伸ばせなかった手


まるで歯医者みてェに、私が変だったら右手を上げてくださいね!、なんつって俺を笑わせた葵依が俺を見上げる瞳には確かに戸惑いや少しの恐怖が浮かんでた。
初めて服の下の肌で触れた葵依のすべては滑らかで柔らかく俺よりずっと温かかった。初めて聞く甘やかな声も俺を呼びながら切れる吐息も涙に濡れる瞳も全身で欲して全部を脳に刻み込んだ。
情けねェけど女を抱くだなんて保健体育やAVやエロ本ぐれェでしか知識がなかったし果たしてちゃんと出来たのかは分かんねェ。

けど、男だから仕方がないのだと前置きさせてもらえば正直の話しすげェ善かった。
ぶっちゃけ途中から理性もへったくれもなく自分本意で行為を進めちまった自覚はある。…が、やっぱ善かった。
何年越しだと思ってんだ。もう付き合って4年経ってんだぞ。どんだけ清い付き合いなんだよ。そりゃやっとこぎつけた泊まりの3泊4日。がっつくな、っつー方が無理ってか今更そんな理由もねェっつーか。
一緒に飯食って風呂は別々だけど入って同じベッドに入る。そうなれば堰き止める理性なんてもんはうっすいオブラートみてェに簡単に破れて本能に溶けた。


ぼやりとしたまま隣で寝息を立てる葵依の髪の毛に指を梳き通して細い肩に触れる。やべ…このタオルケットの下、なんにも着てねェんだよな?好き勝手に抱いて激しく揺さ振り互いに果てて間もなく一言二言しか交わしてから葵依は眠りに落ちた。赤い目元はかなり無理をさせた証だと思う。思いの外細かった身体は鍛えた俺の身体のすべてを柔らかく受け入れる半面華奢で抱き潰しちまいそうで、その均整がますます俺を興奮させた……んだ、が。

初めて、だったよな?葵依も。


俺には経験がねェ。出来た彼女も葵依が初めてだ。キスは不測の事態で初めてじゃあないが、初めてのほとんどが葵依であると言ってもいい。大体あんな不意打ちみてェにされたキスはノーカンしたい。…と、いつか葵依とあの時の話しをした時に、相手の気持ちはなかったことにしないでくださいね、と言われたっけな。
まぁそれはさておき、だ。


ぺらり、とタオルケットを捲ると葵依の見慣れねェ裸体にチカチカと視界が不規則に点滅して眩暈さえ感じるがそんな自分のヘタレ具合もさておき。
ベッドのシーツには初めてとくれば付き物(という認識の)の汚れがねェ。あんまり痛がってた様子でもなかったし、まぁ我慢してたっつー可能性があるのだとしてもそれにしたってスムーズにいきすぎた気がする。スゥスゥと規則正しく気持ち良さそうな寝息を聞いてると罪悪感が沸くが自分本意に事を進めちまっただけに気遣えなかった葵依の身体から拒絶や不満を感じるようなこともなかったし疑っちまう。

もしかしてコイツは初めてじゃねェんじゃねェか、と。


「…っ、くそ。埒が明かねェ…」


小さく呻いて1人ベッドから抜け出し床に散らばった服を集めて下着だけ身につける。葵依の服は洗濯していいだろうからシャワーを浴びる時に洗濯機に一緒に突っ込み回す。着替えはスーツケースの中にあるだろうが俺のTシャツだけは枕元に置いてきた。

離れてる時間がありすぎて、あれもこれも、と可能性の話しをするならキリがねェ。
俺たちは人よりも互いのことを知らねェだろう。俺のプロでの生活、葵依の大学生活。俺の人間関係、葵依の人間関係。知ろうとする努力よりもひたすら目の前の相手を見つめていたいと思うのは開いた距離のせいでもあるんだろうが、知れば知るほど距離のデカさを改めて実感すんのも嫌なんだ。
俺は口には出さねェし絶対に出すつもりもねェし、思っても頭の片隅に置いておくだけに留めてっけど。
けど葵依が見てねェとこで葵依の知らねェ俺になってねェかって、不安ではある。葵依はそうじゃねェんだろうか?……ま、不安に潰れるような奴じゃないか。むしろそれを糧に成長する奴だしそんな奴だから俺も振り返らずに前だけを見て邁進出来るんだが。
時々振り返ってほしい、っつー女々しい不満を抱えてるなんざあんな葵依には冗談でも言えねェ。


