雨が窓を叩く音が廊下に響く。朝方しとしとと降り出してから勢いはどんどん増していっているように感じられた。
今はもう放課後で普段ならば橙色の夕陽が辺り一面を包み込んでいるはずなのだが、今は雲が全てを覆っていてそれを拝むことは叶わない。
それでも無気力に窓の外の景色へと目をやって、朝日奈は大好物であるドーナツを口にした。
「はぁ…」
いつでも元気なことが取り柄の彼女には似つかわしくないため息。
ドーナツを食べている時はこれ以上ないほどの幸せを表情から滲みだしているはずなのに今この時ばかりはそうではなかった。
誰もいない食堂の雰囲気も自然と重苦しいものになっていく。
「あ…ドーナツなくなっちゃう…新しく取ってこなきゃ」
誰にともなく呟きながら、皿の上に乗っている残り一口分のドーナツを見つめる。
食べると元気になるのに何故か今は不思議とそうはならない。
もう一度深いため息をつこうとした時、突如として顔の横から腕が伸びてきて最後の一欠片を掴んでいった。
「いらねーんならもらうぞー」
「え…?あっ…!ちょっとそれ最後の一口…!!」
「うん、美味い」
「あぁっ!!もう…最っ低だよ桐生!私はあげるなんて言ってないのに!」
「美味いモンはみんなで共有するべきだろ。それに“あげない”とも言われなかったしなー」
「それはそうだけど…!桐生のバカ!」
さっきまでの陰鬱さが綺麗になくなってしまったかのように朝日奈は食堂にやってきた桐生のネクタイを問答無用で引っ張る。
食べ物の恨みは恐ろしいと言うが、それはあながち嘘でもあるまい。
だが殺されかけているというのにさほど慌てることなく桐生はいつも通りの笑みを浮かべながらテーブルの上を指差した。
「ごめんごめん。じゃあお詫びにドーナツやるよ」
「はぁ?ドーナツなら今あんたが食べちゃったじゃん!」
訝しげにしながら彼が指差す方へと目をやれば、そこには新しいドーナツが二つ、皿の上に食べる前の状態のように置かれている。
意味がわからずにドーナツと桐生を交互に見ても、彼は相変わらず微笑んでいるばかり。
「あれ…?なんでどうして!?」
「さぁ、なんででしょう」
こうして桐生が言葉を濁す時は決まってお得意のマジックを行った時だけだ。
そうなると何を聞いても教えてはくれないだろうから、大人しく彼から手を離してまた席に着く。
そしてマジックのことについて言及する代わりに、別の質問を投げかけた。
「なにしに来たの?」
「コーヒー飲みに来ただけだよ。あとこの後娯楽室で苗木達と約束があるから時間調整も兼ねて」
そう言って桐生は一度厨房へと消えた後、戻ってきて朝日奈の目の前の席へと着いた。
だだっ広い空間の中で彼の立てるカップの無機質な音だけが響いている。
何となく、朝日奈にはそれが心地良かった。何も言わずにただそこにいてくれることが。だが彼を直視していることはできなかったから、視線はドーナツにばかり向けられてしまう。
そうしてどれくらいの時が経っただろう。気づけばまたかちゃりと音が鳴る。見ずとも理解できた。彼がコーヒーを飲み終わったのだと。
それが引き金になったのかもしれない。次には言葉を紡いでいる自分がいた。
「ねぇ、桐生」
「うん?」
「まだ約束まで時間ある?」
「あるよ。二杯目、飲もうと思ってたぐらいだし」
「じゃあさ、これ一個あげるよ」
元々彼からもらったものだったけれど。ストロベリーのドーナツとチョコレートのドーナツ。
いきなりおかしなことを言ったという自覚はある。だが今は、おかしく思われたっていいから、もう少しだけ桐生と一緒にいられる理由が欲しかった。
いらないと言われるかもしれなかったが不思議と、彼なら笑って受け取ってくれるはずだという確信が心のどこかに存在していたから。
「はは、なんだよ、お前がドーナツくれるなんて珍しいじゃん」
初めは驚いていたが、案の定桐生は笑った。他人の小さな悩みなんて簡単に吹き飛ばしてしまうのではないかと思うくらい爽やかに。
