「な、ぎ…と…?」
か細い声に少しの困惑の色を塗り込めて呟かれた言葉に、その場にいた狛枝はもちろん、モノミもつぶらな瞳を更に丸くさせて驚いた。
「い…いきなりどうしたんでちゅかミョウジさん」
「あはは、ボクのこと名前で呼んでくれるなんて嬉しいなぁ。だけどそんなことしたらせっかくのミョウジさんの綺麗な声が…」
狛枝やモノミの言葉などまるで耳に入っていないかのようにミョウジは最後まで聞き終えることなく彼の右腕を強く掴む。
掴まれるその手からは彼女の戸惑いの念が伝わってくるようで、さすがの狛枝も訝しげに彼女を見下ろした。
「右手…平気なの?あれ、私何言って…でも狛枝クン…ううん凪人の手は確かにあの時…!」
「ミョウジさん?ちょっと落ち着いて」
肩に置かれた手はやっぱり彼のもので少し落ち着きを取り戻す。
ひどく安心感を覚えたけれど、何故そう思ったのかの説明ができない。
そして出会って間もない人間をいきなり名前呼びしたことも、こんな奇行に走ったわけも、何もかもがわからなかった。
何だろう。彼から苗字で呼ばれることすら落ち着かない。
「ミョウジさん…ま…ままままさかっ…!!い、いやありえないでちゅ!ここにいて思い出すなんてそんなこと…」
「思い出す…?」
想定外のことが起こりすぎてパニックに陥っているのか、ミョウジの呟きなどまるで聞こえていないようでモノミは小さな声であわあわと勝手に言葉を吐き出していく。
「……もしかしたら愛の力ならそれくらい…でもでもやっぱりありえないでちゅっ…!!」
愛、それは一体何のことを言っているのだろう。
自分が目の前の狛枝に対してそんな甘ったるい想いを抱いていたとでもいうのか。それこそありえない。
いや待て、ありえないと断定できるのは何故だ。彼とはまだ出会って間もないから。では何故、何故こんなにもありえないと決めつける己を否定する己が胸の内に存在するのだ。
ならば忘れているのか、本当にモノミの言う通り大切な何かを。
埋まらない。完成間近のパズルが一ヶ所だけぽっかりと。
「愛の力って…ははっ、モノミは冗談も言えるんだね。ボクとミョウジさんが愛なんて育めるわけないよ。ボクなんかじゃ釣り合わないからさ」
“ボクなんかじゃ釣り合わないけど…好きになっちゃったから仕方ないよね”
今狛枝が言った言葉と頭の内に響いた不可思議な言葉にぴしりと、何かにひびが入ったような感じがした。
今まで作り上げていたパズルが立ちどころに瓦解していく。
そうして残ったのは真っ白なキャンバスだけ。
だがそれは胸の鼓動を一層大きくしていった。
「ねぇ、ミョウジさんもそう思うでしょ…って、どうかした?ミョウジさん」
「…ごめん、私の名前…呼んでみてくれないかな…?」
「え?」
「…お願い」
カタカタと小さく震え出す体。
お願いしたのはこちらの方なのに体は不思議とその行為を強く拒絶していた。
だが狛枝は了解したとでもいうように真っ直ぐに彼女を見つめてゆっくりと口を開く。
「ナマエ」
“ナマエ、好きだよ”
再び響く懐かしい声。かつて自分が何よりも愛していた声。
記憶の奥底から閉じこめていた感情を無理やり引きずり出すような涼やかなそれはナマエの時間の一切を停止させていく。
出会って間もない、違う。
この人は、狛枝凪人は己にとって何よりも尊い存在だったはずだ。
思い出した、彼と自分の過ごしたはずの記憶全てを。
「…何でこんな大事なこと…」
「忘れていたんだろう」と、最後まで言葉を紡ぐ前にこぼれ落ちてくる涙。
そうして体は勝手に動いて
狛枝の体に抱きついていた。
(思い出すことは何への序章なのかしらね)