「じゃーそろそろ帰るよ」
その時、世界が揺れた。正確にはクレア個人の世界が。
結局今回は華僑のことについて少し話をするだけのつもりだったらしく、彼はもうすぐに帰らなければならないとのこと。
「もう帰っちゃうんですか?」
キャスパーから放たれた一言に、クレアは心底残念そうに眉を下げる。
彼女としては久しぶりに会えたのだし、もっと多くの時間を共有したい気持ちでいっぱいなのだ。それにアジア圏の国のことも知りたい。
「もっとお話したかったです…」
「それは僕も同じだよ。僕の所に来れば話なんて飽きるくらいできるけど、どう?」
瞬間、ココが顔に笑みを貼り付けながらも鋭い眼光でキャスパーを睨む。気づいていないフリをする彼がひどく憎たらしく映った。
また始まった。キャスパーのクレアの勧誘。半ば本気で誘っているのがまた嫌らしい。
クレアも大層彼に懐いているので危険なことこの上ない。
「んー……それもいいかもしれませんが私はまだまだここにいたいので、ごめんなさい」
口ではそう言っていたものの、彼女の表情には明らかに残念そうに思っている色が見て取れた。それに返事までの間が長い。ココもバルメもそんなクレアにひやひやさせられずにはいられなかった。
クレアがキャスパーに懐いているのはよく知っている。彼と会って会話をする時の彼女は本当に楽しそうで、それは尻尾を振って幸せそうにじゃれる子犬のよう。
それは言い方を変えれば、いつも周りに遠慮がちな彼女が珍しく素をさらけ出しているということ。実際、キャスパーが帰ろうとした時にクレアは不満そうに引きとめていた。
そのことはいいことなのかもしれないが、彼女の真の雇い主であるココからすれば小さく嫉妬を覚えてしまう。それと同時に、兄相手にあんなに綺麗に笑うクレアをルツに見せてやりたいという悪戯心も生まれてくる。
「またフられてしまったか。まぁ、またゆっくり会える時くらいすぐに来るさ。それじゃあ…」
ポンポンと頭に手を乗せて笑うキャスパー。そうすれば自然とクレアの頬には赤みが差す。
「あ、その前にトイレ借りてもいい?」
「いちいち許可を求めないでよねー!!そんなこと!」
兄妹のそんな様子に思わず笑ってしまう。
ココはキャスパーには何かと厳しい。身内との縁とは本当に不思議なものだ。
船の中に消えていくキャスパーとチェキータの後ろ姿をぼんやりと眺めながら、満足そうにクレアは笑う。
やがて、思い出したようにハッと我に返ると、慌てたようにココの方に顔を向けた。
「お土産渡さなきゃだったんでした!!ココさん、ちょっと行ってきますね!!」
そう言うなり走り出していくクレア。
彼女の行動の意図がわかっているだけに、二人は呆れたようにため息をつく。
“お土産”とはその名の通り、お土産のことでココ小隊がヨーロッパ諸国を巡った際にクレアが買っておいたもの。
最初は何故そんなことをするのか意味がわからなかった。だが後に彼女から理由を聞いてみれば、これらの土産は全てキャスパー達に渡すためらしい。
「“世界のお裾分け”だったっけ?なーんか妬ける」
気だるげにバルメへと言葉を投げかければ、彼女はそれは仕方がないとでも言うように苦笑した。
実際仕方がないのだ。クレアにあんな表情を作らせるのも、あんな態度をとらせられるのも、彼しかいないのだから。
「これだけ長く一緒にいるのに、私達はまだまだ知らないクレアの顔があると、今さっき思い知らされてしまいましたからね」
もちろん自分達しか知り得ない彼女の方がたくさんあるのだろう。だけれど、キャスパーと接している時の彼女はその差など一気にないものにしてしまうほど美しかった。
「でも、お似合いですよね、あの二人」
「フフーフ、ちょっと複雑だけど同感!!」
面白がるようにそう言えば、思い出すのはルツのこと。キャスパーが敵となるとなかなかに勝つのは難しいかもしれない。
キャスパーの方はクレアを気に入っている。そういった対象で彼がクレアを見ているのかということははっきりとは聞いたことはないが、恐らくその答えは聞くまでもないだろう。
「まぁ、クレアが二人を本当の意味で意識するのは先になるだろうけどね」
あの二人が壮絶な冷戦を始めたとしても、本当の問題はクレアの恋愛無頓着にある。
あのクレアでもいずれは誰かと恋をして、結婚なりするのだろうが、果たしてその相手は誰なのか。彼女を嫁にもらう男は何と幸福なことだ。
「あの子には…本当の意味で幸せになってほしいです」
「うん。その時横にいる相手が誰であろうとね…」
銃を愛するのではなく、戦いを愛するのではなく、ただ普通の女性としての幸せを彼女に。
二人のそんな願いは心地よい潮風と共に流れていった。