ザァー、とシャワーの湯を頭に被りながら、はぁ、と溜め息をつく。
余計な事を考えても仕方がねェ。アイツが居れんのは3日。後の3日は実家に帰りその翌日にはまた留学先に戻っちまう。俺にしたって3日間ずっと一緒に居れるわけじゃなくオフは今日だけで明日明後日には試合がある。シーズン真っ只中だからしょうがねェ。疑ってるわけじゃねェし、そういうこともあるんだと割り切るしかねェ。なんにも問題ねェだろ、葵依は側にいるんだしな。


んな思案をしている内にいつの間にかシャワーを終えて遅い朝飯を作ってテーブルに並べてた我ながらの思考の深さに苦笑いを零した。なんでもかんでもてめェで完結させんな、とは青道時代によく倉持に言われたことだけどこればっかりはな。


「一也先輩……?」
「ん?おー、起きた?身体平気か?」
「はい!」


平気なのかよ。もっとこー、初めてって腰痛てェとか色々辛れェとか…あるもんじゃねェの?

リビングに顔を出してニッと笑い敬礼のポーズを取る葵依。俺のTシャツを着て、あぁこれが噂の彼Tな。悪くねェむしろ良い。


「飯食おうぜ。シャワー浴びて来いよ」
「一也先輩はもう済ませましたか?」
「おう。お先」
「そうですか…」
「どした?」


朝飯は簡単にパンとスクランブルエッグにサラダとベーコン。テーブルに並べたそれに一瞥を投げた葵依はらしくもないしおらしさを引きずって俺の前に立つ。うお、細っせェ首と鎖骨がすげェ威力。…と、朝からんな盛ってもらんねェしごまかすように笑いながら、ぐちゃぐちゃ、と葵依の乱れた髪の毛を手櫛で直してやる。
頼むから俺に余裕を持たせてくんねェかな……、とか考えてる時点で情けねェけど。


「起きた時に一也先輩が側にいないから、夢かと思いました」
「!」
「あの…一緒にお風呂とか…」
「…は!?」
「っ…やっぱりなんでもないです!!シャワーお借りします!!」
「あ!こらてめ…!……ったく」


言い逃げかよ!!くー…、こんな事なら起きんの待って一緒に入りゃ良かった。

脱兎の如くリビングを出て1度どっかにぶつかったのか、ドンッ!、とでけェ音をさせた葵依に、ぶはっ!、と噴き出し笑う。あー…本当見てて飽きねェ奴。
…さて。
これからどうすっかな。一緒に出掛けんのもいいけど部屋ん中でゆっくりすんのも悪くねェ。外に出りゃ顔が知れてねェわけじゃねェから面倒な事になるかもしんねェしな……。

そんな事を考えながらも点けたテレビではプロ野球の試合結果とリーグの順位がニュースで流れ頭の中は一気にスコアに切り替わる。
俺だったらこの人にはこうリードする。
この人の球1度受けてみてェ。
鳴の奴、また成長してんじゃねェか。
倉持盗塁王いけんじゃねェの?
哲さんの打率やべェ。
つーか沢村…、


「おー!栄純!!」
「おわっ!!…びびった…」
「気付きませんでした?」
「集中してたからな」
「それはごめんなさい」
「謝んな。癖みてェなもんだから。よし、食おうぜ」
「はい!美味しそう…!」
「大したもんじゃねェけど?」
「いえ!!一也先輩が作っただけで三ツ星です!!」
「大袈裟。何飲む?コーヒーとー…、あぁ。紅茶があっけど」
「コーヒーでお願いします!」
「ん。アイス?ホット?」
「アイスがいいです!」


って、コーヒー?

立ち上がり台所で淹れてやりながらテレビに映る沢村を、おー!、と観る葵依を目を瞬いて見る。俺のTシャツの下にショートパンツを履いて髪の毛は半乾き。バッカお前、冷房つけてんだから風邪引くぞ。


「…お前、コーヒー飲めたっけ?」
「え?飲めませんでしたっけ?」
「こらこら。俺が聞いてんの」
「えぇっと…。はい。今は飲めます」
「……ふうん」


俺の記憶では、お前は飲めねェはずで俺がやったコーヒーを飲んで涙目になってたとこで止まってんだけど?

