文句のつけようもない綺麗な晴天。
桜庭にとってみればこれ以上ないほどの絵描き日和。
彼女は朝から機嫌がよく、放課後になるなりスケッチブック片手に勢い良く教室を飛び出していって外へと出て行った。
画材は今日の為に少し良いものを選んでおいたので準備は既に万端だ。
緩みそうになる頬を必死に抑えつけながら空を見上げれば何も遮るものがない剥き出しの太陽が容赦なく光を浴びせてきて思わず目を細めてしまう。
「今日は傑作ができる気がする」
誰にともなく呟いた一言はやはり風に流されるだけで誰の耳にも届かない。
だがそれにしても、改めて周りを見回して思う。
希望ヶ峰学園の敷地は本当に広い。入学当初はその広さに迷いかけてクラスメートや先生に助けてもらうことが多々あっただけに尚更そう感じた。
それにここに集められているのは自分達“超高校級”だけではないというのだからその影響力なども計り知れない。
「…みんなと友達とか絶対無理だよね」
別の意味で呟かれた言葉は苦笑を伴って同じように風に流されていった。
行き交う人達も知らない人ばかり。元々積極的なタイプではないということも相まって、己の他人との友好関係の浅さに情けなさを感じずにはいられない。
それでも広げたスケッチブックに意識を集中させてしまえばそんな考えは立ちどころに吹き飛んでいった。
今日はどんな構図で描こうか考えながらウロウロと動いて位置を修正していると、緩やかな風が吹き込んできて髪を揺らす。
それと同時に一枚の紙が風に運ばれてきて、桜庭の足がそんな紙切れの進行を妨げた。
「あれ…?何かのメモかな、これ」
拾い上げれば自然と文字の羅列は目に入ってきて、思わず首を傾げる。そこには黒のインクで学園の東地区にある研究棟が明記されていた。
誰かが捨てたゴミというわけでもなさそうで、とりあえず持ち主を探そうと辺りを見回す。
すると少し遠方から見慣れない男子が走ってきて、彼女の目の前で止まった。暫く彼は息を整えていたようだがやがて口を開く。
「はぁっ…はぁ…。そのメモ、俺のなんだ。風で飛ばされて…誰かが拾っててよかった!ありがとう」
安堵したような表情で礼を言う彼。
よく見てみても、やはり知らない男子で。
記憶力はさほど悪いというわけではないはずなのだが、どれだけ頭を捻ってみても彼は自分の記憶の中には存在していない。同じ学校の生徒なら一度くらい見たことがあるはずなのだが。
次には学園外の部外者なのかと考えたがそれはないだろう。部外者が簡単に敷地内に入れるような学園ではないし、学園外で風に飛ばされた紙を夢中で追いかけてきてしまっただけにしては、ここから校門までの距離は長すぎる。
不思議そうに少しの間見つめていたら、そんな疑問が彼にも伝わってしまったのか、彼はまるで苦笑するように小さく笑って桜庭の疑問を解消するために言葉を紡いでいった。
「俺は予備学科の生徒だから」
「そっかぁ。どうりで見たことないなって思ったんだ…!あ、はいこれ、飛んできたメモ」
メモを手渡しながらそうかと納得する。
本科とは別に存在する予備学科。この二つの相違点というものが具体的には一体どういったものなのか全て把握していないが情報として知っていることは一つだけある。
本科と予備学科の決定的な違いは“超高校級”の才能の有無だということ。
自分が才能に満ち溢れていると自慢するわけではないけれど、そういった違いがあるのは確かだ。
目の前の彼は受け取ったメモを確認して「ありがとう」と、また感謝の言葉を並べていった。
桜庭は照れくさいのか、ほんの少し頬を赤らめている。普段クラスメート以外とあまり接していないから尚更。
「そのメモ、大事なものなの?ごめんね、内容見ちゃって…それって研究棟の場所だよね?」
恐らく迷わないための覚え書きのようなものなのだろうがそれにしては追いかけてくるのがやけに必死だった気がする。
そこには何かもっとべつの感情が込められているような。
それが何を意味するのかなんてわからないけれど。
彼は言ってよいものか迷っていたようだが、やがて遠慮がちに口を開く。
瞳はどことなく嬉しそうに揺れていた。
希望に満ちている瞳だった。
