「俺だよ、ナマエ」
聞こえてきた声と黒ずくめの男の姿を確認して、彼女は落ち着き払った様子で光るナイフを袖口へとしまい込んだ。
「ごめん。気配、なかったから…」
気配を感じ取れなかった程度で毎回喉元にナイフを突きつけられていたら命がいくつあっても足りない。
臨也はやれやれと言った風に大袈裟に両手を広げて笑った。
普通なら臨也にナイフを突きつけた時点でその者はどこか遠くに高飛びでもしなければ身が危ないが、目の前の女はふわりと柔らかな笑みを浮かべていた。
「せっかく愛する恋人に会いに来たっていうのに、傷つくなぁ」
「む…。置いていったのは臨也だよ…」
「一緒に行こうとしたのに残ったのは君の方だ。何でわざわざ俺じゃなくてシズちゃんなんかがいる街に残るのか、理解に苦しむね」
鮮やかな照明の散らばる歩道橋の上で、照らし出されるのは純粋な笑顔。
恋人の背を追いかけることなく池袋という街に残ることを選んだ女の瞳は純粋な色を湛えているはずなのに、それはどことなく狂気じみていた。
「私は…ここが好きだから」
単純な言葉の奥に込められた想いに臨也は肌が粟立つような気がして心底楽しそうに笑む。
「さすが。君ほど池袋を想ってる人間を俺は知らない」
この街を愛し、この街の平和だけをただ願って。
そうして池袋は純粋で、歪んだ人間を作り上げていった。
「君の目がある所で何か悪さをしようなんて企む輩はまずいない。池袋平和至上主義者の前では誰もね」
平和を求め、心穏やかにこの街で暮らしていけるようにするためなら何だってやる。それがナマエという女だった。
例えその過程で怪我人が出ようとも結果として暴力のない平和な街になるのならそれでいい。
全ては池袋を想っているからこそ。
「ナマエはとても歪んだ平和主義者だ」
「そうかな…?」
「自覚なし、か。でも妬けるね。いいや憎らしい、かな。ナマエが思いを寄せるのは俺だけでいいのに」
街なんかに恋人を奪われるというのは気に食わない。
どこに憎しみの感情をぶつければいいのかわからないから余計に。
以前自分がナマエに「俺は人を愛してる」と言った時に彼女はふくれっ面をしていたが、ここにきてその気持ちが僅かにわかったような気がした。
だが普通の者なら震え上がってしまうような狂気を含んだ言葉にも彼女は動じず、こてんと首を傾げる。
「私、池袋は大好きだけど…」
普段感情の変化を簡単に表情には出さない彼女が心からの笑みを浮かべる。
「臨也はもっと大好きだよ…?」
ナマエから流れ込んでくる暖かな想い。それは彼女がいつも池袋を見守る時に感じる想いの比ではなかった。
こんなことを聞かされて、池袋から彼女を攫ってしまいたいだとか、一生この笑顔と想いの矛先を自分だけに向けさせたいと感じるのは、やはりお互い狂っていることの証明になってしまうだろうか。
「俺も、人よりナマエを愛してるよ」
(狂気?いいえ、純粋な想いですよ)