自身の頭にソッと触れてみる。
別段おかしなところはない。けれど、どことなく温かい気がする。正確には、オーケストラとの戦いが終わった時、ルツにされたことを思い出すと温かくなる。
深く考えていくと、全身にその熱が伝わっていってしまいそうで、クレアは小さく頭を横に振った。
最近どうにも変だ。自分で自分の体がわからない。上手くコントロールできないと言った方が正しいのかもしれないが。
ルツに会うとあの時頭を撫でられた感覚が蘇ってきて会話をすることすらできなくなってしまうのだ。
頭を撫でられるなんて今までだって何度もされていたし、彼だけでなく、アールやトージョにだってされている。なのに、あの時あの瞬間のルツの真剣味を帯びた瞳と、優しい言葉を思い出すとどうにもおかしくなってしまう。
「あんな風に言われたの…初めてだったからかな」
自分の過去なんかに興味はないと、確かにルツはそう言ってくれた。
きっと他の皆も同じように思ってくれているのだろうが、それをはっきり口に出してくれたのは彼だけ。
自分がここにいていいんだと、明確に示してくれたようで、それが何より嬉しかった。
思わず顔が綻ぶ。昔ではおよそ想像もつかない微笑みを浮かべていることに、果たして彼女は気づいているのだろうか。
すると、静かに部屋の扉が開いて、レームが煙草を消しながら入ってくる。
今この場にバルメはいないから、きっと存分に煙草を堪能できたのだろう、その表情はとても満足げだった。
「よォ、クレア。何かいいことでもあったのか?」
彼女の表情がいつもと違うことに気づいたのか、レームまでも少し嬉しそうに笑ってそう問いかける。
「いいことがあったっていうか…ただちょっと思い返してただけだよ」
にこりと笑うクレア。
昔は絶対にこんな顔は見られなかった。長い間共に過ごしてきたレームだからこそ、彼女の変化がありありと感じられる。
昔は何を話しかけてもあまり反応がなかった。すぐに怖がって何も言えなくなったり、後ろから話しかけたら銃を向けられたり。あまりいい思い出とは言えないものばかりが思い出される。
敬語だってなかなか抜けなかったし、自分ら小隊の面々ならわかるが、雇い主のココにすら警戒を解くことは時間がかかったものだ。
「思い返してたって…何をだ?」
「えと…ほら、この前オーケストラとやり合ったでしょ?私達はあの時屋上にいて、終わった後にルツが来たの、覚えてる?」
つい数日前のことだ、忘れるはずはない。
大きく頷けば、クレアはより一層瞳を輝かせた。
自分はあの時一足先に部屋へと戻ったのだ。それは何となくルツが彼女と話したそうだったし、自分もそうした方がいいと思ったから。
「レームが先に戻ったあの後さ、ルツに嬉しいこと言われちゃったんです」
思わずくわえかけた煙草を床へと落としそうになってしまう。
嬉々としてその時のことを語る彼女の表情は今まで見てきたどんなクレアよりも女らしかったのだ。
「その時頭撫でてもらったんですけど、それが何か今でも忘れられないくらい嬉しかったっていうか、思い返すと温かくなるっていうか…」
もう半分彼女の話なんかレームの耳には届いていない。
ルツがクレアを大事にして、愛しているのは知っている。そんなことは小隊の皆がわかっていることだ。
だが、今までその感情は完全な彼の一方通行なのだと、誰もが信じて疑わなかった。いや、応援はしていた。あれだけ純粋な想いを持っているのだ、結ばれてほしいとは常々思っている。
しかしながら如何せんクレアという女はそういったことには愚鈍なのだ。
そのことは今まで散々ルツを苦しめてきたし、小隊の皆だって呆れていた。実際まだそれで彼が悩んでいるのも知っている。
「これって私が変なのかな?」
彼女の言葉で我に返ったレームは苦笑しながらも、机の上に置かれていた新聞を手に取る。今は煙草を吹かす気分にはなれなかった。
「変じゃねぇさ、それが“普通”なんだよ」
「本当ですか!?よかったぁ…」
置かれていた環境が環境だけに、彼女の“普通”は他と大分ずれている。基準そのものが曖昧なのだ。
だけれど、今回のこの件はそういった“普通”という部類からは逸脱している気がしてならない。きっとこれは普通の“人間”というよりは普通の“女”と言った方が正しいのだろう。
「もうちょっとでルツ本人に相談しちゃうとこだったよ。レーム、ありがとう!」
「こんなの礼言われるようなことじゃねェ。しっかし、あいつに相談だァ?止めとけ止めとけ、ルツの気が変になっちまう」
「え!?何でですか?」
気が変になるとはもちろんいい意味で。好きな女からそんなことを言われれば、ルツのような男なら耐えられなくなってしまうだろう。
それがもとでクレアに変な態度を取りかねない。そしてそんな様子をアールやトージョ、ココやバルメにからかわれでもしたら可哀想だ。それはそれで面白いのかもしれないけれど。
新聞から目を離して今度は彼女に目をやれば、そこにはさっきと同じように柔和な微笑み。胸のつかえがとれたという感情もそこには含まれているように感じられる。
「…これで一歩前進だな。よかったじゃねぇか、ルツ」
「?」
意味がわからないという風に首を傾げたクレアを面白そうに眺めながら、レームは煙草を取り出す。
クレアはここに来て大きく変わった。
彼女の心を溶かすのには自分達では随分時間がかかってしまったが
もしも、もっと早くにルツがこの小隊に来ていたならば
もっと違った結果が今存在していたのかもしれない。