頭の中で声が響く。どこまでも透き通っていて、それでいて他者を簡単に闇に突き落とせてしまいそうなどす黒い声。
“周りはお前のコトを僕の道具だと茶化す。はっきり言って心外だね。お前が道具だって、馬鹿げた話だとは思わないか?”
彼の提示する選択肢はいつだって見せかけだけでしかなかった。
底冷えするようないかれた綺麗な瞳を銃口みたいにこちらへ向けて、一つの答えだけを求めている。
イエスかノーかの簡単なやり取りであるはずなのに、そこには確かなまでの命がけの駆け引きが存在していた。
“確かにお前は僕の所有物だ、それは認めよう。けど俺はお前を人間だと認めなかったことは一度もない。それでは奴隷か?それも違う。俺はそこまで非人道的な人間でもないからね。そんなのイマドキ流行らないし、上層階級の成金共がやるくっだらねー見栄みたいでカッコ悪いからさ”
有無を言わせず世界が笑う。慈愛なんかではなく、空っぽな微笑み。今にして思えば彼はあまりにも曖昧な人間だった。どの言葉が本当でどの言葉が偽りなのかすらわからない。そしてあまりにも狂っていた。
けれど否定はしない。“普通”だと思っていたし、彼を否定することは己を拒絶することと変わらないのだから。
“なぁ、お前もそう思うだろう?”
乾いた口調で投げられた言葉に
私はなんて返したのだっけ。
「クレア」
闇から覚まされる言葉なんてものはいつも一瞬だ。
突然かけられた声に、思わず体が大きく跳ねる。そして無意識に手はレッグホルダーに収められたCz75に伸びていた。
「クレア、私です。バルメですよ」
瞳孔が開ききった瞳。他者全てを敵と見なしているようなその瞳がその一言でみるみる光を取り戻していく。銃を握っていた手も力なく下げられていった。そして同時に罪悪感がクレアの胸の内を満たす。
目の前にいるバルメで、彼女は自分の大切な仲間だ。では自分は何をしようとした。まただ。もう大丈夫だと思っていたのに気を抜くとすぐに昔の自分に戻ってしまう。
「あ…ごめん…!!ごめんなさいっ…」
「大丈夫です。考え事をしてるのに話しかけてしまったのは私ですから」
皆がこんなにも優しくなければとっくに自分は罪悪感でおかしくなってしまっていたことだろう。
深く考え事をするとすぐこれだ。己の奥底にこびりついて消えてくれないあやふやなあの影がどうしようもない恐怖を生む。
「本当にごめんね…キャスパーさんに言われたこと、考えてて…」
バルメの顔がほんの少しだけ苦しそうに歪む。別に彼女が心を痛めることではない。全ては克服できない己の弱さが招いているのだから。
船から降りる直前キャスパーに言われた“彼”という単語。あまりにも抽象的すぎる三人称のはずなのにそれはひどく胸をざわつかせた。
もしかしたら先ほどルツとアールと掃除したのも、そのことについて考えてしまう自分を恐れていたからなのかもしれない。
それにしても、今は一人だけではなくバルメとルツ、アールにトージョもいるというのに情けない。
皆は自分のこんな行動も、もう慣れてしまっているのか、特に驚いたりはしていなかった。
だがキャスパーの言った“彼”の意味を理解できるのはこの場ではバルメだけで。彼女の気遣うような瞳に、不思議と泣きたくなってしまう。
そんなクレアに微笑みかけながらバルメはゆっくりと口を開いた。
「それより、話があるみたいですよ、ルツが」
「え!?ちょっとアネゴ!?」
思わぬ所で自分へと話題が持っていかれてひどく慌てるルツ。
彼の態度からわかるように、別に話があるのはルツではない。ただ単にバルメがクレアへと何てことない世間話をしようと思っただけだったのだが、彼女の様子を見て目的を変えたようだった。
トージョもアールも狼狽えるルツに声高らかに笑っていたが、クレアは当然状況をわかっていないのでキョトンとしながら隣に座っているルツの言葉を待つばかり。
やがてルツは心の中でバルメに呪いと感謝の言葉を交互に吐き捨てながら、読んでいた雑誌をクレアの方へと傾けた。
「あー…ほら、クレアこのブランドの靴好きだったろ?新作だってさ」
ちょうど開いていたページがそれでよかった。こんなにも偶然というものに感謝した日はないのではないだろうか。
何故自分がクレアの好きなブランドを知っているのかとつっこまれそうだったが、どうやら彼女は宣伝ページに興味を示したようで、不審がられることはなかった。
近づく二人の距離。ふわり香る彼女の香りに目眩がする。心臓の鼓動も徐々に早くなっていき手も変に震えてしまいそうになる。
何だか思春期の少年のようでそんな自分が情けなかったが、今はそんなことを考えていられる余裕などなかった。
「わぁ…かわいい」
ぽつりと呟かれた彼女の一言に熱が顔に集まっていくのを感じる。いちいち反応してしまう自分が憎らしかった。
