それは確かに一瞬だった
初めて彼女と二人で深く話したのはこの学園に入学して、初めての授業を受けた日の放課後のことだった。

忘れ物をしたことに気づいて慌てて教室へと戻ってきた時、そこに彼女はいた。
窓際の席に座って夕の色を吸い込んで橙色に染められたスケッチブックという名のキャンバスに穏やかな手つきで命を吹き込んでいた光景は、今でも鮮明に覚えている。

きっとこれからどれだけの時が経っても忘れることはないだろう。
決して静かとはいえない勢いで教室の扉を開いたにも関わらず、彼女はこちらに気づくことはなく、もう一人絵描きがいて、今の彼女を絵に残しておいてほしいと思わされるほどに美しかったその光景を。

思えば単純なことだったのかもしれない。彼女を意識し始めた時期がいつだったかと記憶を手繰り寄せてもなかなか辿り着けなかったのはそんな単純すぎる最初の出会いと気持ちを彼女に対する自分の想いの基準点だと、勝手に決めつけていたから。舞園や霧切達と接する時とは明らかに違う感情を抱いていたことに気づいていたのに深く考えもしなかったからなのだ。















「どうした?苗木」

「買うモンでもあるんか?」

寄宿舎へと帰る途中、一階の購買部を通り過ぎたところで、苗木が不意に立ち止まる。

共に帰路に着いていた葉隠と桐生は彼と同じように立ち止まり、慌ててバッグの中を探る苗木を見て訝しげに問いかけた。

「あ…ごめん。ノート忘れてきちゃったみたいだ。教室に取りに戻るから二人は先に帰ってて」

特に宿題もない教科だったし、明日まで置きっぱなしでも普段なら問題なかったのだろうが、生憎もうすぐでテスト期間だ。ただでさえ己は普通という曖昧な言葉を見事人間として具現化したような存在なのだからテスト勉強をサボるわけにはいかない。

すぐに忘れ物に気づけてよかったと浅くため息をつきながら二人に謝罪すれば、目の前の桐生はどこか呆れたような、だけれど優しさを帯びた表情を作り、葉隠は面白そうに笑っていた。

「はは、苗木っちは時々マヌケだべ」

「マヌケが通常運転のお前が言うんじゃないよ。んじゃ苗木、先帰るわ。飯の時にまた」

「うん、じゃあ…」

彼らに背を向けて走りだそうとしたけれど思いとどまる。
何故かこういう時だけ勘のいい風紀委員が駆けつけてきて注意されるような気がしたから。

静かに廊下を歩けば後ろからは二人の賑やかな声が遠くにいても聞こえてくるから不思議だ。

ぼんやりと歩きながらふと思い出すのはあの日のこと。
桜庭と仲良くなるきっかけを作ったのも、同じような状況だった。あの日もこんな風に綺麗な夕焼けが世界を包んでいた。彼女は忘れているかもしれないが、自分はあの日のことは忘れたくても忘れられない。忘れる気なんてもとから微塵もないのだけれど。

やがて目的地に辿り着いて、ほんの少し急くように扉に手をかける。
だが扉の先に広がっていた風景の中には人がいることはなかった。

「誰もいない、か…」

期待していなかったといったら嘘になる。心のどこかで桜庭の姿を探していた自分。

やがてそれを見事に打ち砕かれた想いをごまかすように机へと歩を進めていく。
そうして机の中に置き去りにされたノートを手に取った時、控えめに扉が開かれる音が静かな教室内に響き渡った。

