両手にかかえきれないほどの量だったチョコレートも残りはあと一つだけ、そう思うと苦労して作った割にはあっけないほど簡単に過ぎ去ったバレンタインに苦笑してしまう。
桜庭は最後のトリュフチョコを憂うように見つめて浅く息を吐いた。
最後の一つをあげる人物はあの人にしようと決めていた。他の誰でもなくあの人がいいと。理由はわからない。でも多分一番この入学から一年の間でお世話になってきた人だからだと思う。
そう思っているのに不思議と自分で自分の考えが納得できなかった。
「何で苗木クンなんだろう…」
そこかしこから漂ってくる甘ったるい匂いの続く廊下を移動しながら苗木のことを頭に思い浮かべる。
そして思い出されるのは綺麗な思い出ばかり。共に笑い合い、時には励まされ、絵のことも誉めてくれた。優しい人だ、本当に。普通だなんてとんでもない。彼の才能はもっと別の所にあるのだと、桜庭は常々そう思っていた。
ふと窓の外を見れば広がるのは夕焼け。チョコレートを作って配り歩いていたらもうこんな時間になってしまっていたようだ。
綺麗だ、とてつもなく。今すぐ絵にして残しておきたいほど。紙とペンさえあればそうしていただろう。
あっさりとしているくせに濃い橙色は妙に胸の内をくすぐり、足を動かしていく。
だって似ていたから、あの日に。前にも一度あったけれどあの時よりもずっと似ていた。
「…漫画みたいだなぁ」
その日その時と同じ空なんかありはしない。流れる雲の位置と日の落ちる度合い。そんなものは漫画の中だけで十分だ。
だがあまりにも似ていた。大切な出会いの記憶と酷似している。
それは今日がバレンタインという特別な日だからだろうか。それとも、彼の持つ“超高校級の幸運”の効果だろうか。
そうして急くように辿り着いた先の扉に手をかけて開ける。誘われた教室には一人の男子がいて。
捜し求めていたはずの後ろ姿なのに、桜庭は目を丸くして唇を震わせた。
「苗木クン…」
「あ、桜庭さん。どうしたのこんな時間に。作品制作?」
いきなりの登場に苗木も驚いているようだったが、桜庭が緩く首を横に振れば、二人とも視線は窓の外へと向けられる。
差し込む夕陽は静かに苗木の机を照らし、広げられていた紙を橙色に染め上げていった。
どうやら残って何かを書いていたようで、それが丁度終わったのか、苗木はゆっくりとノートを閉じる。
「前にも何回かあったよね、こういうこと」
そう言って浮かべられた笑みは驚くほど夕焼けと調和していて。男の子に思うのは変かもしれないけれど綺麗だと、純粋にそう思った。
何とも不思議だ。最初会った時も、彼の目にはこんな風に自分は映っていたのだろうか。
「私が先にいたり、苗木クンが先にいたり、だったよね」
「そうそう」
「それで絶対に外は夕方なの」
途方もないほどたくさんの空を見てきた。でも苗木と見た空が一番綺麗だと断言できる。
いや、綺麗なのはその記憶そのものなのかもしれない。
苗木と過ごした時の風景はいつだって綺麗だった。最初に会った時も、コンクールで落ち込んでいたのを励まされた時も、クリスマスも正月も、思い返せば褪せずに光っている。
それは他の皆に比べれば段違いに。今まで比較することがなかったから気づかなかったが、どの記憶を手繰り寄せても同じことだった。
「ねぇ、苗木クン」
踏みしめる床から響く靴音は規則正しく苗木の方へと近づいていく。
二人だけの空間なのに緊張感はまるでなく、自然な空気だけが辺りには流れていた。
「私、多分自分で思ってるより苗木クンからたくさんのものもらっちゃってる」
彼からだけではないけれど、本当にたくさん。でも思い出されるのは彼のことばかりだから。
一年近く経ってやっとそれを実感させられるなど愚かしいにもほどがある。それを当たり前だと思っていたのだから余計に。
平和に溺れるとはこのことかもしれない。
「だから今日はちょっとだけお返しするね」
言葉と共に柔和な笑みを湛えながら桜庭はチョコレートの袋を差し出した。
苗木は袋と彼女を暫く交互に見ていたけれど、やがて先ほどの桜庭のように目を丸くさせた。
まさかもらえるとは思っていなかったのか、その驚きようがおかしくて彼女は声を出して笑っている。
それでも苗木が袋を受け取れば、桜庭は満足そうにしてまた外へと視線を移動させていった。
「本当に…苗木クンとの思い出は綺麗なものばっかり増えてくなぁ」
「それはボクもだよ。桜庭さんといるといいことばっかりだ。ありがとう」
「ふふ…お礼なんていいのに」
自分は苗木といられればそれでいい、とそう言おうとして止まる。
すんなりと口から滑っていきそうになった言葉を頭の中で思い返してみて首を捻った。
苗木と一緒にいたいのは本当だ。これからもクラスメートとして。だがそれがしっくり来ない。今の言葉は明らかに苗木個人を指した物だった。他の皆も一緒にではなく苗木と。
瞬間体が熱くなってくる。何か体だけが重大なことに気づいたようでひどく落ち着かない。誤魔化すように夕日を眺めようと目を凝らした時、広がる光景に息を呑んだ。
「あれ…?」
違っていた。さっきまで見えていたはずの風景が別のものへと変わっているように感じる。
何が変わったのか明確に言葉にすることはできないのだけれど、根本的な部分が変わったような、そんな気がする。
似てもいない、あの時と。むしろ前よりずっといい。
そうして隣の彼へと目をやれば、彼は不思議そうにこちらを見ている。
暫く見つめていると、ぐるぐると回る思考と合わさるように、欠けたピースが綺麗に嵌ったような感覚がして、桜庭はうっすらと顔を赤く染め上げていった。
「そっか…そうだったんだ」
「え?桜庭さん?」
「あ、ごめん。何でもない、よ。それじゃあ私もう行くね。また明日」
半ば強引に、そして逃げるように教室を出て行く桜庭。背後からは苗木の焦ったような声が響いていたが今はそれを気にしている余裕はなかった。
歩いて歩いて、もう教室など見えなくなるほどの位置まで移動して、ゆっくりと止まる。だが心臓の鼓動は相変わらず大きいままで。
気づいてしまった、何故苗木でなければならなかったのか。
何故最後に苗木にチョコレートを渡したかったのか。
何故苗木との思い出が他よりも光っていたのか全て。
深呼吸をして胸の前に手を置く。全て簡単な答えだった。あまりにも簡単で、そしてあまりにも自分には無縁だと思いこんでいたから、気づくのが遅くなった。
「私…」
(苗木クンのことが好きなんだ)