第壱話
遠い遠い音が聞こえる。
懐かしい、それは綺麗な声音。
誰かが呼んでる声がする。
それでもそれは、吾の名前は決して呼ばぬ。
*** 住み着いていた家から追い出され、空腹の中さまよっていた吾(われ)に魚を与えてくれた恩人、綺麗なあやかしの主(ぬし)へのお礼として、荷物持ちを引き受けてから一刻ほど過ぎた時のことじゃった。
無言で歩くのもなんだか気が引けて、じゃけと話しかけるのもなんだか失礼な気もして、もぞもぞしておったのじゃけれど。不意に、後ろに気配を感じたのじゃ。
(…………?)
後ろを見ても、何もおらん。誰も居らん。
変じゃのうと何度も確認するが、何度振り返っても結果は同じじゃった。
確かに気配はするのじゃがなぁ……。
かさかさと音もするし、じゃりじゃりと草履が砂をなめるような音もする。
誰かが絶対居るはずじゃのに、誰も居らん。
ぶ、不気味じゃ……。
「のぅ、ぬしやい……」
意を決して吾は、目の前をたったと歩いていってしまう主に問うた。
「なんだい」
足が速くて、小走りで追いかけないと置いていかれてしまう。そんな危うさにちょこっと不安だった吾の顔を、綺麗な主が振り返る。
夕日が逆光になって、少し、その顔が怖く見えたのじゃった。
「あ、いや……その……」
「なにさ。荷物が重いなら……」
「いや、荷物は重くないのじゃ、けど……」
主の言葉を遮って、慌てて否定するは、怖かったからじゃ。
荷物をおいて、消えろと、言われてしまうんじゃなかろうかと怖かったからじゃ。
でも、でも……。
しかしそのときふと、思ってしまったのじゃ。
後ろに隠れ潜むものの、脅威とはいかほどのものじゃろうかと。
吾は貧乏神。
貧困や堕落を招く者。
じゃが、もしその身の運さえ喰らい尽くすなら、かの人の、危険を招くことになりやしないかや。
ぞわりと、しよる。
置いていかれるのは嫌じゃと、思ったところで既に、吾は罪深いんじゃなかろうか。
「な、なぁ主よ」
前を歩く主のあとを追い掛けていた足を止めて、主を呼び止めた吾を、主は不思議そうに、不機嫌そうに再度振り返る。
夕日に照らされる、冷酷なまでに美しい顔が見えて、吾は、吾はそこで、決心したのじゃった。
このお人の、危機となる訳にはいかぬ。
後ろの脅威は吾が引き受けてしまおうと、吾はその瞬間、決意したのじゃった。
多少大袈裟かもしれぬ。
じゃが、これが吾なりの命の恩人への、せめてもの礼じゃ。
荷物が重いからと、ここで荷物持ちを降りて後ろのものを確認する。
確認し、どうにかして主に近づけさせないようにしなければならぬ。
「吾には、やはりこの荷物はおも……」
吾なりに勇気を振り絞ったその時、後ろの気配にぞわりと全身が総毛立ったのを感じたのじゃった。
巨大な何かが、後ろに立ったのを感じたのじゃ。
荒い息遣いが、うなじを舐めるのがわかる。
巨大な気配が、背後で息づいている。
「おやぁ、送り雀。いつからそなた、このようなものを連れるようになったんだい」
後ろに立つは、巨大な牛じゃった。
牛の体に鬼の顔。
そんな巨大なものが、にゅうっと森から現れて、吾の背後に立ったのじゃった。
そして、枯れた女のような声で、言うのじゃ。
「めんこいのぅ……わらわが喰ろうてやろうか」