世界が音を立てて崩れていく。まさにそう形容するのがふさわしいほどの感覚が全身を支配していく。
今彼はなんと言ったのだろう。ネット越しに見える後ろ姿からは確かに衝撃的な言葉が紡がれたはずだ。ETUを出て行く、達海は今そう言ったのか。
全身が無機質な柱か何かに変わってしまったように動かなくなる。目の前で起きている出来事が信じられなかった。集まってくる人の波も周りの喧騒もどこか遠い場所で起こっているように感じられる。
風すらも凪いでいるようだった。己の中の時自体が止まってしまったと言ってもいい。とにかく頭が真っ白になって、今の今までバッグに添えられていた手は力なく垂れ下がっていった。
聞いていない。ここを出て行くなど、海外のクラブに行くなど。あまりにも唐突なことばかりで目眩がする。
時間にしてみればほんの数秒だったのかもしれない。永遠にも感じられるほど空虚な時間が流れて、そうしてから体は思い出したように小さく震えだしていて。
大事な話を話してくれなかったのが悔しかったわけではない。彼がチームメイトにあんな別れの言い方をしたことに呆れているわけでもない。
そうではなくて、ただ切ない怒りの感情だけがゆっくりと己の中を満たしていった。
聞こえるざわめきにも耳を貸さずに、達海はネットをくぐって歩き出した。途中まるで友人のようにってしまったちびっ子に引き留められながらも、様々な想いの集約されたクラブハウスを背にして。
口元には笑みが浮かんでいる。自分でも驚くほどに自然に笑えていた。
だが、ふと思い出したことに今度は思わず苦笑してしまう。
彼女はあの場に来ていたのだろうか。さすがに彼女には話しておかなければマズい。雑誌やテレビで知ることもできることはできるがその頃自分はもうイングランドだ。そうなれば鬼の形相で国際電話をしてくるに違いない。もっとも、今伝えたとて、怒られない保証はないのだけれど。
彼女の両親のやっている食堂へと向かおうと商店街の中へと入っていこうとしたが、それは後ろからかけられた声によって中断された。
「猛」
振り向けばそこにはナマエ。
彼女は今までに見たことのない表情を作りながら静かに佇んでいた。
「ナマエ…さっきの話聞いてた?というか見てた?」
「聞いてたし、見てた」
「もしかしなくても怒ってる?」
「怒ってないように見えるの…?」
およそ普段の彼女からは想像もつかない底冷えするよう声に一瞬固まる。普段怒らない人間ほど怒ると恐いという話はあながち嘘でもないようだった。
だがそれと同時に、その声はどこか限りなく深い悲しみを帯びているような気がした。
仕方のない話だ。だってナマエをそうさせる原因を作ってしまったのは自分なのだから。
デビュー戦の時からずっとどんな時でも自分を、ETUを応援し続けてきてくれたナマエへの明確なまでの裏切り行為、そう言われたとしてもおかしくないのだ。
ナマエはうっすらと目に涙を溜めながら達海との距離を縮めていく。
「何で勝手に…一人で決めちゃったの?」
一歩、また一歩と何も言い返すことのない彼へと近づいていく。
何か事情があっただとか、タイミングが合わなかっただとか、彼の側にも都合があったのかもしれないという可能性があることはわかっている。わかっているけれど、それでもそんな理性的な理由で遠ざけられたことが、悲しくてたまらなかった。
「他の選手達にだってあんなこと言って…今まで一緒にやってきた仲間でしょう…?なのに何であんなっ…自分で思ってもないこと…!!」
思ってもないことなのか、それすらもわからない。
だけれど、全てを背負ってクラブのことを、皆とプレーすることを愛していたはずの彼の本音があんなにも空っぽな言葉一つだけで片付けられるわけがない。何より、達海の傍にずっといた自分がそんな彼の内面を理解できていなかったのだということを認めたくなかった。
「足だって…まだ完治してないのにっ…」
すんでのところで食い止める涙は、下を向けばやっぱり溢れそうになる。
違う。こんなことで彼を追い詰めたいわけじゃない。達海を責める権利など誰にもないのだから。
でも、それでも黙ってばかりの彼にこのどうしようもないおかしな感情をぶつけずにはいられなかった。
「だって全部話したらナマエ絶対反対すんじゃん」
あくまでもいつも通りに、まるで日常会話をするように彼から言葉が投げられる。
反論できないことが悔しい。
