慌ただしい日々は一応の終わりを迎え、ドバイにて一同に仮初めの平穏が訪れる。
いつだってそうだ。何かあった時はあった分だけの休息が待っていて、それが過ぎればまた一騒動。目まぐるしく回る日常に目を回す暇だってそこにはありはしない。それを“暇がなくて楽しい毎日”だと割り切ってしまえば、何とも素晴らしい日常が待っているのだ。
「平和な街っていいねぇ」
のほほんと、緊張感全てを取り払った気の抜けた顔でクレアは隣で煙草を吸っているレームに話しかけた。
ベランダに立っているだけで燦々と輝く太陽を浴びられる。それはまるでお手軽な日光浴のよう。目を細めて大きな太陽を見上げれば、夏が訪れたことをありありと感じられた。手を伸ばしても、やはり空のそれには届かない。
「何だクレア、宇宙にでも行きてェのか?」
「まさか。まずは地に足が着く大陸から巡らなくちゃ!宇宙は最後」
脳内の人生予定図に宇宙旅行は含まれてはいなかったが、全ての国を周り終えた暁には皆で行ってみてもいいかもしれない。
そうして皆の顔を思い浮かべた時、クレアは思い出したように手をポンと叩いた。「そういえばさっきココさん達のとこ覗いたらヨナが勉強してましたよ。強い少年兵もやっぱり勉学の方はまだまだってことなのかな?」
ココ達の様子を思い出してクレアは軽く笑みをこぼす。大人しく椅子に座って紙と格闘しているヨナはとてもかわいらしかった。
「ヘッヘヘ、そういうこったァな。クレアも何か教えてやんのかい?」
軽く唸ってレームの言葉を頭の中で咀嚼する。自分が彼に教えられることなど果たしてあるのかどうか。算数や理科はもちろん英語も他の者で足りている。今更自分が出しゃばる必要もないだろう。
「あ!射撃術とかお料理とかなら教えられるかも!」
「おいおい、射撃術は一般教養に入らねェだろ。それに料理なんて無理だ。あれが食えるレベルまで成長するとは思えんね」
二人の頭にあの卵焼きが思い浮かぶ。あれは素晴らしかった。食べる者によって味が変わるなどもはや芸術の域に達していると言ってもいい。
レームはくっくと笑いながら二本目の煙草に火を付けた。煙草の煙はそよそよと風に流される。クレアはぼんやりそれを眺めながら小さく微笑んで、やがて会話が途切れるのを恐れるように、暫く彼と話し合っていた。
実に退屈そうな顔をしてヨナ少年は机の上の“35×11”と対峙していた。両隣にいるトージョとココは先日あった空港での算数エピソードに爆笑している。一体何がそんなにおかしいのか。小さくため息もついてしまう。
その時、ふとココの手元のパソコンに目がとまった。画面に知らない者が映っている。仕事の関係者か何かだろうか。
「それなんだ?ココ」
「ん?コレ?」
特に隠すこともせずにココは画面をヨナへと見せる。そこにははっきりと映る男と女の姿。
「ヒットマンリスト。私たちの近くにいる危険人物を、“本部”が警告してくれる。もちろんこんなの氷山の一角だけどね」
こうしてリストにのるだけまだマシな奴らなのかもしれない。詳細がわからない相手に襲われる方がもっと恐ろしいだろうから。
「まぁ、ここドバイの治安はすんごくイイから殺し屋に気を付けろ!と言われてもね。貴方たちが守ってくれるしね!フッフフ!」
確かに、どんな敵が来ても大抵は撃退できる気がする。この部隊はクセの強い連中ばかりだが皆腕は確かだ。
「たった二人でオーケストラ!」
「そう。はじめは8人いて、7人死んだの。最近になって二人組に。最高期のオーケストラはヤバかった。フランスで警官隊を相手に2万発撃った!」
二人のオーケストラについての説明に思わずヨナは考え込んだ。2万発ということはその場にあった武器もさぞ多かったことだろう。きっとそれを見たクレアは瞳を輝かせるに違いない。
「銃撃戦なんてクレアが飛びつきそうだ」
思ったらもう口から出ていた。別にマズいことを言ったつもりはなかったのだが、それを聞いたココは何故か静かにパソコンを閉じる。
「確かにそうだけど彼女の前でこういう奴らの話題は御法度!言っちゃダメだぞーヨナ隊員」
よく意味がわからなかったがヨナは小さく頷いた。クレアならこういった話題にすぐ食いつきそうなものだが。トージョもこのおかしな約束を前から知っていたようで、目を向ければ「諦めろ」と言わんばかりに肩を竦ませた。恐らく理由を聞いても無駄ということなのだろう。
少し変になってしまった空気を取り繕おうというわけではないが、もう一つ浮上していた疑問をヨナは口にする。
「ココは殺し屋に狙われてるの?」
