後朝の甘い嘘




「柔らけェ…」


思わずそう零した。目の前の白く滑らかな肌に指を添わせゆっくり擦る俺から零れた言葉は時分の耳で聞いても甘ったるく優しく感じ、思わず苦笑する。零れたってよりは溢れたっつー方が正しいか。こういう如何せん目には見えねェ心象だとか心の内だとかは言葉にし難く表しにくいが、あえて言葉を探して表現すんならアレが近い。沸騰した鍋。ブクブクと音を立てて沸いている湯の中に茹でる対象を投入する。しばらく他の作業をして放っておくんだが沸騰した鍋は今にも吹きこぼれそうになってて、加熱しっぱなしなもんだからついには勢いよく溢れる。あんな感じだな。ちなみに麺を茹でる時に起こる吹きこぼれはデンプン質が原因で…ってのはさすがに話しが脱線しすぎか。まぁとにかく俺が他の何かに没頭しようが加熱が緩まるわけじゃなく、確かに俺はこの感情を愛おしく思ってることに間違いないと只今実感真っ最中というわけだ。
頻繁に溢れる感情を受け止めるこの子にとってはそれが幸せであるか大変であるかは、まだ俺には図り兼ねるわけなんだけど。


「ん……かずや?」
「わり。起こしたか?」
「…んーん。大丈夫だよ」


甘ったりぃ声…。掠れて舌足らずの声で言って俺にふわりと微笑み、何時?と身体を捻ろうとするから俺は枕元にあるスマホに手を伸ばし確認してやる。5時か。それが分かったのか、ありがと、と小さく言ってもぞもぞと俺の腕の中に入ってくるとか可愛すぎて胸がいっぱいになる。口にしたりはしねェけど、柄でもねェし。


「4時23分。まだ寝てろよ」
「一也は?」
「寝るよ」
「ん…。行かないでね…」
「!…うん、いるよ」
「そっかぁ……ふふ」


嬉しい、そう言って綺麗に弧を描く唇に1度触れるだけの稚拙な口づけをして、おやすみ、と腕枕してねェ方の手で顔にかかった髪の毛を避けてやる。寝るとは言ったものの、久し振りに会った恋人の愛おしさを夢の中の俺にだってくれてやるわけにもいかねェよな。

野球を始めて数十年。
4年前、プロの世界に足を踏み入れ2年目は出来過ぎの新人王を獲得。そうはいっても自分自身で運が良かっただけだと分かってる。チームの中にはバケモンみてェな人たちがたくさんいる。キャンプや日々のトレーニング、打者との駆け引きに投手のクセやリードの仕方など覚え学び自らの血肉にするには文字通りの血反吐を吐くほどの想いをしなきゃならなかった。
悔しさも惨めさ、時に孤独を両手から溢れるほど抱える俺をこの子はどう見ていたのか。怖くて聞けたもんじゃねェ。
この子とは、俺が今ベッドの中で一緒に微睡む亜依のことだ。

なぁ…、と問い掛けたくはなるけどな。
こっちが心配になるほど物分りがよく、我儘の1つも言ってこねェ。よくあるよな。仕事と私のどっちが大事?…ってやつ。そういうのもちょっとは覚悟してたんだが亜依の口から恨み言の1つも聞かされたことがねェ。


