遠ざかっていくキャスパー達の乗った船。
名残惜しさだけが胸の中を満たす。今回は過ごした時間が短かったということもあって、随分と物足りなさを感じる。それと同じ分だけ後味の悪さも。
結局お土産を渡しそびれてしまったとぼんやりそんなことを考えながら、クレアは静かにヨナの紡ごうとしていることに耳を傾けた。
「僕はキャスパーに何日もコンテナに閉じ込められたんだ」
隣にいたココは申し訳なさそうに困ったような笑みを浮かべる。
「もちろん知ってるよ。ほんとゴメンね、アイツは昔からああなんだ」
揺れる水面を眺めながら、クレアは何も言わずに二人の会話だけに意識を集中させる。
何ともキャスパーらしい。彼が何故そうしようとしたのかなど、容易に想像できる。それは全身が震え上がるほど己の興味を引くようなもの。
「その前に僕も基地にひどいことをした」
何故。何故ヨナはそんなことを言うのだろう。彼の選択が間違っていたわけはない。亡くなった尊い命を弔う方法など、自分にはそれ以外に思いつかない。
いや、多分そうではないのだろう。荒んだ世界の中で生き続けてきた自分と、悲しみの中で、それでも正しく生きてきた彼とを同一にするなど愚かしいにもほどがある。
「殺すばかりで誰も助けられない。哀しいことだらけ。空腹で死にそうな中、“僕は世界から嫌われてるのか?”って」
そんな悲しみ、慣れてしまえば楽なのに。
でかかった言葉は声にならずに沈んでいく。
そもそも戦争や利権争いなんてものは誰かを救う為にやるものではない。ヨナの言葉を借りるのならば、本当に、哀しいことだらけなのだ。
かつて自分はそういう悲しみや憎しみの連鎖が仕事をする上での副産物として必ずついてきていたのだから。
それに、ヨナが世界から嫌われているなど、そんなことがあってたまるものか。ヨナが嫌われているのだとしたら、一体自分はどうなってしまうという。
やがてやっと言葉を紡ごうとクレアが薄く唇を開いた時、ヨナと目が合う。
「でもどうしてなのかよくわからないけど、それでも僕は世界が好きなんだ。ココとクレアは?」
その質問をココにすることはタブーだ。
彼女が答えるはずはないのだから。もっとも、それは裏を返せば最もわかりやすい答えでもあるのだけれど。
「その問いは答えられない。ゴメン、ヨナ」
「いや、いいんだ」
ココの返答はクレアの想像していたものと寸分違うことはなかった。
珍しく笑みを顔に貼り付けないココの代わりに、クレアは柔和な微笑みをヨナへと向ける。
ココと違って彼女は質問に答えられないということはない。
「私は、好きですよ。大好きです!この世界が」
広大な海の上で、ちっぽけな手を両手いっぱい広げる。
青と青の中に浮かぶ白い腕は、不気味なほど大海原とは調和していなかった。
「理由を聞いてもいい?」
本当はヨナだってわかっているのではないだろうか。
自分がこの世界を愛する理由など、ココと共に国々を駆け回る様を見ていれば簡単に理解できるはず。
「私という存在そのものを閉ざしていたのはこの世界です。それは間違いない。だけど…」
血にまみれ、一日に一度や二度は必ず血の匂いを嗅く。それを己の仕事にし、またそれが当然だと信じて疑わせなかったのは紛れもなくこの世界だ。
だが、無限に広がる可能性を、色のついた鮮やかな光景を目の前に提示してくれたのも、世界なのだ。
「それを壊してくれたのも世界だから…私は世界を大好きになって、その世界の全てを巡ってみたいって思ったんです」
少し呆気にとられたようにこちらを見ているヨナに、クレアは優しく笑いかける。
栗色の髪を潮風でなびかせながら佇む彼女の姿は、静止画として残しておきたいほど美しかった。
そして同時に、そんな彼女と巡り合わせてくれた世界に深く感謝した。
やがて、満足したようにココが手を叩いた音で我に返ったヨナは、視線をクレアから逸らす。
そうして三人が船内に戻ろう歩き出した時、道中で壁に立てかけてあるアサルトライフルの姿を目に映すやいなや、ココとクレアの表情が崩れていった。
「なッ!?ヒドッ!!XM8、飽きたらほったらかし!?ふんとにもー。小学生なの?あの人達は!?」