「別にこれ自体は大事なものってわけじゃないんだけど…」
彼の見据える先にある希望の芽が、彼が言葉を紡ぐ度に大きくなっていくのを感じる。
「もうすぐ俺も本科の生徒みたいに才能が手に入れられるんだって思ったら、つい興奮して」
「才能が…手に入れられる…?」
よくわからなかった、彼が言っていることの意味が。だがそれはどこか不気味な響きを含んでいて。
超高校級の才能とは手に入る時期を明確に理解した上で宿すことのできるものなのだろうか。
いや、そんなものは才能とは呼べないはずだ。実際自分だって今の運命の類から少し違った道を辿っていたならば、単なる下手の横好きになっていた可能性だってあるのだから。
「悪い…詳しいことは言えないんだ」
つい口に出してしまった疑問にはやはり答えが返ってくることはなかった。
だが心のどこかで彼の返答を聞かなくてよかったと思っている自分がいる。
そして何故か恐ろしかった。彼は本当に嬉しそうで、そんな笑顔を見ているとこっちまで嬉しくなってしまうぐらいなのに、芯の部分は得体の知れない恐怖心で冷たくなっていくような。
心臓を抉るような、奇妙な感覚をごまかすように口を開くことに集中した。
「よくわからないけど…要するにもうすぐキミも本科に行けるようになるってことかな?」
「まぁ、そんなところ」
予備学科の生徒達が具体的に何をしているのか、何か才能開花のための特別なカリキュラムを組んでいたりするのか、わからないことだらけだが新しい友人が増えるということは素直に喜ばしい。
波のように寄せてくる奇妙な恐怖を外側へと追いやるにはそう思わなければならない気がした。
だけどふと思う。
作られた才能、言い方は悪いがそれは裏を返せば努力ということになるのではないだろうかと。
努力して努力して、その上で手に入れた栄光。それもまた“超高校級”でないと誰が言える。
それどころか、そんな努力をしてきた人はきっと自分なんかよりもよっぽど稀有で価値があるはずだ。
目の前の彼も、そんな血の滲むような努力を積み重ねてきたのだろうか。
「ね、キミの名前を教えてくれないかな?」
きっといずれ知ることになる。この希望に溢れた輝かしい彼の名を。
もうすぐ本科で会えるのなら少しくらいフライングをしてもいいはずだ。
「俺は日向創。俺も名前聞いてもいいか?」
「桜庭彩乃だよ。また本科で会えた時まで覚えててくれると嬉しい」
いたずらっぽく笑いながらそう言えば日向は「忘れるわけないだろ」と笑う。
すごく明るい綺麗な笑顔だと思った。
だからこそ何となく自分が何の才能なのかまでは言おうとは思えなかった。
「…違いなんて、そんなの本当はないはずなのにな」
「桜庭?」
「ううん、何でもない」
緩く首を横に振って呟きをなかったことにする。
多分言ってはいけない言葉だったはずだから。少なくとも、こんなにまで本科に憧れている今の彼の前では。
「それじゃあ、俺はもう行くよ。またな、桜庭」
軽く手を上げて去っていく日向。
どこに向かい、歩いているのかわからない少年の背は、どこか儚く見えて。
いつまでそうしていただろう。
そうして我に返ったのは、後ろからかけられた声に反応した時だった。
「桜庭さん?何してるの、こんな所で」
「え…あ、苗木クン」
自分より幾分か背の高い姿を目に映して桜庭は弾かれたように振り返る。
何をしているのかと問われてやっと本来の目的を思い出して曖昧に苦笑した。
不思議ともう今日は作品を作り上げようという意欲がなくなっている。
そして彼女はもう小さくなってしまった日向の後ろ姿を憂いを帯びた瞳でぼんやりとまた見つめた。
「さっき新しい友達ができたんだけど…なんでかな、私…もう彼に二度と会えないような気がするんだ」
「どういうこと?」
「…ごめん。私もよくわかってないの」
ぐるぐると渦巻く運命は、人間という存在にどこまでも絡みついてきて離れない。
彼と今日出会ったことが運命だというのなら、それはどれだけ残酷な何かを含んでいたのだろう。
そしてまた運命は新しい運命を運んでくる。
それを彼らが絶望と希望とのどちらかと判断するのは
世にも残酷な未来の話。
(ようこそ、麗しの非日常)