一番価値のある一番
ボールの跳ねる音がする。ここはグラウンドなのだからボールの音くらいしても何ら不思議ではないのだが、問題はその時間だった。

練習もとっくに終わり、ほとんどの選手がいなくなったそこでただ一人、椿は守護者のいないゴールへとシュートを繰り返していた。
いつもオドオドとしている彼だけれど、今この時ばかりは本当に楽しそうで。綺麗に枠へと行った時など少年のように瞳を輝かせている。

「あっ…!」

気分も程よく上がりかけていた時、つい力加減を誤ってボールはあらぬ方へ飛んでいった。

慌てて後を追いかける。だが椿がボールに追いつく前に、それは思わぬ障害物へと当たって反自然的に動きを止めた。

「こんばんは、椿君」

今まで下ばかりに向けられていた視線がその声によって勢い良く上へと向けられる。

ボールが当たったのは人で、その人物は椿が想像した人物と寸分違うことはなかった。

「ナマエさん!」

呼べば目の前のナマエは朗らかに笑う。それを見るだけで練習の疲れなど簡単に吹き飛んでいくのを感じられるから不思議だ。
普段は恥ずかしさと勇気がないせいで伝えられずにいるけれど自分は彼女のこの笑顔が大好きだった。

練習の時は姿を見ることはできなかったから、今日は会えない可能性が高いかなぁ、なんて考えていただけに頬が緩む。

わざわざ会いに来てくれたのだろうか。時々有里の手伝いをしているそうだから、そちらの手伝いをするついでにというだけだったのかもしれないけれど。

どちらにしろ、ナマエに会えた、そのことが己の明日への活力となることは間違いない。

「どうしたんスか?こんな時間にわざわざ」

「ちょっと達海さんに差し入れをねー。あの食生活はなかなかに心配だから」

考えていたどちらの理由でもなかったが、ナマエが達海に差し入れをするということは特に珍しいことではなかったので納得する。

だけれどそれは椿にとっては少し複雑で。
強すぎる独占欲をナマエに対して抱いているわけではないが達海が羨ましいと思ったのもまた事実。

そんな椿の思いを知るはずのない彼女は、何か言いたそうにモジモジとしている彼の様子に小さく吹き出して足元のボールを拾い上げた。

「椿君、パス」

短い一言の後に再度ナマエの手から離れていくサッカーボール。綺麗な放物線を描いてそれは椿の方へと向かっていく。

もちろん驚きはしたが、椿は慌てながらもしっかりとボールを収め、リフティングを開始した。

いきなりどうしたのだろうと思いながら困惑の眼差しをナマエに向けても、相変わらず彼女は柔和な笑みを湛えているばかり。

「次、ホームでの試合だよね」

「あ、はい」

ホームでの試合にはナマエは必ずと言っていいほど見にきてくれる。時々アウェーの時もいてくれたりするが、如何せんあの大勢のサポーターの中で彼女を見つけるのは至難の業。故に試合でナマエの姿を見つけたことは一度もなかった。


大体ゴール裏にいるというのは聞いたことがあるが、それでもスカルズの存在の方が目立ちすぎていて無理なのだ。

「頑張ってね!最近のETUは勢いに乗ってるからゴールも期待してる」

瞬間、彼女の言葉と共に不思議と心臓が大きく跳ねた。その動揺はやがて全身へと広がっていき、リフティングを失敗してボールはコロコロと転がっていく。

動揺が伝わってしまったのか、ナマエはほんの僅か目を丸くしていたけれど、次には椿に背を向けて後ろに転がっていったボールを拾った。

椿は己に背を向ける彼女を見つめたまま、弱々しく口を開く。

「や…やっぱりゴール決めた方がかっこいいですよね…活躍した方がいいに決まってますよね…」

彼女を喜ばせるには、笑顔になってもらう為にはそれが一番の方法だというのはわかっている。自分はプロのサッカー選手だ。サッカーで活躍しないでどうするという。

ナマエがそんなことは気にしていないと言ってくれるのだってわかっているが、あまり不甲斐ない姿ばかりを見せて幻滅させたくはなかった。

目の前の彼女がこちらに振り向くことはない。何かを思案しているのか、ずっと黙ったまま。不安になって声をかけようとするけれど、返ってくる答えが怖くてそれすらできなかった。