キャスパーが来る直前までルツにアール、そしてクレアが試し撃ちをしていたライフルだ。
そういえばほったらかしにしてきたしまったと、クレアは慌てたようにココへと駆け寄っていく。
「ご…ごめんなさいっ…!!それちゃんと片付けてなくて!あと…えっと…小学生精神でごめんなさいぃ!」
小柄な体を更に縮こまらせてクレアは謝り続ける。
クレアに片付ける暇を与えず呼び出したのは他でもない自分だ。だから彼女が謝る必要は全く持ってない。
とりあえず肩に手を置いて落ち着かせてから、ココはゆっくりと口を開いた。
「クレアは全然悪くないよ!悪いのは最後までこれ使ってたルツとアールだから。とりあえず二人には罰を与えにゃあならん!でもその前にまずは荷降ろしだー!二人も準備しといてね」
そう言って彼女は素早く船内へと消えていった。
残されたクレアとヨナは暫し呆然としていたが、やがてこれから二人が船掃除させられる光景を想像して、小さく笑い合う。
「あんなに謝らなくてもよかったんじゃないか?」
ゆっくりと船が止まっていくのを感じながら、ヨナはそう声をかける。
クレアはホルダーにしまってある銃に手をかけて武装の準備をしながら、自分でもわからないという風に首を傾げた。
「多分、嫌われるのが怖かったからじゃないかな」
ここを失えば、自分には居場所なんてなくなる。そうなれば完全にまた自分は一人になる。それだけは御免だ。
「あ、見てくださいヨナ!あっちの土地だけ雲がかかって雨降ってますよ!面白いなぁ」
彼女の興味によって逸らされた話題は、ヨナの興奮も高めるには十分だった。
瞳を輝かせて二人で摩訶不思議な空を見上げる。
今回の国は知らない場所だったはずだ。少なくともヨナの知らない所だった。クレアは知っていたようで、いつも新たな国に行く時のような興奮した態度をとっていなかったから、よく覚えている。
だとすると言語も、自由に操れるのか。ココほどではないけれど、彼女の言語知識には毎回驚かされる。
「今回の品物は“MICA”なんだよね。一度くらい見ておきたかったです…」
「“MICA”?」
「防空システムの一種だよ。フランカーにミグ、スホーイ、何でも撃ち落とせる優れものなんです!」
嬉々として兵器のことを語る彼女は本当に楽しそうで。
何故そんなにも愛せるのだろう。戦争は嫌いなどという矛盾すら内に抱え込んでまで。
ヨナは手元の銃をジッと眺める。整備はするけれど決して好きではないそれを。
そんなヨナの心情を察したのか、クレアは軽く苦笑しながら彼の銃身に触れた。
「嫌いでも、ちゃんと整備はしておいた方がいいですよ。今更言うことでもないかもだけど…」
小さく頷けば、くるりとヨナに背を向けて歩き出すクレア。
彼はとっさにその背を引き留めようと声を発す。
「どうしてクレアは“こいつら”を愛せるんだ?」
立ち止まって少しの間思案してからクレアはゆっくりと振り返った。
その瞳には確かに優しさが込められていたが、どこか自分とは簡単には交わり合うことができないような複雑な色も、同時に塗り込められている。
「多分私が今ここで主張を並べても、全部ヨナには共感できないものだと思うんだ。でも…私が今日君から得た君自身の事情は君が知った私の過去の一部分なんかよりもずっと重い。それってちょっとズルいですよね」
一言一言噛みしめるように紡がれる言葉にただ耳を傾ける。
「だからいつかはちゃんと答えます。でも、今はまだきっとその時じゃない。なので答えは保留にさせてほしいんだ」
別に隠すようなことではない。誰にだって普通に話せること。
ただ、ヨナには言いづらいことだから、彼との溝を変に深くしたくはなかったから、クレアは薄く笑いながらそう言った。
やがて了承したように頷き、こちらへと歩み寄ってくるヨナを見つめて、クレアは呟く。
『不思議かもしれませんけど…私は武器が大好きなんですよ、本当に。たとえこれで殺されることになっても…』
彼女が何を言っていたのかはわからない。
知らない国の言葉だったから。
だけれど直感的に、ヨナはそれはこの国の言葉だと、そう思った。
それと同時に、呟きの中には
彼女の悲しい願いのようなものも含まれていたのだと
そう思ったのだ。