疲労少女と齋藤兄弟

 例えばね、と皐月は隣に座る青年に言った。

「例えばね、お気に入りの傘があったとするじゃない?」

 それがね、壊れちゃったらショックでしょう?と、皐月は曇天の空を見上げながら言った。

 ポツポツと、雨が降っている。

 その内本降りになって、ここから出られなくなるだろうと思った。

「そりゃ、ショックなんでない?」

 青年はさして興味もなさそうにそう言った。
 ひどく、面倒そうな声だった。

「そうでしょう? でもね、ショックじゃなかったの」

 皐月は傘が壊れたことなど、まるでどうでもよかった。
 ただ、面倒だと思っただけだったのだ。

「そっちの方が、ずっとショックだった」

 お気に入りの傘が壊れても何も思えない自分。
 それが、ひどく冷たく、まるで機械のようだと思った。
 都会に染まってしまったのだと思った。

「例えば、道端で猫が死んでたとするじゃない? それを見ても私、多分邪魔だとしか思えないんじゃないかと思ってね」

 それがなんとも、ショックだったのだと皐月はいう。

 青年は都会の中の公園の、雨の凌げる屋根の下で、そんな皐月の言葉を煙草をふかしながら聞いていた。

「ふーん」と、まるで興味がなさそうに聞いていた。

 雨が降りそうだったから、傘が壊れたから、朝ごはんを食べなかったから、皐月は会社をサボった。

 何でもない金曜日。
 意図しない三連休。

 そんな早朝の逃避行に、新宿の御苑を選んだ。

 広い緑の中、壊れた真っ赤な傘をさして歩きたくなったのだった。
 でもそこには先客が居て、禁煙エリアで堂々と喫煙している青年が居て。
 皐月はなんとなく、その男に話しかけている。

「通帳を見てね、自分の価値を数字で知るの」

 その虚しさとも、嬉しさともとれる行為を、皐月は何でもないように機械的に眺めるようになってしまった。
 そこに感情が、伴わなくなってしまった。

「数字で判断される居心地の悪さも、評価されている嬉しさも、何も感じなくなっちゃったんだ」

 それが何だか、本当にショックだった。

 ふと立ち止まればわかる、雨の匂い。
 髪をうねらせる、漂う水分。
 生き物のせせらぎ。
 地球の呼吸音。

 それが、一切忘却された日常が、ショックだった。
 そんな中で、平然と生きている自分が、ショックだった。

「私、まるで都会人だわ」

吐き捨てるようにそう言えば、青年ははじめて少しだけ笑った。
 笑って、皐月を見て、そして、また笑う。

「宇宙人みたいね」

「宇宙に連れ去られた哀れな宇宙人だもの」

「ふはは」

 どっちがどっちだか、わからないねぇと青年は笑う。
 本当にそうね、と皐月も少し笑った。

 煙草の香りが、ふらりと漂う風が心地いいと思った。

 こんな昼下がりは、久々だった。
 多分、本当に、久しぶり。

 知らない、会ったこともない男の人と話していること自体が、なんだか奇跡のように思えた。

 普段の都会な皐月なら、他人は見えていないも同然なはずだったから。

 こんな日も悪くない。
 悪くない。

「雨の音が、こんなにも近いのは久しぶり」

「普段は忙しいの?」

「満員電車に揺られて、後はオフィスに缶詰だもの」

「そりゃ息苦しいね」

「本当に。まるで金魚みたい」

「金魚?」

「狭い鉢の中で、生きるだけ」

「生き死にすら、金魚は支配されてるけどね」

「そうね、本当にそう」

 都会のシステムに生かされて、都会のシステムに殺される。
 管理された水槽で、飼われる存在のような気がした。
 私たちは今、水面で口をパクパクさせているのかもしれないなと、そんなことを思う。