「えと…スペインのはこっちでドイツのはこっち、と…」
ガサガサと袋を揺らしながら中身を確認する。
今回は会っていない期間が長かった為、その分土産もたまってしまい、準備に時間がかかってしまった。小走りに廊下を進みながらクレアは小さく笑みをこぼす。
「喜んでくれるといいなぁ…」
前回のフランス土産とイタリア土産は喜んでもらえた。
いつの間にかそうやってキャスパーに喜んでもらうことが楽しみになっているのかもしれない。
もっとずっと長く一緒にいられたらと、そう思わずにはいられない。あんなに話していて心踊らされる相手はきっと自分の中では彼以外にいないだろう。
自分では自覚はないのだが、キャスパーに会ってまだ見ぬアジアの話を聞いて、それをレームやワイリに語る様は大層幸せそうなのだそうだ。
一度アールにそれを恋じゃないかとからかわれたことがある。
その時は動揺してしまったが、今改めて考えてみると、それは違うと思う。
どの感情をもってして“恋愛”と判断すればいいのかその基準はひどく曖昧でわからないことだらけだが、それだけは断言できる。
「最近そういう考え事増えたな…私」
以前は恋愛のことなどで頭を回転させるなどまずなかった。それはより人間らしくなっていることの証明のようで、嬉しくなってしまう。
そうして嬉しさの余韻に浸ろうした時、長い廊下の中で一つだけ、扉が開け放たれた部屋を見つけた。
中を覗き込めば、机の上には“contradiction”と数度殴り書きされた紙と鉛筆。
そういえば先ほどココがワイリにヨナへの語学授業を指示していたのを思い出す。二人ともここでやっていたらしい。今は休憩中なのだろうか。
「でもココさんは何であんなに急いでワイリに指示したんでしょう」
キャスパーが来るという一大ニュースに気を取られていたが、よくよく考えたらそのことが不思議だった。
別に語学はヨナの不得意分野ではないはずだ。「絶対に部屋から出すな」という条件も気になる。
考えていても仕方がないと軽く頭を振って、クレアは止めていた足を再び動かした。
そしてその直後、鼓膜を揺らすほどの小さな少年の大きな絶叫が船内へと響き渡ることとなる。
「な…なにっ…!?」
びくりと肩を震わせる。明らかな殺意と怒りが込められた叫び。
今のは間違えるはずがない、ヨナの声だ。しかもその彼は確かに「キャスパー」と言っていた。
わけがわからないと思いながらもクレアは走り出す。すると、ちょうど目的地としていたトイレにワイリが駆け込んでいく様が目に映り込んでくる。彼女も慌ててトイレへと入り込んだ。
「皆さん!一体何がっ…」
言いかけて、思わず止まってしまう。
目の前には困り果てたワイリ。そして涼しげなキャスパーと、そんな彼に刃を向けてチェキータに妨害されているヨナの姿があったのだから。
キャスパーやチェキータは入ってきたクレアの方にチラと一瞥を投げて、またヨナへと向き直る。
「離せよ、チェキータ!!」
「お姉さん、悲しいわぁ。“少年とナイフ”な構図。それも一挙動で振り抜けるテクを伴うと、悲しさ3倍増だわ。あなたこそナイフを離しなさい」
そのまま素手で彼女はヨナのナイフをへし折った。ナイフは決してへし折れるような代物ではないが、それを平然とやってのけるとは恐ろしい。
「あと、こんなオモチャじゃ人は殺れない。自分の指が飛ぶだけよ。まぁ、それでも殺れる子はいるにはいるけれど」
感じるチェキータからの視線。そんな彼女に今は苦笑を返すことしかできなかった。今はその言葉に何かを言い返す心の余裕などないに等しい。
「ヘルトの高いフルタングのナイフを使いなさい。詳しくはバルメに聞くことね」
「チェキータさんチェキータさん説教かアドバイス、どっちかにしてください」
そうしてヨナを解放するチェキータ。そんな彼にワイリとクレアは心配そうに駆け寄っていく。
「ヨナ、一体何があったの?どうしてキャスパーさんにナイフなんか…」
ヨナがキャスパーと知り合いなのは知っている。ココからそれは聞いていたから。
けれど顔を合わせただけでいきなり襲いかかるほど関係が悪いなどとは知らなかった。いつもの冷静なヨナからは考えられない行動に、ただ慌てることしかできない。
そんな不安に満ちた空間を打ち破ったのは涼しげなキャスパーの声。
「クレア、そんな心配することじゃない。今のなんかアイサツだもんな、ヨナ。彼はもう僕と対等に戦える戦士なのですから」
「それは…どういう意味ですか?」
意味ありげに笑うキャスパーに尚も彼を睨み続けるヨナ。
二つの想いは複雑に交差しあう。
やがて
閉じこめていた過去を解放する音は静かに海へと響いていった。