「あれ?苗木クンだ」

現実の世界では漫画やアニメのような展開などあり得ない。そんな考えを一気に覆してくれるみたいに入り口に佇んでいる桜庭。

彼女は大きなスケッチブックを抱えながらゆっくりと苗木の方へと歩み寄ってくる。

「忘れ物か何かかな?」

「うん、ノートを置きっぱなしにしちゃって。桜庭さんは作品制作?」

「そうだよー。美術室に籠もってるよりいいものできそうだから」

そう言いながら桜庭は窓際の席に腰掛けた。

全てが同じだ、あの時と。来るタイミングが逆になっただけで。
もしこの世に神という存在がいたならば、こんな粋なはからいをしてくれたことに最大限の感謝をしなければ。

それにしても不思議だ。どうして桜庭は美術室とは違う場所で絵を描くことが多いのだろう。コンクール前などはさすがにいつも美術室にいるがそうでない時は自由な場所で描いていることを知っている。

そうしてただ話しかける口実が欲しかっただけなのかもしれない。
気づけば画材などの準備を粗方終えた桜庭へと言葉を投げていた。

「桜庭さんって色んな場所でやってるよね。美術室苦手とか?」

自分は芸術のことなどよくわからないが、向こうの方が必要な物が揃っているという面で利便性は高いはずだ。

一流の画家は環境にも気を配るものなのだろうか。

ゆっくりと時間をかけて思案した後、桜庭は柔和な笑みを湛えて苗木を見つめる。
それは彼女の中で明確な理由が存在していることの証明のようで、とても美しく感じられた。

「ううん、苦手じゃないけど美術室の中じゃ、こんな景色は見られないから」

「景色って、この夕陽?」

「夕陽だけじゃなくて、夜の星とか日の出の瞬間とかもね」

「そんな時間にも絵を描いてるの!?」

素直に驚く苗木を見て軽く笑って頷きながら、桜庭は指で四角くカメラのような形を作る。

それで窓の外の景色を囲って片目を瞑った。

「だって忘れちゃうから。多少無理してでも残しておきたいんだ」

自分達は万能ではないから。
風景なんて幾らその瞬間は綺麗だと思っていてもいずれ忘れる。そこにあるのが当たり前のものは特に。

例えばそれは友達と学校帰りに見る夕陽だったり、皆とお風呂上がりに見る星のカーテンだったり、恋人と共に見る青空だったり。

そうしたものを絵画として残しておくことが直接的ではないにしろ、忘れられない思い出になるのだと信じているから。

「それでも、その時その瞬間と全く同じ風景なんてないから、ちょっとだけ悔しいんだけどね」

「何か違うの?この瞬間の風景と、桜庭さんが残しておきたいって思う風景」

「随分違うと私は思うな。どれも違いなんて本当は些細なことなんだろうけど私には全然違って見えるんだ」

綺麗だった。そう言う彼女がどうしようもなく。改めて彼女に惹かれているのだと実感させられる。

それと同時に、彼女の瞳、彼女自身のファインダーが映す景色は今はどんなものなのだろうと気になった。

「今はあの時と少し似てるね。苗木クンと初めてお話したあの放課後に…」

「覚えてたんだ。もう忘れちゃってると思ってたよ」

「忘れないよ!私の中で苗木クンはそんなどうでもいい存在なんかじゃないもの」

心臓が大きく跳ねる。
今の言葉の破壊力に、きっと彼女は気づいていないのだろう。

それが大切な友達という意味だとわかってはいても、ほんの少しだけでも自惚れずにはいられなかった。

「ねぇ、桜庭さん。ボクもさっきまであの日と似てるなって思ってたんだけど、やっぱりちょっと違ったよ。いや…全然違う」

「どうして?」

「ただの友達として見てた時とは全然違うんだ。こっちの方がずっといい」

よく見てみれば全然違った。何故今まで気づけなかったのだろう。

今の自分にとっての桜庭は単なる友人ではない。届くかどうかはわからないけれど、恋心を抱いた大切な存在だ。
好きな人と見る景色は何だって光って見える。


桜庭は自分の言葉によくわからないといった風に首を傾げていたけれど

やがてまた綺麗な笑みを浮かべてくれたから


今度は世界が光って見えた。


(ボクの景色は君次第なんだ)


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