「常に。武器商人は恨みを買う。買いすぎてそろそろ売りたいけど、誰一人として買ってくれない!!」
「ダハハッ」
軽快に笑い飛ばす二人とその真ん中で困ったように眉を下げるヨナ。もう勉強所ではない。
二人の楽しそうな笑い声が気になったのか、隣の部屋にいたルツが勢いよく扉を開いて入ってくる。
「なんだなんだ?ヨナ坊の勉強中かと思ったら、ずいぶん楽しそーだな!!」
部屋がどんどん賑やかになっていく。夏にこれだけ人が集まっているのに暑苦しく感じないのは不思議だ。
「もー“楽しそー”ってね!!いい大人がせっかくのオフに部屋の中でゴロゴロ!!?」
「え……このホテル、居心地いいしさ」
皆が皆集まっているがクレアとレームはベランダにいる。ということはさっきのオーケストラの話はクレアには聞かれていない。ココは内心そのことにホッとした。
すると、ずいとココに顔を近づけるバルメ。
「それではココ、私とデートしましょう!」
「オッケー!」
せっかくのオフだ。楽しまなければ損。たとえ殺し屋に狙われていようともそれは変わらない。ココは返事をしたあとにヨナの方にも首を向けた。
「ヨナ……にも街を見せて歩きたいけれども、やっぱり算数が大事だ!頑張ろう!!それじゃトージョ、悪いね!おみやげにビールたくさんあげる!ヨナも授業終えたらちゃんと…“ありがとうございました”って言うんだよ」
軽く手を振って二人はホテルを出て行く。それと入れ違いになったようにカラカラと気持ちのいい音が鳴って、ベランダからクレアが戻ってきた。
ココとバルメがいないことに気づいたのか、彼女は首を傾げて不思議そうにしている。
「?ココさん達お出かけ?」
「あぁ、“デート”だってさ」
マオの言葉になるほどと納得する。何ともバルメらしい。オフを利用してここぞとばかりにココと二人きりの時間を獲得したのだろう。
「あれ?ヨナくんもいないけど二人についていったの?」
「トイレって言ってたけど…遅いな」
トージョが何気なく扉の外に目をやると、そこには“Thank you sir”の貼り紙。してやられた。見事に逃げられたのだ。ちゃんとココの言いつけを守って“ありがとうございました”と言っていく辺りがまた小憎たらしい。
「ふふ、もしかしなくてもサボられちゃいました?」
トージョの様子を見て面白そうに笑うクレア。その他の者は爆笑。
「あいつサボるの上手いな…皆これから苦労するぞー。覚悟しとけ」
「確かに。でもまだ授業の途中だったんだよね?いいよ、私が探してくる」
そう言うなりクレアはリュックを担いで玄関へと向かった。きっと彼女のことだ、「そんなことはしなくていい」と言っても「やりたいからやってるだけ」と返ってくるに違いない。だから皆彼女を止めることはしなかった。
「おーい、クレア。リュックから銃身はみ出てんぞ」
「え、あ、本当だ。じゃあ狙撃銃は置いていこうかな」
重たい銃を一丁抜き取って、それでもまだ重量のあるリュックを担ぎ直して今度こそクレアはホテルを出て行った。
歩く平穏な街。治安がいいとは本当にいいことだ。
ふとクレアは立ち止まって辺りを見回す。そこにはもちろん誰もいない。久しぶりに一人の世界。
それが寂しくないと言ったら嘘になる。だが昔はそれが当たり前だったから、慣れてしまった。けれど今の生活を捨てて、また以前の生活に戻れるかと言ったら答えは否だ。
知ってしまった暖かさはあまりにも大きすぎて捨てることなどできなくなってしまった。それに戻るにも年月が経ちすぎた。
どうして一人になると悲観的なことばかり考えてしまうのだろう。そしてどうしようもなく切なくなって、恋人でも友人でも誰でもいい、誰かに傍にいてほしいと切望する。こんなの身勝手で独りよがりだろうか。そして、こんな自分を好きになってくれる人などこの先現れるのだろうか。
そんな思考に沈みかけていた時に見つけた見覚えのある後ろ姿。ヨナだ。
クレアは彼を見て、軽く頭を振ってから力強く歩き出す。今はこんなことを考えている場合ではない。ヨナとホテルに戻らなければ。戻る頃には恐らく胸のつかえも取れるはず。
「ヨナく…」
声をかけようとした時、唐突に走り出す彼。慌ててクレアもあとを追いかけようとするが、次の瞬間、ヨナの姿が消える。正確には下に飛び降りたのだ。ここから下までは結構距離があるはず。
「す…すごい…ってそうじゃない!私も下りなくちゃ!」
さすがに彼のマネはできそうもないので急いでエスカレーターを駆け下りる。
そして
下りきった直後に響いた銃声によって
クレアにとって長い長い“演奏会”は
静かに始まった。