もう戻れないこと


それはある夜のことでした。
雷の音と雨の音と私の心臓の音ばかりが五月蠅い、ある夜のことでした。

金曜日、19時。父は出張。帰りは2日後。母は仕事。帰りは夜の10時を過ぎる。他の家族も出払っている。なんでこんな日に限って、停電なんておこるんだろうなんて泣きたい気持ちになりながら、私は電気のスイッチを何度も何度も押す。かち、かち、と音がするばかりで、電気は付かない。雷の大きな音に、肩が震える。携帯の明かりを頼りにブレーカーを探そうと思ったけれど、ブレーカーなんて日頃注意して見ることなんてないからどこにあるのか分からない事に気付く。そもそも、ブレーカーを上げるだけで電気がつくのかさえも良く分からない。仕組みがよく分からない。そもそもこの停電はうちだけなのだろうか。電柱の電線が壊れているのならここあたり全部が停電になっているのだろうから、ブレーカーを上げても電気は付かない気もする。朝は弱かった雨も、だいぶ強まってきたような気がする。これから本格的に荒れてくるのかもしれない。もう部屋に戻って寝てしまいたいけれど、電気のつかない状況で2階にある自室に戻れる自信があまりない。段数が多い上に、少し高めの階段を上るのは怖い。このままリビングで母が帰ってくるのを待つべきか、と思っていると手に持っていた携帯が震えた。突然の振動に驚きながら画面を見れば、そこには斜め向かいに住む幼馴染みの名前が表示されている。

「…大地!」

勢いよく電話に出ると、電話の向こうの彼は一瞬の沈黙の後、低く笑った。

『…すごい勢いで出たな』
「だ、だって、突然停電になるしひとりだし、どうしようかと思ってたら電話かかってきたから…」
『あ、やっぱりなまえの家も停電か』
「…それじゃあ、大地のとこも?」
『ああ。真っ暗だよ。そうなると、このあたり一帯停電なんだな。俺も今一人だからさ、なまえんところはどうなのかと思ったんだ。でもまあ、そんなに長い時間停電してるって訳じゃないと思うし、お互い気を付けような』

どこまで停電をしているのか確かめるためだけの電話だったんだろう、すぐに電話を切られてしまうような気がして、慌てて幼馴染みの名前を呼ぶ。電話の向こうの彼は『なまえ?』と低い声で私を呼ぶ。電話を切ったらまた一人だ。外では雷が鳴っているし、雨も強まってきている。風の音も五月蠅い。このまま一人でいるのは、少し、いや、かなり、不安で、怖い。携帯電話を耳元に宛てたまま、「大地」ともう一度彼を呼ぶ。彼はたったそれだけで、私が何を言おうとしているのか理解したらしい。耳元でくく、と少し意地悪く笑う声が聞こえた。

『…どうした、なまえ』
「…わかってるくせにそういう言い方するの性格悪いよ」

電話の向こうで、また大地が笑う。暗い中聞こえるその声に、安心する。

『それじゃ、今からすぐそっち行くよ。暗いところ悪いけど、玄関のとこで待っててもらえるか。なまえの家何度も行ってるけど、流石に暗いと一人でリビングまで行ける自信がない』
「!う、うんわかった!」
『じゃ、また後でな』

大地の声が聞こえなくなった携帯電話を握り締めて、私は壁にそっと手を付きながら玄関に向かう。大地は、いつまで経っても面倒見のいい幼馴染みだ。時々意地悪なことも言うけれど、最後はいつだって優しい。暗いだけで、いつもと少し違う造りになってしまったように感じる自分の家の壁を伝い、玄関に向かう。玄関前についたところで、控えめにドアを叩く音がした。ドアを開ければ、ちょうどぴかっと空が光る。たまらずびくりとしてしまう私に、ドアの向こうに立っていた大地は、電話の時と同じように笑っている。暗くて表情はちゃんと確認出来なかったけれど、雰囲気で、わかる。

「驚きすぎ」
「…ドアを開けたと同時に光ったら、誰だって驚くよ」
「そうか?…まあ、なまえは昔から怖がりだったからな」

大地の手が、そっと頭に伸ばされる。冷たい手が、ぽんぽんと私の頭を軽く叩く。その手が少し濡れていた。私もそっと大地の輪郭に向かって手を伸ばす。今度は大地がびくりと震えた。

「驚きすぎ、だね」
「…突然触られたら、誰だって驚くだろ」

少しむっとしたような大地の声に、今度は私が笑う。さっきまで不安で怖かったと言うのに、大地の存在だけで安心する。触れた大地の頬は濡れていて、前髪からだろうか、ぽたぽたと雫が落ちてくる。

「大地、もしかして傘ささないで来たの」
「斜め向かいの家に行くだけで傘なんて要らないだろ」
「でも結構濡れてるんじゃない、大丈夫?」
「ああ、平気。…だから手、離せって」

その言葉に、大地の頬から手を離す。携帯の明かりを頼りにタオルを探そうかと考えていると、大地から「別にそんなに濡れてないから、タオルとか要らないからな」と言われてしまった。私の行動を見越してのその言葉に、何も言えないでいると、大地がまた私の頭を軽く叩く。

「何年の付き合いだと思ってるんだ」
「…大地はすごいね。私のことで知らないことなんてないんじゃないの」
「さあどうだろうな。ほら、いいから、リビング行くぞ」

大地がそう言って、私の手を掴み、引っ張る。手を離せって言ったクセに、と思いながら、大地に手を引かれていることに安心する自分がいる。リビングまで行ける自信がない、なんて言っていたクセに、私の手を引きながらゆっくりとリビングの方に歩いていく。小さい時から何度も遊びに来てるから、体にちゃんとしみついてるんだなぁなんて、ぼんやりと考えながら、暗闇に慣れてきた目で、大地の背中を眺める。大地がいるだけで、こんなにも安心できるのだから、不思議だ。低い声も、この体温も、大きな手も。

「…大地がいてくれてよかった」
「…いきなり、だな」
「さっきまで不安だな怖いなって思ってたんだけど、安心する」

前を歩く背中に声を掛ける。遠くで雷が鳴っている。さっきまで怖かった雷ももう怖くないなと考えていると、前を歩いていた大地が急に立ち止まった。急に立ち止まるものだから、勢いあまって逞しい背中に顔をぶつけてしまう。「大地?」と呼び掛けても、反応がない。もう一度名前を呼ぼうとしたその時、私の手を掴む力が強まる。痛い、と反射的に声を上げてしまう。

「なまえ」

大地がこちらを向く。暗い中でも分かる、大地の目が見たこともないくらいに真剣で、心臓がどきりとした。私の手を掴む大地の手が熱い。さっき玄関で触れられたその時は、冷たかったその手。大地が近付く気配がして、それから至近距離で大地の吐息を感じる。雨で濡れているからかもしれない、大地が近付くとひんやりとした空気が伝わってくる。雷が、鳴っている。雨の音が、うるさい。

「…幼馴染みだからって、安心しすぎだ」

すぐそこで大地の声が聞こえたかと思えば、そのまま壁に押し付けられる。大地。名前を呼ぼうとした私のくちびるに触れたのは、雨に濡れた少しかさついた柔らかな、もの。それを何か理解しようとする私に、大地が小さく笑った。


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