写真を見て瞳を輝かせるクレアを見ていると、こちらも自然と頬が緩む。
「どれが気に入ったんだ?」
「んと…これかな」
細く白い指が指し示したそれはシンプルだけれど、かわいらしいデザインの靴だった。
多分彼女のことだから動きやすさを一番にして選んだのだろうがそれでもクレアに似合う靴だと思った。
それにしても、彼女が他人に対して好みを口に出すとは珍しい。遠慮していただけなのかもしれないが、武器以外のジャンルではっきりとした意志を感じたことはなかった。
だからこそ単純に嬉しい。そうして嗜好を教えてくれることが。ただの自惚れに過ぎないのかもしれないが、クレアとの距離が縮まっていっているのだと実感できるのだから。
そうして意を決して軽く拳を握りしめながら口を開こうとした時、自分のではない別の声によってその動作は中断された。
「よし、じゃあ暇があれば南アフリカで俺とデートするか?靴でも服でも銃でも何でも買ってやるぞ」
「おいアール!いきなり何言ってんだよ!!」
「何って…デートのお誘いに決まってんだろ。どうだ、クレア」
いきなり会話に割り込んできたアールに慌てるルツ。
しかもデートの誘いなどと、何を言っているのだこの男は。助けを求めるようにバルメとトージョを見ても二人は相変わらず面白そうに笑っているばかり。
そもそも、他人の想い人にどうどうと手を出すとはどういうことだ。いや、想い人とは言っても決してクレアは自分の恋人というわけではないので文句は言えないのだけれど。むしろ今は怒りというよりは焦りの感情の方が強い。
あわあわとしながら今度は隣のクレアを見れば、彼女は何やら頬に人差し指を当てて思案していたが、やがて笑みを浮かべながらアールへと向き直った。
「うん、いいよ」
瞬間、体中に電気が駆け抜けたような衝撃が走る。
そうだ。彼女はそういう女だ。特に深く考えもせずに男とのデートを承諾してしまうような女なのだ。戦地での危機管理能力はやたら高いくせにこういったことには愚鈍も愚鈍。今だって恐らく楽しそうか楽しくなさそうかで返答を決めたのだろう。
「あ、でも買ってもらっちゃうのは悪いから私がちゃんと自分の分は自分で出すよ」
「いいって。誘ってんのはこっちだし。それよりどんな店に行きたい?プラン考えるからさ」
呆然とするルツをよそにどんどん話を進めていく二人。ついさっきまでクレアと二人の世界を作っていたのは自分なのに、今ではアールがクレアといい雰囲気を作ってしまっている。
まさかアールに対して敗北感を味わわされるとは思わなかった。こんなことなら靴のことなんて言わなければよかった、アールより先にさっさと自分から誘っておけばよかった、なんて思っても全ては後の祭り。
そしてトージョに肩に手を置かれて哀れまれながら小さくため息をついた時、彼女がその笑顔を自分に向けていることに気づく。
「ルツ達も一緒に行きますか?」
果たして彼女は“デート”という言葉の意味を理解しているのだろうか。そう思わざるをえないほどの言葉に、その場にいる全員が固まる。
多分クレアの頭の中では多い方が楽しいからそうするという考え方が今あるのだろう。だが残念ながらそれでは“デート”にはならない。だがルツにとってはそんな彼女の思考が今だけはありがたかった。
気づけば先ほどの陰鬱さなどどこかに吹き飛んでいて、ルツは小さくアールを睨みながら首を縦に振っていた。
「行くに決まってんだろ!」
「おいクレア、俺は“デート”に誘ってんだぜ?ルツがいたら…」
「ちょっと待てよ」
イヤに今日のアールは食い下がる。いつもならただの悪戯だと言ってあとで軽く謝ってくるのにおかしい。
クレアを挟んで睨み合いながらルツはゆっくりと威嚇するような声を発した。
「アール…お前それは俺への嫌がらせか?」
「嫌がらせ?別にそうじゃねーよ」
そうでないなら何だという。クレアへの自分の想いを知っているくせにこの態度の理由は一体何だ。
挟まれたクレアはわけがわからずに困惑しているようだったが、これは聞いておかなければならない気がした。
「俺はお前の気持ちは知ってるけど応援すると言ったことは一度もないぜ」
「ま、最近までは心の中ではそう思ってたけどな」なんて言いながら笑うアールに、不思議と嫌な予感がした。
心臓の鼓動が先ほどとは別の意味で早くなる。
まさか、そんなはずはない。いや、そんなはずはないと決めつけることなどできないはずだ。だとしたら彼の言った言葉の意味は自ずと決まってくる。だが今までそんな素振り見せたことはなかったのに。
やがて汗ばむ手を強く握りながら平静を装って目の前のアールを見る。
「アール…お前まさか…」
そうして紡いだ言葉の全てが形になる前に
緊急を知らせる無線が無情とも言えるタイミングで
鳴り響いた。