「“美味いモンはみんなで共有するべき”ってあんたが言ったんじゃん!だからあげる」
「あぁ、そうかそうか。じゃあ遠慮なく」
桐生がドーナツを食べるのに続いて、やっと朝日奈も食べ始める。
味はもちろん美味しい。だがそれで今抱えている悩みがなくなるということはやはり有り得なかった。
「どーしたんだよ?」
「え…?なにが?」
「元気ない。なんかあったんだろ?」
「…わかるの?」
「毎日見てれば今日のお前がおかしいのくらいわかる」
思わず面食らってしまう。クラスメートで毎日会っているからという意味の言葉なんだとわかってはいても、不思議と心が温かくなる想いもする。
その想いが背中を押してくれたからなのかもしれない。
気づけば、朝日奈はゆっくりと口を開いていた。
「最近…タイム伸びなくてさ…。これが自分の限界なのかなーって思っちゃって…」
どんどんタイムが縮んでいくのが嬉しかった。それなのに最近は伸び悩む日々が続いている。
スポーツでスランプを感じたのはこれが初めてだっただけに、寂しさも人一倍大きかった。
もしかしたらもうこれ以上速くはならないのかもしれない、自分は限界まで達してしまったのかもしれない、そんな悪い考えばかりが頭の中を巡っては負の連鎖に取り込まれてしまう。
「決めつけるのはまだ早いだろ、それが限界だなんて。スランプなんて誰にでもあるんだし」
「それはわかってるんだけど…」
「俺はスポーツ系のことはよくわかんねーけど…」
彼はそこで一旦言葉を区切ってドーナツの最後の一口を放り込む。
そうして全て食べ終わってからいつものように頬杖をついて軽く微笑んだ。
「限界なんて、本当はないんじゃない?俺はそれをただの諦めだと思うけど」
多分それは彼自身のマジックにも同じことが言えるのだろう。
人に知られることがないように桐生が密かに練習していることを知っているから。
「もうちょい頑張ってみろよ、ゆっくりだってなんだっていいから。努力して努力して、それでもダメだったらまた俺に相談でもしてくれればいいさ」
「桐生…」
「俺なんかじゃ役不足かもしんないけどなー」
「ううん、そんなことない。ありがとう、桐生」
「どういたしまして」と言って笑む桐生。
その笑顔に、妙に心臓が大きく跳ねた。いつも通りの彼のはずなのに、まるで違う人のようで。
やがて気恥ずかしさから、朝日奈は両の拳を握りしめて勢い良く立ち上がった。
「よーし!私、頑張ってみるね!!じゃあトレーニング行ってくる!」
「ははは、やっぱ朝日奈はこうでないとな!じゃ、俺もそろそろ娯楽室行くとするかな」
そうしてお互い食堂を後にする。
やはり桐生と一緒にいたのは正解だったかもしれない。
これで相手が苗木や十神だったとしたならば、結果は同じだっただろうか。いや、多分それはなかっただろう。
では何故桐生でなければならなかったのか。
その答えを導き出そうとした時、階段でよく見知った人物と出会う。
「あれ、朝日奈さん」
「あ、苗木!どうしたの?」
「うん、それが…娯楽室でみんなと集まる予定だったんだけど桐生クンだけまだ来てなくて。朝日奈さん、どこにいるか知らない?」
「え?桐生ならさっきまで一緒に…というか今そっち向かってるはずだよ」
「そっか。じゃあ娯楽室に戻ってれば会えるね。ありがとう、朝日奈さん!」
慌ただしく去っていく苗木を呆然と見つめる朝日奈。
桐生は確かに時間には余裕があると言っていたはずなのに、これは一体どういうことだ。
もしかして本当は一杯目のコーヒーを飲み終わった時点でもう行かなければならなかったのではあるまいか。いや、あの苗木の慌てぶり。相当予定時間が過ぎていたのだろう。だとしたら、そもそも食堂に来たこと自体が既に、一日様子がおかしかった自分を心配してのことだったのでは。
「あぁもうわかんないよ!桐生ー!!」
結局考えていても何もわからないので気を取り直して女子更衣室へと急ぐ。
そうしてふと窓の外に目をやれば
雨はすっかり止んでいた。
(晴天への劇薬は君だった)