「桐生ー!桐生いる?」
「うわっ、びっくりした!何だよもう…せっかくダブルブル出そうだったのに…」
「フン、声程度で集中を切らす貴様が悪い。勝負は俺の勝ちだな」
「白夜様!あぁっ…ダーツの的役ならいつでもお受けしたのに…!」
「腐川…今すぐ黙るか消えるかしなければ貴様の顔に当てる」
開け放たれた娯楽室の扉。どうやら今はダーツの対決中だったらしく、桐生は突き刺さった矢を取って苦々しい表情を浮かべていた。
二人がよく一緒にいることは知っていたので試しに腐川の十神センサーを頼りにしてみたらこれがまた正解だったようだ。
いつも一人でいる方が多い十神だが桐生だけは「他の連中より馬鹿じゃない」という理由で共にいる許可が下りているらしい。
「…ったく、今日は勝てそうだったのに…代わりにお前相手してくんね?」
「えぇっ!?な、なんの!?」
「そ…そんなの夜のご奉仕でしょ…!あ…あんた無駄に胸の脂肪は多いんだ、から、おかずにはぴ…ぴったり…じゃないっ!!」
「ちょっ…ちょっと下ネタはやめてったら!!」
「なんつー勘違いしてんだよ。そうじゃなくてマジックの実験手伝ってほしいって話」
元々勝ったら十神にやってもらうつもりだったのだがこうなってしまえば仕方ない。別に朝日奈ではできないわけではないので邪魔をされた意趣返しには丁度いいだろう。
呆れたようにため息をついて横を向くと、そこには既に十神の姿はなく、その事実にまた一つため息をついた。
興奮した状態の腐川の相手をするのは非常に面倒だ。できればしたくない。今娯楽室には自分達しかいないから尚更。
「あー…腐川、十神ならどうせ図書室か更衣室だから早く追いかけた方がいいよ」
「言われなくてもい…行くわよっ!!」
普段の態度からはおよそ考えられないほどアクティブに部屋を出て行く腐川。
残された桐生は暫くその後ろ姿を眺めていたが、やがて朝日奈の方に向き直った。
目の前の彼女は妙に落ち着きがない。視線をこちらに向けたかと思うと目が合うとすぐに逸らされる。
何だかおかしくて小さく吹き出せば、彼女は怒りと羞恥をない交ぜにしたように頬を赤く染め上げた。
「で?朝日奈の用は何なわけ?」
色々なことで失念していたが朝日奈は自分を探してここに来たはずだ。
「あ、うん…えっと、これ渡したくて…」
優しげな甘い匂いが漂う箱。その匂いが背中を押してくれたからなのかもしれない。
驚くほどすんなりと渡すことのできた自分自身に内心朝日奈は笑ってしまっていた。
それでも心臓は破裂してしまうのではないかというほど高鳴り、手は今にも震えそうで。告白をしているわけでもないのに妙な緊張感が体中を支配していった。
拒絶されるのではないか、なんて今更考えたところでどうにもならないのに、頭はそんなことばかりをぐるぐると考えてしまう。
「ん?外行ってドーナツ買ってきたのか?」
「違う。今日バレンタインだから、さ」
途端に時が止まったような静寂が訪れる。
一瞬桐生は驚きの色を瞳に塗り込めていたけれど、それはすぐに綺麗な笑みに変わっていった。
いつもなら大好きなはずの笑みだけれど何故か今だけは直視していられない。
「そっか、女子達が籠もってた理由はこれか」
ドーナツというチョイスはいかにも朝日奈らしい。
だが義理チョコ一つ渡すために来たはずなのにいちいちこんなにまで恥ずかしがっていては朝日奈の身が保たないのではないか。桐生は気にしないがそんな態度では何かと勘違いする奴らもでてくるだろう。
それでも嬉しい感情は先に出てきて、彼女から箱を受け取った。
「ありがとな。俺こういう本格的なやつ貰ったの初めてだ」
いつも貰えるのは義理ばかり。ポッキーだったりチロルだったり、パーティー用の大袋から一つ渡されたり。
いつだって根底にあるのは温かな友情だけ。だがそれが嬉しかった。皆の輪の一員であるということが実感できるから。
「手作り、貰ったことないの?本命…とかさ」
「はは、ないない。みんなさ、俺のこと“いい友達”レベルにしか思ってないんだよ。…って、それはお前も同じか」
そしてそれで十分だと思っていた。だけれどこうして手作りのものを貰えるというのはおよそ比較にならないほど嬉しくなるらしい。
全く持っていい友人をもてたものだ。前の高校はこうではなかった。まずここまで仲のいい女子という存在がいなかった。
そうして再度お礼を言おうと口を開きかけたがそれは朝日奈の声によって中断される。
「…それ、本命って言ったら?」
「朝日奈…?」
「私が、桐生のこと好きって言ったらどうする…?」
瞬間風が凪ぐ。目の前の朝日奈が朝日奈ではないように見えて。
彼女は普段こんなだっただろうか。こんなにも、艶めかしい表情を作れただろうか。
そして好き、とはどういうことだろうか。苗木が桜庭に思うようなあの好きなのか。朝日奈が、自分に。ではこのドーナツも義理ではなく本命ということになる。まさか、そんなはずは。だって今までいい友人という関係だったはずなのに。
自分でもよくわからないことばかりが頭の中を駆け巡ってパニックになりかけていると、不意に朝日奈がいつものように快活な笑みを貼り付けた。
「あははっ!冗談だよ!桐生固まりすぎ!」
「…お前なー…からかうなよ」
ひとしきり笑うと彼女はゆっくりと彼に背を向ける。だがその手は小刻みに震えていた。
少し意外だったかもしれないと、内心朝日奈はそんなことを思う。
いつだって飄々としていて、雑誌取材やテレビ出演する時でさえ緊張など微塵も感じさせないような男がまさかこういった話題で焦りを晒すことになるとは。
不機嫌そうにむくれる彼の顔は今まで見たことのないもので。
皆の知らない弱点を知ったようでそれが何故だか嬉しくもあった。
「日頃の感謝の気持ちってやつだから、それ。ありがとう、桐生」
“ありがとう”という中には一体どれだけの想いが込められていたのだろう。
ゆっくりと染みるように鼓膜を揺らす彼女の言葉は小さく桐生の心を波立たせた。
そうして出て行く後ろ姿からは目が離せなくて、やがて我に返った彼は自嘲するような笑いをこぼし、雑誌をとって椅子に腰掛けた。
天井を仰ぎ、雑誌を開いて顔に被せる。真っ暗になった視界の中で思い出されるのは、やっぱり先ほどの朝日奈の姿、声、表情ばかり。
「あー…やられた」
反則だ、あんなのは。心揺らされない男子などまずいない。いくら友人だと思っていてもあれでは少し考えさせられてしまう。
今までこんなことには興味はなかったし、深く考えもしなかったが、ここにきて僅かに変わってきてしまった。
だがそんなのも悪くはないのかもしれない。
真っ暗な中で生まれる苦笑は真っ暗な中に溶けて
桐生はそうして目を閉じた。