俺が不満げな声を出したのも気付かねェで、もっち先輩だ!、とはしゃぐ葵依の俺が見てこれなかった一面を早々に感じて気分が悪ィ。誰に飲まされて飲めるようになったんだか。


「ん」
「ありがとうございます!夜は私が作りますからね!!」
「へェー?出来んの?」
「ふふふー。留学歴1年半の私の腕をとくとご覧になってください!」
「大きく出たな。じゃ、後で買い物行こうぜ。近くに店がある」
「はい!!」
「あー…ところで葵依」
「美味しいですよ!」
「いや違くて。いや、うん。それはどうも」
「はい!あ、それでなんですか?」
「んー…あれだ。お前身体辛くねェの?」
「え…はい」


そういうもんか?体力ありそうには、見えねェけど。

パクパクと美味そうに飯を食う葵依に気が抜けちまいそうになったが時折テレビに映し出されるかつての仲間たちの姿に目線を持ってかれると面白くなく、飯食えよ、とテレビを消しちまったのはさすがに大人げなかったかもしれねェ。
しゅんと、すみません、と言われればそんな顔を見たかったんじゃないと空回りだ。あー…くそ。


「なぁ、留学先ってどんなだ?」
「どんな、ですか?楽しいです!」
「だよな。お前どこでも楽しくやってけそう」
「でも一也先輩がいないと世界の見え方が全然違いますけどね!」
「はっはっは!大袈裟だっての」


と、言いながらも満更ではねェ俺がスクランブルエッグをフォークに掬った時だった。次に紡がれた葵依の言葉があまりにも衝撃的過ぎて、ついにそれは口に運ぶことなく皿に落ちて戻った。


「シェアハウスだから寂しくはないんですけど、やっぱり一也先輩がいたらなって…」
「は!?いや…待て待て。今、なんて言った?」
「一也先輩がいたらなって…」
「いや違げェよバカ。その前。………シェアハウス?」
「?……はい」
「……聞いてねェけど。何人で?」
「6人です」
「女?」
「私を入れた女3人と男3人で…」
「っ………」


ガチャンッとでけェ音を立てた。
葵依の言葉は受け入れられねェっつー俺の無意識の拒絶反応がテーブルにコップを叩きつけるって行動に出た。
ビクッと葵依が身体を揺らして不安げに俺を呼ぶ。
なんだよ。なに何も分からねェみてェな顔してんだよ?本当に分かんねェのか?……ますます苛々する。


「なぁそれいつから?ずっと?」
「あの…」
「留学してからずっとか?、って聞いてんだけど」


答えを促してるくせに俺の声はそれを望まねェように威圧的で低い。これじゃ葵依がグッと言葉を飲み込んじまうのもしょうがねェしさっきまで美味そうに飯食ってたその手が止まんのも当たり前だ。
けどそれさえも気に障っちまうぐれェに急激な焦燥が込み上げてどくりと大きく高鳴った鼓動に吐きそうになる。俺こんなにナイーブじゃねェはずだけど、となんとか思考のベクトル変えようとしたって無理だった。

はぁ、と重い溜め息をつく。伏せた目線の先で葵依が手にしていたフォークを置いたのが見える。


「普通言うだろ」
「ごめんなさ…」
「謝んのは今こうして怒られてるからだよな?」
「っ……」
「悪いと思うなら端から言ってるもんな」
「………」
「なぁ、もし俺がシェアハウスだからっつって女と暮らしてたらお前どう思う?」
「え……」
「やれば分かるか?」


椅子の背もたれに寄り掛かり葵依を細めた目で見据えれば葵依は言葉も出せないぐれェのショックを湛えた目で俺を見つめ返していた。
この椅子を買う時、葵依の身長に背もたれが合うものを選んだ。だから俺には少し小さくて……っだせェ。俺ばっかかよ。


「お前は俺がなんでも許してると思ってんの?それとも他を見てるから余裕ねェの?」
「他…?」
「留学先での生活とか人間関係とか、」
「……とか?」


多分だけど。葵依は俺の話し口調から多分、話しの展開が読めたんだろう。初めて不満げに返す低い声に俺の方が心がひりつく。
補填するみてェに腕を組んだ。
そういや…人が人を前にして腕を組んで接するのは自衛本能なんだって聞いたことがある気がする。


