「あれ?アラジンもモルジアナも戻ってきてねぇのか」
夕食を終えて自室に戻れば、そこには見慣れた二人の姿はなく、ナマエだけがベッドに腰掛けていた。
「二人は暫く戻って来ないって。何かシンドバッドさんが話があるらしくて」
ふわりと笑う彼女の笑顔は温かな日溜まりのようで。
もう外は夜だというのに、何とも不思議な感覚だ。
ナマエの方は皆が戻ってくるまでの間本を読んでいたようでベッド脇には分厚い書物がいくつも積み重なっていた。
「相変わらずすげぇなナマエは!飯食うのもやたら早かったし…戻ってからずっとそれ読んでたんだろ?」
これが本当の“本の虫”というのだろうか。シンドリアに来てからというものそんな姿ばかり見ている気がする。
それは少し寂しくもあったが、裏側にある彼女なりの決意を知っているから、不満など言えるはずはなかった。
「うん。最近楽しいんだ、新しい知識が次から次へと頭の中に入ってくるのが」
数多の知識を吸収することでそれがいずれアリババ達の役に立つならば、どんなものでも取り入れる価値がある。
自分にはモルジアナのような戦闘能力などない。彼らについていく為にはこの知識が少なからず大切だと思うから。
「そっか。それに比べて俺はダメだな…」
強い眼差しで文面を見つめる彼女の姿を眺めながら、やがて珍しく弱音を吐いて、アリババは静かにナマエの隣へと腰掛けた。
ぎしりと軋んだベッドの音はやけに寂しげな響きを持って彼女の耳へと入り込んでくる。
「おまえはどんどん前に進んでるのに、俺はちっとも変わってない。アモンだってうまく使いこなせねぇし…」
今の自分の姿はナマエにどう映っているのだろうか。
ウジウジして頼りなくて、情けなくて。
いつだって彼女の前では気丈でいたかったけれど、今はできそうにない。
鍛えれば鍛えるほどバルバッドでのことが、カシムのことが思いだされて、それが余計卑屈な心を生む。
こんなの呆れを通り越して笑われてもいいだろう。
「どうして、そう思うの?」
「どうして、って…そりゃあ師匠と修行してたら嫌でも痛感するっつうか…」
己の力不足とは即ちナマエを十分に守ってやれないということで。
本当に守ってやりたい人を守る強さが自分にはないという事実は己の中に確かな焦燥感として存在している。
口に出しこそはしなかったけれどナマエには伝わってしまっていたのか、彼女は柔和な笑みを浮かべて、読みかけの本を閉じてほんの少し彼との距離を縮めた。
「アリババはちゃんと前に進んでるわ。そうじゃなくちゃバルバッドでの一件は何だったっていうの」
「あなたが進んでいないなら私は後退してる」なんて冗談めかして言いながら彼女は笑う。
いつも思う。どうしてそんなにも自分のことを信じて、認めてくれているのだろうかと。
アラジンもそうだが、少しばかり過大評価をしすぎな気がしてならない。
ナマエはああ言っているけれど、本当に前に進んでいっているのは彼女の方だ。
のろけているわけではないが本当にいい子だと思う。自分にはもったいないくらい。
だから余計不思議に感じた。何故ナマエはこんな自分を選び、ついてきてくれているのだろう。
「ナマエはさー…本当にいい女だよな。そうやっていっつも励ましてくれるし。おまえみたいないい女は俺なんかよりシンドバッドさんとかみたいな人のがお似合いなんだろうな」
違う。こんなことを彼女に言いたいわけではなかったのに。
けれど生まれてしまった感情を塗りつぶすには、こんな風に言葉を紡ぐしかなかった。
だが実際そうであるはずだ。ナマエにはそれぐらい大きな人物の方が似合うに決まっている。
口に出して認めるのが恐ろしかっただけで、認めてしまうのが悔しかっただけで今まで避け続けていたけれど。
「それを本気で言っているのなら…ちょっと私を過大評価しすぎかな」
そんなわけあるものか。評価しすぎなのは彼女の方だ。
互いが互いの評価を高くして生まれるすれ違いに、思わず苦笑がもれる。
「それに…私はお似合いとかそういうので隣にいる人を決めてほしくもない」
少し彼女の言葉には怒気が含まれているように感じた。
何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか。皮肉っぽくはあったけれど誉めたつもりだったのに。
やがてナマエはアリババを真っ直ぐに見つめて、静かに自身の左手を彼の右手に重ねた。
「私はアリババの隣に…傍にいたいの。これから先もずっと。そう思ってるのは私だけ…?」
「いや!そんなの俺だってそうだけど…!でも…何で俺なんだよ」
国一つ完全に救うことはおろか大切な友人一人守れない。
仲間に、ナマエに背中を押されてばかりの不甲斐ない自分。
力を持たない少女が命を賭けてついてくるにはあまりにも役不足だ。
「私はあなたに救われた。ううん、私だけじゃない。モルジアナも、バルバッドの民達も、そしてカシムも…」
最後まで諦めることなく、全力で進み続けた。勝手に諦めきっていた愚かな自分を励ましてまで。
王子という立場であるがための重圧。親友の堕天。色んな出来事があったのにそれでも絶望することなく進み続けるその後ろ姿に憧れを抱かずにはいられない。
「みんなを導いてくれるアリババ。そんなあなただから、私は好きになったの」
憧れの先にあった恋心。気づけば憧れなんかよりもずっとずっと重たいものになっていた。
自分の生き方そのものをねじ曲げてでも共に生きていきたいと思わされるほどに。
「あなたは最高の人…最高の王子だわ。ねぇ、好きよ。本当に」
「ナマエ…」
自分もそうだと、そう言おうとしてやめた。
悩み事なんて本当にちっぽけものだったのかと錯覚してしまうほど、向けられたナマエの笑顔が綺麗だったから。それが何となく悔しかった。
そうしてアリババは静寂の中でも音を響かせないほどゆっくりと、ナマエの体をベッドへと柔らかく沈ませた。
「あんまり俺のこと甘やかすなよ…どうなっても知らねぇぞ?」
ぱちぱちと小さくまばたきを繰り返していたナマエは、彼の一言に瞬時に顔を真っ赤に染める。
暫く弁解しようと言葉になっていない声をこぼしていたけれど、やがて瞳を細めて自分でも驚くほど妖艶に唇に弧を描いた。
「アリババさ…アラジンに初めて会った時言ってたよね。“迷宮攻略して大金を手に入れたら綺麗なおねえさんが向こうから寄ってくる”って」
「あぁ、そういえば言ったなぁ。あいつの食いつきようがすごかったっけ」
「ふふ、そうそう。それからこんなことも言ってたよね。そのおねえさんが“アリババ様、グチャグチャにして”って言ってくるって」
そんなことも言ったなぁと少し昔の自分を恥ずかしく思いながらも、アリババは彼女を見る。
そしてナマエは一層顔を赤く染め上げながらゆっくりと口を開いた。
「私はアリババになら何されてもいいよ」
「は!?おまえいきなり何言って…!!」
こちらが彼女を組み敷いているのに慌てるのはおかしな話だがナマエが冗談を言っているようには見えない。
そんな中で見える彼女の首筋に、薄桃色の唇に、思わず喉がごくりと鳴った。
「…本当にどうなっても知らねぇからな…?」
「うん、いいよ」
やがて二人を照らしていた月は
まるで照明を落としたかのように
雲にその姿を隠していった。
(愛していますよ、私だけの王子様)