「んーっ、だ…だめだ、届かない…」

ロッカーの上に乗っているダンボール。ナマエは先ほどからそれを掴もうとしている。だが彼女の身長ではそれを捕らえることは不可能で、小さな手は虚しく空を切るだけだった。

もしかしてロッカーも陽泉バスケ部用にカスタマイズでもされているのだろうか。身長が高い人が多い我が部ならそれくらいあり得る気がする。

そんなことを考えて思わず頬が緩みかけてしまう。ナマエはハッとして軽く首を振り、再びダンボールと格闘を開始した。何が何でもあれは手に入れなければ。もし指定時刻までに中身を広げてスカウティングの用意を整えられていなければ監督に竹刀で殴られるのは必至。

その時、スッと視界に自分の手ではない別の手が入り込んできて、それは危なげなくDVDの詰まったダンボールを取り上げた。後ろに誰か立っているのか、圧迫感を感じる。

「言ってくれれば手伝うのに。はい」

「あ…ありがとうございます、氷室先輩!」

ダンボールを手渡してくれたの先輩である氷室だった。彼は優しげな笑みを浮かべながらこちらを見ている。相変わらず吸い込まれてしまいそうな綺麗な瞳だ。女性に人気があるのも頷ける。

「しかし監督も相変わらずだな。こんな仕事までマネージャーに任せるなんて」

「いえいえ!皆さん練習頑張ってるんですから私だってこれくらいやれますよ!」

朗らかに笑いながらそう言うナマエに、氷室も同じように笑ってゆっくりと手を伸ばす。その手が彼女の頭に触れようかといったその時、ドアの開く音と共に、声が響いた。

「室ちん、何やってんの」

お菓子を食べていた手を止めて声の主、紫原敦は目の前の氷室を静かに睨みつける。いつもの気だるげな口調はそのままに、突き刺さるような声。それは確かに疑問の色を含んでいたが同時に怒りのような感情も内包されているようだった。

氷室は自分よりも身長の高い彼をやれやれと呆れにも似たため息をこぼしながら見上げる。
大好きなお菓子を食べるのを中断してしまうくらい、自分がナマエの頭を撫でようとしたのが気に食わなかったのだろうか。

彼を怒らせても何もいいことはない。むしろ大変だ。やがて氷室は彼女から離れてドアへと向かっていく。

「あんまり余裕のない男は嫌われるぞ、アツシ」

たったそれだけを言い残して彼は部室を出て行った。紫原はそんな彼の背中に僅かに憎らしげな視線を送っていたが、やがて手元のまいう棒を再び食べ始める。

サクサクと二人だけの部室に小気味よいその音だけが響き渡る。ナマエが何か言おうと口を開いても、こちらを射抜く紫原の瞳に気圧されてそれは言葉にならずに消えていった。

「ナマエちんはさー、室ちんのこと好き?」

慌てたように首を縦に振る。何もおかしな反応はしていない。氷室は先輩として頼りがいがあるし、何より優しい。嫌いと言えるほど自分の性格はひどくなどない。

「じゃあオレより好きなの?」

さっきよりも慌てたような表情でナマエは首を今度は全力で横に振る。

すると紫原は一瞬だけに眉間に皺を寄せて、空になったお菓子の袋を床へと投げ捨てた。ひらりと床へと落ちる袋。ただそれだけの光景なのにそれはひどくナマエの中に恐怖を植え付けた。

「あ…あの…紫原く…んっ」

がしゃんと腕がロッカーに押しつけられて無機質な音が室内に響く。それと同時に唇には暖かい何かが押し当てられる。ふわり香るお菓子の甘さに思わずとろけてしまいそうになる。

「んっ…ふっ…あ」

けれどそんな甘い感覚に浸ることを許さないかのように、彼は何度も何度も深い口づけを繰り返す。何とか抵抗しようと試みても大きな手が己の腕を捕らえているためできない。

もうわけがわからなくてナマエの思考はぐるぐると回ってしまう。いつもはこんなこと彼はしない。では何かいつもとは違う、自分が彼の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。そんなことを考えてみても、もちろん答えなんか出やしない。

ちゅっと、音を立ててやっと離れていった紫原。けれど彼はやはり何も言わず、ナマエの瞳を覗き込んでいるだけ。視線を逸らそうにも視界いっぱいに彼が映り込んでいて、最早逃げ場などなかった。身を屈めていても尚上から見下ろされるほど大きな彼。圧迫感は氷室の比ではない。

「あんまり室ちんに近寄っちゃダメ。あと触らせるのもダメ」

「え…?うわっ!」

瞬間ぐしゃぐしゃと大きなあの手で頭を撫でられる。それは先ほど氷室がナマエにしようとしてやめたこと。

驚いて紫原を見れば、彼は少し拗ねたようにこちらを見ている。途端に、彼女の中でやっと繋がった感覚。つまり、これは大きな彼の小さな嫉妬。それがわかれば、むくれている彼が何だかかわいらしく見えてしまうから不思議だ。おかしくて、ついつい笑みがこぼれてしまう。

「ふふ、ごめんね、紫原君」

「…室ちんに最近近寄りすぎ」

「ごめん」

「オレだってロッカーの上に手届くし」

「うん、そうだよね」

子供の不満のように次から次へと出てくる言葉にナマエはただ相槌を打った。そうやって全て受け止めて、同時に、その言葉の裏に込められた確かな純粋な想いを感じたかったから。

そうして全部言い終わった彼を優しく見つめれば、紫原は強い力でナマエを抱きしめた。まるで冷静になった子供をあやすように彼女は彼を抱きしめ返す。

「ナマエちん、好き」

「うん、私も」

きっとその想いは彼に負けないくらい。紫原に近づく女の子をあまり見たことがないのでこちらは嫉妬などしたことはないが、その想いの強さは本物だ。

これだけの愛情を伝えられたのだ。自分も彼に伝えてあげたい。けれど今はそんなことを考えていられるような気持ちではなくて。


ナマエは彼から香ってくる甘い香りに

軽く微笑んで目を閉じた。
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