「男とか」
「!」


言った瞬間に、バシャンッ、と俺に向かって浴びせられた何か。
頭が真っ白になってそれが葵依のために淹れてやったアイスコーヒーだと気付いたのは俺の足元へコロンと転がった氷の冷たさを感じたからだった。

立ち上がり空のグラスを俺に向かって構えたまま俯く葵依のもう一方の手がテーブルの上で固く握り締められる。
ハッと息を呑み葵依に手を伸ばそうとするも顔を上げた葵依が俺をきつく睨むそれに遮られた。


「一也先輩は、」
「っ……」
「私が何を言われても傷付かないと思ってるんですか?」
「!」
「私が、寂しくないと思ってるんですか……?私が!!…っ、不安じゃないと思ってるんですか!?」


こんな葵依を見るのは初めてで絶句する。何か言ってやらなきゃいけねェと頭を働かせるもののこんな時に限って全然動いちゃくれねェ。
そして俺は今目の前にスコアブックでも持ってこられたらそれには頭を動かせるんだろう。自分で自分に幻滅しちまうぐれェ野球バカだ。

葵依の目には涙は浮かんじゃいねェがその分怒りに満ちている。初めてだ、そういや。葵依が俺に怒るのは。


「ちなみにシェアハウスの事は何度も話そうとしましたよ。一也先輩が私の留学するその直前までキャンプで連絡もまったく着かなくて帰ってきて話そうと思っても雑誌の取材とかテレビ出演で忙しそうで、私と居れない時間を綺麗なモデルさんや素敵なアナウンサーと過ごしてることを面白くなく思うのはおかしいですか?なんとか一緒にいる時は楽しく過ごしたいから我慢したその反動で言うことを忘れてしまっていたのは100%私が悪いですか?」
「ちょ、待っ…」
「日本人統計的に一也先輩のことを知ってる人口の多いこの国で常に一也先輩は女性に人気で更に言えば芸能人で一也先輩と結婚したいとまで公言してる人がいることに私が不安に思ってないわけないです。割合でいえばアメリカ全土人口集めても私に言い寄る男性の方が圧倒的に少なくてもっと言えば1人暮らしよりもずっと安全です女友達もいますし」
「オイ…」
「それともアメリカという銃社会で私が1人暮らしする方が安心ですか?シェアハウスの友達の中にはお父さんの友達の娘もいるんです。不安の割合で言えば圧倒的に私の方が大きいはずなんです」


怒涛で止むことのねェディベートに呆気に取られながら今更思い出した。
葵依が高校3年の時、ディベートの大会で高校の部で全国に進み高い成績を残していたことを。

やべェ……何を言っても勝てる気がしねェ……。

じわじわと追い詰められじわりと嫌な汗を掻く。ごくり、と息を呑む俺を鋭く見据える葵依がやっぱり傷付いていないのだと俺は思っていたのかもしんねェ。
次の瞬間まで。


「それに……もっと言えば、私の方が先に一也先輩を見つけたんです」
「葵依…?」
「いつまでも……私の方が好きが大きいです」
「!」
「っ…しばらく1人にしてください!!」


会える時間が少な過ぎて、選び取るしかなかった最善の中には相手に不満や不安をぶつけることは含まれちゃいなかった。
俺たちはもしかしたらどっか似てて、同じような最善を選び同じような不安を積み上げちまったのかもしれねェな。

葵依は震える消え入りそうな声で紡いだその不安は俺たちが付き合った時からずっと葵依の心に根を張っていたんだろう。俺が引き止める間もなく寝室に飛び入ってっちまった葵依のいなくなったリビングはアイスコーヒーを被った俺には寒すぎて、ぽたり、とコーヒーの滴る髪の毛を掻き上げ冷房を消した。


「くそ……」


俺ばっかじゃねェ。アイツは自分ばっかだと思ってた。
自分が言っちまった言葉を改めて思い出し頭を抱える。結局その日ドア越しになんて言葉を掛けても、放っといてください、としか返ってこず貴重なオフを潰しちまったのだった。



伸ばせなかった手
「おーい、飯作ったけど…」
『話し掛けないでください』
「食わねェとだろ?」
『空いてませんから』
「腹の音聞こえてんぞ?」
『オナラです』
「こらこら」


続く→
2015/09/28


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