 皐月にとっての自由は、好きなように生きることだった。
 好きなことをして、好きなものに囲まれて、ただ満足に生きることだった。

 でもそれは本当に難しいことで、好きなものを買うために、好きでもない仕事をするようになった。

 毎日毎日パソコンと向き合って。
 カタカタとゆびが奏でるタイピングの音を聞いて。
 これがいつまで続くのだろうかと、思っていた。

 定年まで、約13,140日。

 その1日1日を消化しながら、まだかまだかと思っている。
 心が、急いてくる。

 本当ならやりたくない。
 それをするのが仕事だと、誰かが言っていたような気がしたけれど、そんなものは言い訳に過ぎないように思えた。

 誰もやりたくないけれど、必要だからそう思うようになれ。
 そんなところだろうなと思った。

 大人になるってことは、もしかしたら心の殺し方を覚えるということなのかもしれない。

 自分の自由を殺して、感情を殺して、時間を殺して、想いを殺して。

 私はいつ、自らを殺し尽くすのだろうか。

 子供の頃から、社会という波に殺されて行く。
 それをただ、見ないようにする術だけを身につけていく。
 それを、生きると言うのかもしれなかった。

 少し立ち止まって、世界を見てみたら、それも変わるのだろうかと思う。 

「例えば、高いビルの屋上から世界を見てみたら、何か変わると思う?」

 必要性すら感じず、雨が降れば鬱陶しいとさえ思った都会の空を、今まで見ようとも思わなかったそれを水平に眺めたら、心が、動くのだろうか。

 消えてしまった、殺してしまった感情が、息を吹き返すことは、あるのだろうか。

 機械みたいに、錆びた心は軋むのだろうか。

 何を求めているのかもわからないままに、そんなことを皐月は思った。

「なんだか、死にたいみたいね」

 青年が、綺麗に微笑みながら、そんなことを言った。

 衝撃的な言葉であるはずのその言葉も、今の皐月の心には、納得しか与えなかった。

 だから皐月はそれに、「そうね」とただ、頷く。

「死ぬことすら怖くないほど、私都会に殺されちゃったんだ」

 昔は好きなものがいっぱいあって、小さいことに感動を覚えた。
 星を見てロマンを感じて、虹を見て夢を想った。

 そんな単純な、大切なものを殺されてしまった。
 殺してきてしまった。

 自らの人生に。
 自らの命を捧げてしまった。

「じゃあさ、死んじゃえばいいんじゃない?」

 青年はさも、どうでもよさそうにそう、皐月に言った。

 それは、責めるようでもなく、怒るようでもなく、本当にどうでもよさそうな声音で、皐月はなんだか笑ってしまった。
 ひどいことを言われているはずなのに、笑ってしまった。

「心が死んでるなら、もう殺せるのは体しかないんだから」

 まあそんなの、別に都会じゃなくたって殺されるもんだけどさ、と青年はあくびをかみ殺す。

「どこにいたって、どこに行ったって、死ぬもんは死ぬっしょ」

 でも、と青年は言う。

「自分の心を生かすも殺すも、結局は自分なんだから、あんたのそれは自殺なんじゃないかなって、思うけどね」

 そう言って、ふぁあとひとつ、あくびをする。
 そんな青年を見て、皐月はなんだか凄いなぁと思っていた。

 はっきりと紡ぐ言葉が、心にグサグサと刺さるようだった。
 都会を言い訳に、逃げている自分を、責めるでもなく励ますでもなく、無関心を向けながら、それでもどこか温かい。

 温かい、言葉のように感じた。

 静かに雨が降るだけの空間。
 しとしとと綺麗な静寂と、柔らかい拘束。

「仕事、合ってないのかなぁ」

「さぁ?」

 どうでも、いいんじゃない?

 そう言われることに、心地よさすら感じるひととき。

 ああ、私は今、生きているのかもしれない。
 そんなことを思う。


「そっか……」


 そう言って、皐月はベンチから立ち上がった。

「……どしたの?」

 青年は少しだけ驚いたように、それでも平然と煙草を咥える。
 新しいそれに、銀色のジッポでゆっくりと火をつけた。

 その動作が本当に、綺麗だと思った。
 綺麗だと、思えた。

「私、帰るよ」

 どこに、とは言わなかった。
 青年も、何も聞かなかった。

 実家に帰って、お母さんの手料理を食べて、この疲れた心を癒して、もうあまり傷つかないようなところを探して。
 そうしたらきっと。

 きっと、大丈夫だ。

 私は自殺して、今産まれたんだと、皐月はなぜか、ちょっと清々しかった。

 きっと、心は何度でも死ぬんだと、皐月は思う。
 きっと心を殺して殺して、刺して貫いて抉っているのは、自分の牙で。
 その牙で心に甘噛みして甘えるのも、自分なのだと。

 心の源が、自分の中から湧き上がる何かなのだとしたら、なるほど心は不死身だ。

 皐月の突然の言葉に、しかし青年は一言「気をつけてね」と言うだけだった。

 思えば、何故こんなところにいるのか、何をしているのか、何をしていたのか、皐月は何一つ、この青年のことを知らない。

 何も知らないのに、勝手に救われた気がした。
 青年の優しい無関心に、救われた気がした。

 人と人の繋がりとは、本来こんな風に何気ないものなのかもしれない。
 人は勝手に傷ついて、勝手に癒される。
 そんな勝手な生き物なのかもしれないなと、思った。

「ねぇ、あなた、名前は何ていうの?」

「さぁ?」

「教えてくれないのね」

「どうだろうね」

 だって、もう二度と会わないからと、その瞳が言っている気がした。

 ふわりと紫煙が漂っていた。
 雨に打たれて消えていく煙は、綺麗だなぁと皐月は思っていた。

 世界はいつの間にか、キラキラしていた。

 雨に、無性に濡れたくなった。


「齋藤美月……」

「え?」

「俺のね、名前。気まぐれに教えといてあげるよ。疲労困憊の××さん」

「ありがとう」

 皐月はなんだか、初恋のような気持ちを抱いて、小雨に虹のさす空を仰ぎ見た。

 真っ赤な壊れた傘は、もう要らなかった。









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