「杏子!」
声と共に放たれたリンゴは綺麗な放物線を描いて少女の方へと向かっていく。
受け取ったや否や、彼女はリンゴを一かじりして鋭くも幼さの残る瞳をナマエへと向けた。
「魔女退治ご苦労さん」
「今日はハズレだよ。使い魔しかいやがらねぇ」
体を気だるげに投げ出しながら夜の帳の降り始めた薄紫色の空の下、杏子は公園のベンチへと沈む。
傍にはついさっきまで食べていたのか、チョコレート菓子の空き箱が彼女の心情を表すかのように虚しく転がっていた。
「さっき夕刊で読んだよ。“二人の子供が行方不明になった”ってな。きっとすぐに孵化するさ」
「…ふーん」
興味があるのかないのかわからない。いや、きっとないのだろう。杏子にとって重要なのは魔女の存在そのもの。
そこに至るまでの過程など、彼女にとってはどうでもいい。そのはずだった。暫く前までは。
チラと隣の学校帰りという雰囲気を醸し出しているブレザー姿のナマエに目をやれば、心地良い風が二人の間をすり抜けていく。
「どした?」
いつまで見つめてしまっていたのか、訝しげにこちらを見返される。
特に理由もなかった為に、慌てて目を逸らせば、面白がるような彼の薄笑いが静かで、だけれど騒がしい空気の中に溶けていった。
「案外次夕刊に載るのは俺の名前かもな」
「は?何でだよ。あんた、魔女につけ込まれるほど深い絶望抱えてた?」
「いやいや、何か杏子と一緒にいるとその魔力の余波で魔女が寄ってくるみたいな?何かありそうじゃね?そういう話」
実際ない話ではない気がする。だから冗談ばかりで言ったつもりはなかった。
だが、杏子の表情が見るからに曇ってしまったので内心軽く反省。しかし同時に自惚れた。
彼女は基本的に己の利以外はどうでもいい典型的な利己主義者。そんな女の感情を自分という他人で少しでも揺さぶれたという事実は、何とも言い表せない感情を生む。
「あたしの魔力の影響をモロに受けるのはあたし自身のソウルジェムだけ。つーかナマエ、あんたそれキュウべえに説明されてたじゃん」
「そうだったっけ」なんて言いながら微睡むように笑うナマエ。男のくせになんて締まりのない顔をするんだと最初はイラついたものだ。そのくせ驚くほど隙がない。
だがいつの間にか惹かれていた、どうしようもなく。理屈で説明できないのだから、この気持ちはきっと本物だろう。
血縁すらいなくなった空虚な世界の中で、見つけた光。彼が魔女や使い魔なんかに食われて死ぬ時は恐らく自分の人格そのものが崩壊を始める時だ。
「あー…そういえばさ」
途端に彼の瞳の色が暗くなる。それは単に薄暗くなり始めたそらの色が移っただけではなく、確かな憂いを帯びていた。
「きゅーべーに聞いたよ。巴マミ、死んだんだって?」
魔法少女の行く末。少し気を抜けばすぐに殺られる。魔女の結界内で殺られれば遺体すら残らず、誰にも知られずに。
でもそうなったとしても、ナマエは確かに覚えている。孤独でいることに慣れてはいたが、その実誰よりも臆病だったマミのことを。
悲しいのだろうか。答えはもちろん是だ。だが悲しいというよりも恐ろしいという感情の方が勝っているのかもしれない。
隣にいるこの少女が、同じ結末を迎えるかもしれないことが。
「らしいね。ちょうどいい機会だ。あたしはあの街をテリトリーにする。あんないい狩り場はそうそうないからね!」
元気よくそう言い放って、杏子はリンゴをかじった。そんな様子を見て、ナマエも一口かじる。
彼女ならそう言うと思っていた。ならば自分のやるべきことも自ずと決まってくる。
「じゃあ、俺も行くよ。出発はいつだ?」
当然の如く彼女は眉をひそめる。直接見なくとも、杏子のワインレッドの瞳が驚愕で揺れているのがわかった。
そんなことを言われることくらい、わかっていたはずなのに。今更こちらの、他人の心配をするなんて一昔前の杏子が見たら激昂するに決まっている。
「お前ついてくる気か!?学校はどうすんだよ!?」
「学校なんてどうとでもなる。休学でもいいし、杏子がずっとそっちにいるっていうなら退学したっていい。転校なんて手もあるんだ」
「…ばっかじゃねぇの!!これだからトーシローは…ったく、明日だよ、出発」
その後もぶつぶつ言っていたようだけどもう聞こえやしない。
明日となると色々準備しなければ。とりあえずは学校に連絡と両親に報告。忙しくなりそうだ。
「あんたさぁ…他人の為にばっか生きてんの、いい加減止めなよ。しかもその相手があたしときた」
まるで彼の生を己の事情で縛っているようで。気持ちのいいものではない。だけれど心のどこかで彼がついてきてくれるという事実が嬉しいと思っている自分が存在している。
「違うよ。俺だって自分の好きなように生きてるさ」
「はん、遂に感性までおかしくなっちまったのかよナマエ」
「そうか?俺はいつだって自分勝手だよ。例えば、このリンゴ、杏子が欲しいって言ったから買った?巴マミのテリトリーに移動するのだって杏子はついてこいって一言でも言ったか?言ってないだろ。つまりは、そういうことなんだよ」
ただ、杏子という光の傍にいたくて。多分それは彼女から拒絶されても、しつこく会いに行ってしまうのではないかと思うほど。
そんな自分勝手な行動を他人の為だなんて、とんだお笑い話だ。
「そういうのも、自分のしたいように生きてるって言えるんじゃないかな」
徐々に沈んでいく陽を見つめながら食べかけのリンゴを宙に軽く放ってはまた掴む。
杏子にはそれがひどく純粋なように見えた。同時に、そこから溢れる己への想いに顔を背けたくなるほど熱が頬に集まっていく。
ホッとしているのだろうか、嬉しいのだろうか。これから先も彼と共に生きていける未来を想像して。
全く持って笑えてくる。特別な力も持たない男一人にこんなにも心動かされるなど。
「あーあ、もうわかったよ!好きにすりゃいいじゃん!とっとと準備しろよ!?」
「え、出発は明日だろ?そんなに急がなくても…」
「誰が明日の朝になったらなんて言ったんだよ。明日の0時に呼ぶかもしんないんだから準備しとけって!!」
「おーおー、そりゃなんつー鬼畜っぷりだ」
けらけらと、笑ってからナマエは大きく口を開けて先ほどより幾分か豪快にリンゴにかぶりついた。
急いでリンゴを片づけようとする彼の横顔を眉間に皺を寄せながら見つめていた杏子はやがて不機嫌そうに「おい」と声を発す。
「別にそんな急いで食わなくたっていいだろ。食い物はゆっくり味わえよな」
きっとこの時の彼女の頬が赤く色づいて見えたのは、夕陽のせいなのだろう。
そう思っていなければあとで一体どんな仕打ちを受けるかわからない。
「あぁ、そうするよ」
溶けていく夜のへの入り口の中で
リンゴは黄金色に光っていた。
(愛しているさ、リンゴよりもね)