残される者の方が苦しいと誰かが言った。
誰だったかは覚えていない。多分そんなに大層な人物ではなかった気がする。
薄く開いた口から吐き出されるため息は静かに空を切って溶けていった。
それから目を閉じて、思い出されるのは一人の女。
「…今日はバイトとか言ってたっけか」
つまらない。
一瞬でもそう思った自分に心の底から苦笑した。
誰もいない夜のラウンジでただ一人過ごすのが、随分と久しぶりになってしまったものだ。
あの声が聞こえない。
己の名を呼ぶ澄んだ心地良い声が。
あの微笑みに触れられない。
全てを忘れて、ずっと見ていたいと思わされる微笑みが。
「こうなるぐらいなら…」
いっそ出会わなければ、出会ってしまわなければ違っていただろうか。
こんなにまで胸を突き刺されるような想いを味わわされることもなかっただろうか。
もう何もかも割り切っていたつもりだった、それなのに。
彼女の笑顔に触れる度、自分ではどうしようもないほどの感情が体中を支配してそれが余計に己を苦しめる。
先の見えない霞がかった将来を、残された時間全て彼女の為に使ってしまいたいと、途方もない願いさえ抱いてしまうほど。
それがどれだけ、ナマエも、自分も苦しめるかをわかっていながら。
浸ってはいけない、幸せなどに。
浸かれば浸かるほど、反動は大きいのだから。
でも、それでも、頭ではわかっているのにきっと何度でも温もりを求めようとしてしまう。
それを残酷だと、彼女は言うだろうか。
「荒垣先輩」
突如として頭上から降ってきた声に驚いて身を起こす。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようで、ソファーの後ろには制服姿のナマエが佇んでいた。
「…あぁ、帰ってきてたのか」
「はい。すみません起こしちゃって…でもちゃんとベッドで寝ないと風邪引いちゃいますよ?」
「平気だろ。まだ冬でもねーんだから」
彼女は暫く不服そうに唸っていたけれど、やがて諦めたように肩を竦めて彼の隣に腰掛ける。
その手にはサンドイッチの袋が握られている。確か彼女のバイト先は喫茶店だったはずだからそれは店で売られている商品なのだろう。
「これ店長さんにもらったんです。一緒に食べませんか?」
手渡されたのは極普通のハムサンド。けれどそれは妙に温かみを含んでいて。
ゆっくりとゆっくりと染みるように広がっていくそれはやはり言い知れない苦しみを伴っていた。
「あ、そうだ、サンドイッチと言えば!聞いてくださいよ先輩、今日のお昼休みに順平が…」
いつものように紡がれる他愛のない話。
だが自分はそれがたまらなく好きだった。ころころと表情の変わる彼女を見ていると満たされるから。
それは本当に、拒絶してしまいたくなるほど。
「…って先輩、聞いてます?」
どこか上の空だった自分を不思議に思ってか、首を傾げるナマエ。
正直に言って話の内容はあまり頭には入っていない。それよりも考え込んでしまったことがあったから。
そうしてそんな彼女に触れようとして、やめた。
「なぁ、ナマエ…」
口から滑り落ちていくのは先ほどのナマエの世間話に関連したことではなくて。
「笑ってくれ」
ただそんな一言だけだった。
脈絡などあったものではなく、何も知らない彼女にしてみればおかしいことこの上ないだろう。
だけれど今はただ、彼女の笑い顔が見たかった。
どうしようもなく好きになってしまった彼女の笑みが。
「何ですかそれ。ふふ、変な先輩」
返ってきたのは、やっぱり己を苦しめる
温かな微笑みだった。
(そしてまたお前に狂わされる)