なぁ。俺は野球ばっかの毎日で。むしろ野球を取り除いたらお前しか残らねェようなつまんねェ男だと自分でも思う。
だからこそ聞きたくなる。亜依は俺といて幸せか?
高校の時に俺は何度もお前を諦めようとしたよ。野球ばっかになるのは分かってる。脇目を触れるほど器用でもねェから、多分連絡も頻繁に取れねェし、俺がいつも見てて癒やされる笑顔にだって俺自身がしてやれることはそう多くないはずだ。だからこそ手を伸ばしちゃ駄目だって、何度も何度も伸ばした手を引っ込めてその手にバットを握りキャッチャーミットをつけ、スコアブックを捲り、後輩の背中を押した。
けど、野球の他に諦めてきた色んなもんとは圧倒的に違う亜依の存在は俺が野球の他唯一この手にしたいもんだったんだ。
それを知ってか知らずか亜依は俺がバットを振れば側でそれをこっちが赤面しちまうほど愛おしそうに目を細め見ていたし、キャッチャーミットをつければ試合へいつも応援に来た。スコアブックを見ている時は俺の隣で本を読み、後輩の背中を押す俺の背中を、お疲れ様、とポンと叩いた。
友達以上で恋人未満。ぬるま湯に浸かっているようで心地良くもあり渇いた喉に塩を塗りたくるようでもある俺たちの関係は高校を卒業しても続き、時々メールをして時間がありゃ飯を食い精一杯繋ぎ止めた。
好きなんだ、すげェ好きだ。
俺自身からさえ大事に守ってきたこの子が大学へ進学し、俺が全くいない世界へと行ってしまった時の焦燥っつったらなかった。だけど沸き上がる嫉妬と一緒にそれをぶつけるより俺はこの子と優しい時間を過ごすことを選んだ。醜い感情を帳消しにしてもらいお釣りを渡すほどの愛おしさを貰えるからこそできるわけで、きっと俺にとってそれは亜依じゃないとあり得ない。
どうりでこの子以外を考えてみても誰も頭に浮かばねェはずだよな。最初から、たぶんいや絶対に最後まで俺にはこの子しかいないんだろう。


色々考えてれば頭はますます冴えてくると同時に亜依の規則的な寝息を聞きながら胸が愛おしさでいっぱいになっちまう。堪らず、ぎゅう、と抱き締めると亜依は俺の腕の中でもぞもぞと身動ぎ心地よい場所を見つけたのか間もなくまた身体野重さを俺に預けた。
長い髪の毛は俺の記憶にある限り1度も短くしてねェ。亜依は自分は月並みで俺の周りで見られる女子アナやタレントなんかには敵いやしないと言うがどうかそんなことを言わねェでほしい。俺にしてみたらお前は唯一の可愛いと思える女の子だよ。……と、口に出来ない俺は、厚化粧は嫌いなんだよな、などとしか言えなかったりしてとやかく言えた立場でもないんだが。
髪の毛に指を梳き入れて何度もそれを繰り返す。時々後頭部を撫でると小さく身動ぎすんのが可愛くて思わず笑いを零す。起きてほしいような、このまま大人しく俺の腕の中にいてほしいような幸せで甘い葛藤だ。


「…眠れないの?」
「わり。今度こそ起こしたな」


半分ぐらいは起きてその目で見てほしかっただけに些かわざとらしいか。
大丈夫、とやっぱり掠れた声は数時間前まで散々想いを受け止めさせた影響みてーなもんで本人も気付いたらしい。あーあー、とマイクテストのように声を出して喉に手を当て戯けて笑ってみせた。

俺も、ふはっ!と笑えばイタズラ成功とばかりに嬉しそうにしないでくれねェかな。可愛くて自制がしんどい。

こんな気持ちになるたびに、愛おしくて優しくすることと、同じように愛おしさに意地悪しちまうこととは表裏一体であると納得する。


「水飲むか?」
「んー。今はいらない」
「すげェ声掠れてっけど痛くねェの?」
「うん、大丈夫。一也は?」
「んー?」
「眠れないみたいだから」
「勿体無ねェからな」
「良いプレイは良い睡眠からだよ」
「どっかで聞いたことあるな」
「CMで一也が言ってた」
「あー道理で」
「せっかくスポンサーさんから枕貰ったのに使わないの?」
「うん」
「合わなかったの?」
「ある意味な。亜依と寝る時に小さすぎ」
「!…それはスポンサーさんに大きなサイズの提案が必要だね」
「もう提案済み」


そう言ってニッと笑う俺に目を丸くした亜依が楽しそうに笑うのが可愛くて堪らず、ぎゅむ、と抱き締めれば、きゃー、と嬉しそうに俺の胸元に擦り寄ったりするからますます腕の力を弱めて開放してやれねェんだけど。


