兄貴が大切にするあの子の話し




彼女の気持ちは直接確かめたことがない。もちろん兄貴のそれも。
当たり前のようにあったから不思議とも思わず、ただ彼女が兄貴を目をキラキラとさせて見つめるのを俺は違和感も持たず横で眺めていたわけで。
それだからかある日突然そんな日常が切れた時は大袈裟と言われるかもしれないけど半身がなくなったとさえ感じた。
そして俺の半身は未だ戻らない。


「あれ…?」


びゅん、とよく知るその姿が目の前を横切る。休み時間、移動教室のために降谷くんと歩いていた廊下でのこと。高校生ともなると廊下をあんな風に全力疾走する姿もなかなか見られなくなるもので、なんだろう?、と怪訝そうにするのは僕だけじゃない。
けれど僕にはその大勢とは違う理由でその姿を追い掛ける理由があって、ちょ…ごめん!、と降谷くんに自分の教科書を押し付けるようにして預けてその姿を追った。
相変わらず速いんだから……、そう思いながら頭に思い出を浮かべると顔が緩んだ。本当に楽しかった、リトルで野球をやっていた時のこと。
今ももちろん楽しいし野球は大好きだ。これからもきっと嫌いになることなんて考えられないけど、あの頃の思い出は例えばこうなるまでの原石みたいなもので。磨きに磨いて今がある…、なんて少しクサいかな?
でもなんて言われようと兄貴と僕と、結衣とで野球を出来ていたあの頃は何物にも変え難い思い出だ。


「はあ!?上履き?」
「倉持先輩貸してください!」
「貸してって、お前…」
「次体育なんですけど…っ、上履きないと…!」
「あぁ…あの教師な。めちゃくちゃ忘れ物にうるせェんだよなぁ」
「そ、そうなんです…」
「ふーん……」


にしても、と顰めた声で続けるのは倉持先輩だ。2年の教室のある階段を上がりきったところで2人の会話が聞こえてきたから僕は咄嗟に階段横へと身を隠した。なんで隠れる必要があるのか、って結衣は僕が追い掛けてきたことを知ればきっと良い顔はしない。兄貴が青道に行くことをどうして私に教えてくれなかったのかと結衣が僕を責めて、僕が無言で返したあの日から僕らの関係は幼馴染みという関係からただの同じ中学出身というものに変わってしまったのだから。


「自分のどうしたんだよ?」
「………」
「…しょうがねェな。オラ、ついて来いよ」
「え?」
「俺のは学年のライン入ってっしでかいから履けねェだろ。部室に先輩たちが残してったやつの中に確か小さいのがあったからよ、それとりあえず履いとけよ」
「あ、ありがとうございます」
「コロッケパン1個な」
「えぇ…。半分こしてくれますか?」
「嫌だ。てかお前、スリッパとか履けよな。汚ねェな」
「う…慌てちゃって……」
「……ま、いいや。行くぞー」
「はい」


2人の声が少しずつ遠くなるのを聞きながら僕が階段から顔を出せば廊下の向こうに倉持先輩の後ろを歩く結衣が靴下で歩いているのが見えて眉根を寄せた。
今は3時限前。
朝からないわけじゃないんだろうからそれが余計に引っ掛かって倉持先輩に小突かれながら廊下の先の階段へと姿を消すのを見遣りながら拳を握り締める。


僕はあの時どう言えば結衣を傷付けずに済んだのかまだ分からない。もしかしたら兄貴も少なからずそう感じて結衣に何も言わずに、僕が漏らすのを許さずに青道へ行ったのかもしれない。
人見知りが酷い上に不器用で、それでも野球を介せば人が変わったかのように人懐こい結衣の姿は何も知らない人が見れば人を選んで態度を変えているしたたかな様に見えるらしく兄貴が構うことも相俟って結衣は当時からかなり嫌がらせを受けていた。構わなければ結衣は傷付くし、構えば傷付けられる。結局僕も兄貴も結衣から離れることを選んだのだけれど…正解だったんだろうか?
それに上履きも、もしかしたら……。


「春市?」
「!あ、兄貴」
「何してんの?そこ、2年の廊下だけど」


移動?、と聞いてくる兄貴を振り返れば伊佐敷先輩や増子先輩と一緒で兄貴もどうやら移動らしい。手に持つ教科書など一式を見て自分が手ぶらなのを思うと容易く頷く出来ない。にこりと深くなる兄貴の笑み。もしかしなくても僕が移動だとは思ってないらしい。


「あ……実は、」
「結衣?」
「!……うん」
「ふーん…」
「オイ」
「あぁ、先に行っててよ。純、増子」
「…何かあったら言えよ」
「うがっ!」
「うん。もし遅れるようなら先生に上手いことよろしく」
「任せろ」


パン、と強めに教科書で兄貴の肩を叩いた伊佐敷先輩が僕に一瞥を投げてから階段を増子先輩と上がっていく。
それを目で見るとも見ていれば兄貴から声が掛かる。


「結衣は?」
「あ…倉持先輩に連れられて部室に…」
「倉持?」
「…結衣、上履きがないって。たぶん…」
「上履き、ね」


ポケットに手を入れて廊下を見据えていた兄貴は、ふーん…、と思案げに声を間延びさせて、春市、と俺を呼んだ。


「お前は授業に出な」
「え…」
「じゃあな」


……昔っから、兄貴はああだ。
僕が何を言う前に結衣に何かあったと分かるしその逆もしかり。見えないところで僕たちを守ってくれようとしていたのだとかなり後になってから知ったのだけれど。そのくせその優しさが表に出ない…なんて言ったらコンマ何秒かでチョップが降ってくるから言えない。


