ゲーム本編のネタバレ要素はないようにしましたが、一応ご注意ください。
いつもより騒がしい食堂。寄宿舎の個室は完全防音だから気づかなかったが、一歩外に踏み出してみれば、賑やかな喧騒は簡単に耳へと入り込んでくる。それと同時に何か甘いものの匂いも微かに鼻腔をくすぐる。
ちょうど小腹が空いて何か食べようかと考えていた苗木にとってそれは何とも魅力的だった。
そうして入り口をくぐれば、いつもの元気さを惜しげもなく顔に出しながら朝日奈が興奮したような瞳を彼へと向ける。
「あ、苗木!ちょうどいい所に!今から呼びに行こうと思ってたんだよ」
「ボクを?どうしたの朝日奈さん」
意外な者からの呼び出しに、少し驚く。
そして彼女が嬉しそうに指を指し示す方に目をやれば、そこには朝日奈の大好物であるドーナツが一枚の皿の上に何個も積まれていた。
「ドーナツだよね、これがどうかしたの?」
彼女がドーナツを食べている光景など珍しいものではないし、今更だ。
だから朝日奈がこんないつも以上に喜んでいるわけも、朝日奈の隣の席でこちらをニヤニヤしながら見ている葉隠も、意味がわからなかった。見たところドーナツの方は幾らか朝日奈がいつも食べているリングドーナツよりもグレードアップされているようで美味しそうではあったのだけれど。
「なんと!これ全部ミョウジちゃんが作ったんだよ!!」
一瞬驚きで目を見開いたがすぐに納得する。
ミョウジナマエは超高校級のパティシエ。ドーナツを作ることくらいは朝飯前なのだろう。
しかしこうして実際に完成品を目の当たりにすると当然だが驚かされる。とても学生が作ったものとは思えない。形は完璧だし、食欲をそそるデコレーション。さすがは全国大会の優勝者なだけはある。
この学園に来てもう随分と経つが、こうして彼女がお菓子を作るのは初めてだった。
「さすがはミョウジっちだべ。苗木っちの彼女にしておくにはもったいねーぞ」
「ほんとほんと!いいなぁ、苗木は毎日こんな美味しいもの食べられるんだ」
「え!?あ…確かにミョウジさんはボクのか…彼女だけど、その、毎日なんて…!!」
焦りながらそんなことを言ってはみるものの二人は相変わらずからかいの笑みを顔に貼り付けるばかり。
明らかに面白がっているのはわかっているがそれに反論できないあたりが悔しい。
そうして再度苗木が口を開こうとした時、奥の厨房から皿に大量のドーナツを乗せたナマエが戻ってきた。
「お待たせー葵ちゃん!あれ?苗木クンも来てくれたんだ」
ニコニコと音がつきそうなほど笑顔を咲かせながらテーブルに皿を置くナマエ。やっぱりお菓子作りをしている時が彼女にとっては一番楽しいのかもしれない。
今まで見たことのない彼女の表情を見ると、自然と心臓も小さく跳ねた。それは超高校級のアイドルである舞園の笑顔を見た時とは全く違った感情を己の中に生む。
「えっと…これってボクも食べていいの?」
思わずそんな言い方をしてしまったけれど、ナマエはほんの少し恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに笑って頷いてくれる。それに苗木も同じように笑顔で応える。
一瞬だけ甘い香りを含んだ風がそんな少女漫画の中のような二人の間を吹き抜けていったが、次には呆れたようなため息で場は元に戻った。
「…それは元々ミョウジさんが苗木クンの為に作っていたものよ」
静かにこちらへと向かってくる霧切。
そうして席に着くとやはり無駄のない動作でドーナツを一つ手に取る。
ナマエの方は彼女とは対照的に少し慌てて霧切と苗木、朝日奈、葉隠へ視線を忙しなく動かしていた。
「霧切さん…黙っててって言ったのにー」
「別にいいじゃない。困ることなんて何もないと思うけど」
何でもないことを言っているように霧切は尚もドーナツを食している。
別にナマエも本当に黙っていたいわけではなかったのか、顔には早々に諦めの色が見て取れた。
「そうだったの!?ごめんミョウジちゃん…私ドーナツだって浮かれちゃって…。これ苗木のだったんだね」
「ううん、気にしないで!最初は本当に苗木クンの為に作ってたけど葵ちゃんが嬉しそうにしてくれたから作りすぎちゃっただけだよ」
実際厨房に朝日奈が来て完成を楽しみに待たれて、それに応えようと作れば作るほどに楽しくなっていって気づけばこうなっていたのだ。
それに最初に霧切に発見された時は口止めしたけれど、結局はこうして人が集まってしまっているのだからあまり意味はなかったのかもしれない。
そうしてナマエは生クリームで程よく彩られたドーナツの乗った皿を目の前の苗木へと差し出した。
「それじゃ、改めてどうぞ、苗木クン!」
周囲の視線に若干の気恥ずかしさを感じながらもそれを受け取る。
見ているだけでも食欲をそそられるそれを一口かじれば、途端にふわりと柔軟な甘味が広がっていってやがて全身まで行き渡る。
「美味しい…!すごいよミョウジさん!!こんなの初めて食べた」
興奮そのままに真っ直ぐに彼女を見据えて素直な感想を口にする。
ただそれだけしたつもりだったのだが、ナマエは顔を真っ赤にしたかと思うと、葉隠の後ろに隠れた。
「あれ…?ミョウジさん?」
「おっ、どうしたんだべ」
「恥ずかしがっているのでしょう」
「わー、ミョウジちゃんかわいい!」
言われれば言われるほどにナマエの顔は赤く色づいていく。
やがてこそりと顔を覗かせたナマエはどうしたらよいかわからずにオロオロとする苗木にはにかむような笑みを向けた。
「ありがとう、苗木クン」
それが先ほどのドーナツについての感想だと気づくのに数秒。
そして今度は苗木の方が頬を赤く染めるのに
さほど時間はかからなかった。
(それは生クリームの魔法だった)