確かに自分は彼からそんな移籍話を聞かされて果たして心の底から納得してあげられることができただろうか。いや、きっとできなかっただろう。心配して心配して、極力なかったことにしてくれるように働きかけたのではないだろうか。
だが最後には納得したはずだ。達海が一度決めたら曲げないことを知っているし、彼がそうするべきなのは今のETUを見ていれば嫌でも理解できるから。
「それに、俺が海外行くなんて言ったらお前ついてこようとするだろうし」
「なに…それ…私だけ…私だけここに残れって言うの…?」
「うん」
視界がぐらぐらと揺れる。頭の中も何か鈍器で殴られたかのようにズキズキと痛んだ。
ついていったら悪いと言うのか。自分がついていったら邪魔になると、彼はそう言いたいのだろうか。いや、違う。達海はただ心配してくれているだけ。自身の都合で振り回すのが嫌なだけ。
でもそうじゃない。そんな優しさが欲しかったわけじゃない。当日まで隠していても、こんな風に怒りをぶつけられても、その先に期待した言葉はそんなものじゃなかった。
「今まで通りETUのサポーターやっててほしいんだよ、ナマエには」
居心地のいいスタジアム。まるで一つの大家族みたいに仲のいいサポーター。あの空間は大好きだ。あんなに素敵な空間はきっと他にない。
簡単に切り捨てたくないものだからこそ、達海の言葉は深く胸に突き刺さったが、あの空間よりずっとずっと大切で愛しい存在が自分には確かにあった。
「猛の中の私って…なに…?」
「ナマエ?」
ゆっくりと噛みしめるように言葉を発しながら彼の両腕をぎゅっと掴む。
今にも遠くに消えてしまいそうな達海を。
「私はただのETUサポーターなんかじゃない…!ただの達海猛選手のファンなんかじゃないっ!!!」
心からの叫びは平日の昼間という静かな空間に溶けていく。
人通りの少ないこの空間に今はたった二人だけしかいないような、そんな錯覚すら抱かせる。
溢れる涙は容赦なく頬を、手の甲を、アスファルトを濡らしていく。
「私はあなたの…恋人でしょうっ…!?」
本当は怒りなんかこれっぽっちも覚えていなかったのだ。隠されていたことも、あんな言い方でクラブを去ったこともどうでもいい。
ただ一言“一緒に来てほしい”と、言ってほしかった。
困らせることを承知で、それでも来てほしいのだと言ってほしかっただけなのだ。
「どうして」と掠れた声になっていない声がこぼれ、涙はとめどなく溢れてきて爆発した感情をそこから必死に洗い流そうとしているようだった。もう視界がぼやけて目の前の達海がどんな顔をしているのか確認することはできなかった。
「そういう顔させたくなかったから黙ってたんだけどなー…」
「え…?」
よく聞き取れなくて聞き返した瞬間、急な引力によって体は前へと傾く。
気づけば強く達海に抱きしめられていて、身動きが取れなくなっていた。
あれだけ止まらなかった涙も驚きですっかり止まってしまっている。
「もういいや。お前の泣き顔なんて一番見たくなかったし…」
「…猛?何言って…」
「ナマエ」
こちらの声などまるで聞こえていないかのように言葉を紡いで、一瞬途切れる。
やがて迷いのない声音で彼は再び口を開く。
「一緒に来い。俺やっぱりナマエがいないとダメっぽいわ」
一番ほしかった言葉。一言一言が妙な重みを持って脳に響いていく。
首を横に振れるわけがない。
「行く…行くよ…!私も猛がいないと駄目だからっ…!!」
また涙が溢れてくる。だが今度は嬉しさからの涙だった。
知らなかった。自分がこんなにも達海のことが好きだったなんて。
知らなかった。彼がそんなにも自分を想ってくれていたなんて。
そうしてゆっくりと惜しむように互いの体は離れていく。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を見て達海に笑われたけれど、不思議と恥ずかしくはなかった。
やがて達海は優しくナマエの頭を撫でて、思い出したように商店街へと足を向ける。
「腹減った」
「え!?このタイミングで!?今から行ったら母さんも父さんも驚くと思うけど…」
「いいよ。色々話さなきゃいけないこともできたし」
「話さなきゃいけないこと?何それ」
前を歩いていた彼は不意に立ち止まる。暫く思案していたようだったが、やがていたずらっ子のようなあどけない笑みを浮かべた。
「んー…“娘さんをください”かな」
たったそれだけ言ってまた歩き出す。
ナマエは目を丸くして驚いていたけれど
やがて笑顔で彼の後を追いかけていった。
(エンドロールの先は、きっとプロローグなのでしょうね)