもの。陰口は絶えないし天上院君の優しさに胸は痛くなる。こんなストレスに加わって、私にはいつも気がかりな事がありました。それは、常に私を気にかけてくれる天上院君が、たまに全く私を見つめないことがあるということでした。
そしてそれこそ、あの日彼が女子寮のそばを歩いていた理由でもあったのです。
島の地図をひろげて、男子寮と女子寮を直線で結んだとき、その線の延長上にあるもの……旧校舎で何が起きるのかなんて、知る由もありませんでした。

そして、その時が来たのです。満天の星を背にした天上院君が、いつもどおりの物柔らかな笑みで私を女子寮まで送り届けてくれた夜。
「ありがとう。おやすみなさい、天上院君。」
「うん、おやすみ。」
私には昼も夜もない。だから、時間に見合わずやけに冴えた脳が、私にしては珍しく、彼の小さな異変を読み取ったのでした。
「…………天上院君、」
彼の目にはさまざまな色が浮かんでいました。私を見つめる熱い瞳の奥に、苦悩、悲哀、そしてなにか強い決意がある。だから私は怖くなって、生まれて初めて、自分から彼の手を握りました。
「…どうしてだろう、もう、天上院君に会えなくなるような気がする。」
だから離れないでほしい、なんて、寮暮らしの私たちには無理な話とわかっています。でもそんな現実的問題も何もかも忘れて天上院君にしがみつきました。天上院君は、私が初めて心の底から囚われた人だったのだから。
けれど…………けれど、彼は私を抱きしめ返してはくれなかった。
「大丈夫。」
なにが大丈夫だったのか、わかりません。それにたぶん、何一つ大丈夫ではなかったのです。
「今夜がさよならになんてならないよ。」
だというのに、あの情愛に満ちた微笑を向けられて幾分安堵してしまったことを、強く強く後悔しています。それこそ、死んでしまいたいくらいに。
「だから今夜は、もうおやすみ。」

それが、天上院君との最後の記憶になりました。

彼がいなくなってからも毎日、可能な限り努力して単位をとった私は、無事に最高学年まで進級しました。
けれど、天上院君はもういません。
彼がいなくなった翌日から、三大成績トップと言われた生徒も学園に一人だけとなりました。きっとあの夜の彼の瞳こそが、真実を知っている唯一の存在なのです。

夢で再会するたび、私は頬を濡らして目覚めます。おそらく一生、そうなのだと思います。
でも、それでも構わないのです。たとえ私の心がいつまでもあの小夜に閉じ込められていたとしても、そうである限り永遠に、私は彼への恋を忘れないのですから。


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