「ねぇ、椿君。最近さ、自分のファンが増えてきたなぁって思わない?」

「え…?」

やっと返ってきた言葉の意味がわからず、思わず首を傾げてしまう。

確かに練習終わりに女子高生にサインを求められることが多くなったがそれも極少数だ。地元の人達には垂れ幕を作ってもらったりはしたけれど、他の選手達に比べれば自分などまだまだだろう。
何故ナマエはそんなことを聞いてくるのか。

「自分じゃ気づいてないだけかな。椿君を応援する人、結構いるんだよ?」

「私なんかの声なんて簡単に吹き飛ばされちゃうくらい」と、そう言った彼女の表情は、見ることはできなかったが、不思議と泣いているように感じられた。

「その誰もが椿君のゴールを待ってる。もちろん私だってその一人だし」

ピッチ上でボールを追いかける彼の姿。誰も注目していなかった時からずっとずっと彼だけを見つめてきた。

どれだけミスをしようと、決定的な場面でシュートを外しても、好きだったから。椿のプレーが、サッカーをする時の楽しそうな表情が。

そうして気づけば周りには人が増えていて。自分と同じように彼に魅せられた人達がたくさん。
それは単純に嬉しかった。椿が認められ始めたということの証明だったから。

だがそれは同時に、形容しがたい気持ちを己の中に生んだ。
皆が必死に彼を応援する度、自分よりも強いゴールへの執着心をまざまざと見せつけられる度、不安と嫉妬のような感情がぐちゃぐちゃと自分をかき乱すのだ。

「私は別に、椿君がゴールを決めたからってあなたを好きな想いが強くなることはないし、逆に嫌いになったりもしないの」

「ナマエさん…」

「私はただ椿君のプレーが大好きなだけだから」

ナマエの言葉は椿にとっては嬉しかった。普通ならそんなことを言われれば照れていたことだろうが、今は違う。

薄暗い中でもはっきりとわかるほど、ナマエの体が小さく震えていたから、素直に言葉を受け取って喜ぶことはできなかった。

気づけば体は勝手に動いていて、衝動そのままにナマエの小柄な体を抱きしめていた。

びくりと一瞬彼女は体を震わせてボールを手から落としてしまっていたけれど、すぐに大人しくなる。

「…ナマエさん、何か悩んでることでもあるんスか?俺じゃ頼りないかもしれないッスけど…でも、あの…」

頭上から降ってくるいかにも焦っているというような声に、思わずナマエは笑った。

笑ってから、ほんの少しだけ寂しそうに言葉を紡いでいく。

「私ね、椿君の一番のサポーターは自分だって、ずっと思ってたの」

彼を理解し、一番応援してあげられているのだと信じて疑わなかった。

「でもさ、考えてみたらそれって誰にもわからないことだと思わない?誰が一番のサポーターか、なんて」

誰もがきっと自分が一番のファンだと信じている。どれだけ主観的に見ればにわかなファンのように見えても、向こうは自分が一番だと思っているかもしれない。

だから誰にもわかるはずはない。いや、そもそも決められることでもない。

「私って何なら椿君にとっての一番に…特別になれるんだろって思っちゃって」

「ごめんね、独占欲強くて」なんて言って困ったように笑う彼女。

独占欲なんて、そんなものは椿だって持ち得ている。実際先ほどナマエが達海に差し入れをしたという話を聞いて抱いた感情がそれだ。

椿は一層強く彼女を抱きしめる。
特別な一番なんて最初から決まりきっているから。

「ナマエさんは俺の一番好きな人です。俺の一番大切な人です!」

言葉に対しての返事がくることはなかったけれど、後ろから見える彼女の耳はこれでもかというほど赤くなっていて、何だかこちらも恥ずかしくなってきてしまう。

やがて椿の手に彼女の暖かな手が重なる。


「うん、いいね。最高の一番。好きだよ、椿君」

「俺もッス」


そうして暫く抱きしめ合っていた光景を達海に見られるのは

また後の話。


(あなたの一番、いただきました)


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