「……っ、はあぁ」
「やっぱり何か悩み事?」
「ん?いや」
「大きな溜息でしたよー」


そう言う亜依が俺の胸元から顔を上げて唇を摘んで、白状しろー、なんて優しく笑いながら言う。いや本当に悩みなんかじゃねェんだ。けど心配されるのも心地が良い。微笑みながらも揺れる瞳に心配の色が広がってるからそうとばかりは言ってらんねェけど。

俺の唇を摘む亜依の手に自分から口付けて、実は、とわざとらしく重苦しい声色を出してみる。いちいちこうして亜依の心配を煽るみてェなことをして、俺ってガキ?


「幸せなんデス」
「!」
「逃したくねェけど、定期的に出さねェとお前にまた受け止めさせちまうし」
「…うん」
「溜息で逃そうとすんのは憂いとか悩みとか、そういうのだけじゃねェんだって亜依と居ると分かる」
「っ…うん、……う、んっ」
「こらこら。なぁーに泣いてんだよ」
「し、幸せなんデス」
「ふはっ!……うん。俺もデス」


真ん丸の瞳が常夜灯の灯る薄暗い部屋の中でキラキラと光るのが綺麗で、零れた涙を指で拭ってやればどこかうっとり恍惚としながら俺を見つめるから息苦しくなるほど心臓が跳ね上がる。
あー…もうこうなりゃ収拾なんてつくはずもねェ。額や瞼、頬に鼻などあちこちに口づけを落とし高揚して乱れる息を紛らわそうとしたってその1つ1つに身動ぎされればもっと反応が見たくなるのは悲しいかな必然というか男のサガってやつだ。

誘うように何度も唇の横に口づけて、亜依の応えようか迷う瞳が俺を見つめれば勝手に顔が緩む。1度唇を重ね、また亜依を覗き込むように見つめれば甘ったるく俺を、一也、と呼ぶ掠れた声が合図になる。

一也、か。
この子を"亜依"と名前で呼んだ時のことを俺は今でも鮮明に覚えてる。高校3年の、まだ夏が始まる前。
些細なことで喧嘩した。亜依はすげェ怒ってたから亜依にとってはきっと些細じゃなかったんだろうけど。お互い口も聞かねェのに俺ら野球部の練習を見ていた亜依を送ってくと寮を出る俺を笑ったのは倉持。
そんな最中に呼んだ初めて呼んだ名前に、一瞬で仲直りとなったあの日は俺が初めて名前を呼ばれた日にもなった。


被さり熱に任せてキスをして、絡まる舌と柔らかな身体から衣服を剥く行為に理性が少しずつ剥がれるのを感じながら次に時計を見た時も少し時間を早めて言おうなどと思った。



後朝の甘い嘘
(なぁ)
(………)
(まだ怒ってんの?)
(……怒ってます)
(だからいいって。あんなん言わせときゃ)
(違う)
(は?なにが?)
(違うよ。私が怒ってるのは御幸くんをヤリチンとかゲス野郎とか)
(ちょ、待って。お前がその言葉を言わないでほしいっつーか…)
(そんな風に事実無根なことを言う人も許せないけど)
(だから…)
(もっと許せないのは御幸くん)
(俺が?…えーっと、何かした?)
(言われて別に怒らないし否定もしない!私はそれが悲しい!)
(!)
(だから私が怒ることにしたの!)
(っ……なんだそれ。そんなん…)
(………) 
(…亜依)
(!)
(…サン)
(さん)
(わ、悪いかよ!女子のことを名前で呼ぶなんかこちとら初めてだっつの!)
(初めて?)
(そうです)
(………)
(あー…嫌なら、)
(一也)
(…へ?)
(嫌ならやめるけど)
(!っ……別に)
(じゃあ今日から一也って呼ぶ!一也が怒らない怒るべきことは私が怒ってあげる!)
(ふはっ!はっはっは、なんで自慢げ?)
(自慢だもん)
(そ?…そっか、うん。じゃ、末永くよろしくな)

ー了ー
2020/07/25





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