「っ……兄貴!」
「……なに?」


足を止めたものの兄貴は振り返らない。
いや、振り返ってほしいわけじゃないんだ。僕も、結衣も。いつだって。


「…そろそろ、迎えに行ってあげてよ」
「………」
「手遅れになったりする前に」
「……なにそれ。生意気」


本当に本当に、早く手放してしまった結衣を迎えにいってあげてよ兄貴。すべて1人で完結させてしまわずに、結衣はたぶんもうそんなに弱くないから大丈夫だよ。

そんなようなことを継ぐ僕に兄貴は何も返さず後ろを向いたままヒラヒラと手を振った。僕はその背中をしばらく見ていたわけだけど廊下が授業に向けて動き出す気配を感じて移動教室へと向かう。授業をサボッたりして野球部の看板を汚すようなことは、やっぱりしちゃいけないよね。

ほら、こんな風に僕らは野球が何よりも大切だ。きっと結衣と比べてもどちらかを選べないくらいに。
僕は分かる。
自分を試したいと大切なもの何も持たずに青道に来た兄貴だから、きっと結衣も兄貴が遠ざけた内の1つだった。


「………」


『嫌い…っ、嫌い嫌い!!亮ちゃんも春市も…野球に取られて…。嫌い…!2人も野球も、嫌い…!』


「小湊ー。聞いてるのかー?」
「………」
「小湊!!」
「!っ…は、はい!!」


まずい…!全然聞いてなかった…!!

ガタンッと音を慌てて立てて立ち上がったものの黒板と訝しげにする先生とくすくすと笑うクラスメイトからはまったく僕を呼んだ理由が分からない。


「聞いてなかったのかー?珍しいな。野球で大変なのは分かるがメリハリをつけろよー」
「はい!すみません!!」
「じゃ代わりに降谷ー。降谷?……堂々と寝るな降谷ー!!」


思い出そうとすれば頭に簡単に結衣のあの時の声が響いて授業中はまったく集中できなかった。
たっぷり授業中寝た降谷くんは今度は、お腹空いた……、と呟くものだから僕も喉渇いたし一緒に行くことにする。それにしても降谷くん、かなりの有名人だ。この名門で先発を投げることはすなわちそうなることなんだろうけど、擦れ違う女子たちに興味津々な目を向けられるも少しも気付いている様子がない。うーん、不思議な人だなぁやっぱり降谷くんは。


「あ……」
「え、なに?」
「窓の外…。小嶋さんと小湊先輩だ」
「え!?どこどこ!?……あ、本当だ」


廊下の窓から外を見下ろす降谷くんの視線を追ってみれば笑いながら歩く倉持先輩とその後ろを歩く結衣。それから倉持先輩の隣に兄貴だ。

やっぱり、あの2人はああして笑っているのがしっくりくる。好プレーを決めた時、グローブを合わせる兄貴と倉持先輩。その姿をベンチで見ながら羨ましいと思ったことは口にしたことはない。


「なんか、楽しそうだね」
「うん…僕も今そう思ってた」


上履きの件は解決したのかな?ていうか今戻ってくるって…今までどこにいたんだろう?あの3人。


「……ねぇ」
「うん?」
「好きなの?」
「……はあ!?」
「あの3人の内の誰か」
「いやそれも意味分かんないけどどうしてそんなこと思ったの!?」
「なんか凄く羨ましそうに見てたから」


びっ、くりした…いや、今もしてる。
降谷くんにこんなにばっちし心境を当てられちゃうとか僕はどんなに顔に出していたんだろうか。しかももう興味なさげに歩き出してるし!!


「羨ましい、か…。そんな事言ってられないよね」


兄貴の3年間はもう終わってしまって、僕はまだまだ先がある。羨ましいだなんてそんな贅沢言ってられない。僕だってこれからなんだ。倉持先輩との連携も、結衣とも。

すでに先を歩く降谷くんを追い掛けるように足を進めた時に擦れ違った上級生が僕を見て一瞬身構えたように見えて首を傾げ通り過ぎたんだけど、その理由はすぐに知ることになる。


「ビビッた…。似てたな」
「あれだよ、小湊先輩の弟」
「あぁ…。にしても容赦なかったよな、小湊先輩と…あー…と、あのヤンキーみてェな…」
「倉持だろ?野球部のさ」
「あーそうそう。相手女子だってのに追い込み方がハンパなかったな…」
「無言の圧力、ってーの?絶対敵には回したくねェよな」
「確かに」


………。


「やっぱり、ちょっと羨ましいかな」



兄貴が大切にするあの子の話し
(は、春っち!結衣見なかったか!?)
(栄純くん、どうしたの?結衣なら中庭を倉持先輩たちと歩いてたけど)
(そ、そうか。なら当分は教室に返って来ねェな。よし!)
(一体どうしたのさ?)
(……聞いて驚くなよ?)
(うん?)
(俺、病気かもしんねェ)
(……はい?)
(結衣を見るとこう、触りてェ!、ってなるし心臓破裂しそうになるし夢にまで出てくんだよ!!どーなってんだコレ!!)
(……とりあえずあんまり口にしない方がいいよ栄純くん)
(じゃあ行動に移せばすっきりするんだな!?)
(………)
(いてェ!!は、春っちのチョップ……!)


―了―
2015/04/19




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