傷口に砂糖
いつも賑やかなはずの教室。いや、賑やかは賑やかなのだがどこか違っていると言った方が正しいだろう。

苗木は登校してきてすぐ異変に気づいた。
宿題をやってきた、やってきていないで騒ぎ立てている葉隠や桑田の傍で静かに席に座って悲しそうな表情を浮かべている桜庭の姿が確かに教室の温度を幾分か下げていたことに。

席に着いて彼女の顔を改めて覗いてみても相変わらず桜庭の表情は変わらないままで。

不思議と心配がないまぜになったような感情を抱えながら、苗木は近くにいた不二咲と大和田に話しかけた。

「…桜庭さん、何かあったの?」

聞いてはいけないことなのかもしれない。
だがいつも笑顔の彼女に陰りを生んだ理由がどうしても知りたかった。

苗木の気持ちはもう既に理解しているのか、二人は浅くため息をついて内緒話をするかのように小さな声で話し出す。

「この前コンクールがあったろ?ほら、あのデカい絵画のやつ」

「うん、桜庭さん、いつもより気合い入れてたよね」

「それが…準賞だったみたいなんだぁ。桜庭さん、それで落ち込んじゃって…」

思わず目を見張る。あの桜庭が、超高校級の彼女が準賞だなんてにわかには信じがたい。

いつだって完璧なクオリティになるまで作品を提出しようとせず、そうして出した作品は必ず最高の評価がついてきていたのに。しかもそのコンクールに注いでいた情熱は普段よりも強かったことを知っているだけに驚きもひとしおだった。

「本人に直接聞いたわけじゃねぇから実際はどうだかわかんねぇけどな」

「でも昨日までは普通だったし…結果発表の直後にああなるなんて変だよぉ」

「つってもあの桜庭が一番じゃねぇってだけであそこまで落ち込むか?」

「それは…」

「ま、今はほっとけ。話しかけられたくなんてねぇだろ」

確かに大和田の言うとおりだ。彼女と対等に芸術を語る術を持たない自分達など、慰めの言葉をかけた所で余計に苦しませるだけだろう。

それに、大和田も言っていたが桜庭が本当にコンクールの結果だけであそこまで気分を落としているのかも気になった。
単に自分が彼女を内面まで知り尽くしてはいないだけなのかもしれないが。

何も出来ずにただ遠くから心配の眼差しを向けることしか出来ないなんて、歯痒いことこの上ない。

「桜庭さん………」

小さな呟きは結局誰の耳にも届くことはなく、偽りの喧騒の中へと溶けて消えていった。


















暗く淀んだ世界の中で一人きり。今の自分はまさにそう形容にするにふさわしい。

いつの間にか朝が来ていて、いつの間にか学校にいた。そしていつの間にか放課後になっていて。
舞園がかけてくれた「大丈夫ですか?」という言葉すら、どこか遠い国の言語のように聞こえていた。

結局無理にクラスメート達には笑ってみせたが、あれは誰がどう見ても作り笑いだったはず。余計に心配させてしまった自覚はある。だけれど今はそんなことに思考力を費やしていられるほど余裕はなかった。

そうしてほぼ無意識的に足はロッカールームへと進んでいて、手にはいつもの画材が握られていて。
習慣とは恐ろしいもので、いくら絵を描く気分ではなくても脳はその行為を自分自身へと強く勧めてくる。

やがて妙にゆったりとした足取りで向かった先は希望ヶ峰学園の東地区。
学校帰りで歩く生徒達、住み着いている猫、綺麗な噴水、どれもが普段だったら創作意欲を高めてくれるはずなのに今日だけはやはり違っていた。

「…描けないや」

色とりどりの絵の具を見つめても、筆を握っても、何も感じない。

不意に目からこぼれ落ちた涙に驚いたのは自分自身。何故泣く必要がある。悲しいことなど何もないではないか。絵が描けないからといって泣くなど子供の駄々じゃあるまいし。
では何故。コンクールが準賞だったから、違う、そうではない。そうではないのだ。

「あっ…」

あまりにも色々なことが頭の中を支配していたせいか、手に持っていた絵の具入れが滑り落ち中庭の広い舗道にチューブ絵の具が勢い良くばらまかれていく。

慌てて拾おうと立ち上がれば、足が水入れにぶつかって無残に倒れて置いてあったスケッチブックを濡らしていった。

「…何やってんだろ…私」

大事な画材達にすら見放されたようで、また視界が滲む。
でも当たり前だ。こんな気持ちで制作しようなどと絵画に対する最大級の冒涜。

今度こそ冷静に、屈んで絵の具を取ろうと手を伸ばした瞬間、自分のではない手が目の前のクリムゾンレッドをさらって眼前へと差し出した。

「はい、桜庭さん」

思わず目を丸くする。目の前にいるのは苗木だったから。

彼はもうとっくに帰っていたはず。桜庭が教室を出る時には既にいなかったのだから。

「苗木クン…どうして…ここに…」

「あ、えっと…その…今日の桜庭さん、なんだか様子がおかしかったから…」

「もしかして…探してくれてたの…?」

「うん。ごめんね、迷惑かもしれないっていうのはわかってたんだけど」

規則正しく絵の具を拾い上げていく彼の指先をただ黙って見つめる。

心配してくれたことは素直に嬉しい。だけれど、タイミングが悪すぎた。ギリギリのところで留めていた涙が苗木の登場によっていよいよ限界へと達してしまいそうだったから。

泣いてはいけない。更に彼を心配させてどうするという。

「コンクールの話、聞いたよ」

「あ…」

「ボクが言ったって大して慰めにはならないのかもしれないけど、また次が…」

「…違う」

もう限界だった。数秒前まであれだけ我慢しようと思っていた涙は苗木の言葉によってあっけなく頬を滑っていく。

「違うの…準賞だったことなんてどうでもいい…そうじゃないの」

自分より優れた絵を描くことのできる者などたくさんいる。その時々の完成度で一躍有名になる者だって。

だからいちいち賞の結果なんて気にしないし、それで落ち込むこともない。

負けず嫌いで機嫌を悪くする単純さが自分にも備わっていたらどれほどよかっただろう。

「今回のコンクールにはテーマがあったの…指定されるお題みたいな」

「…どんなテーマだったの?」

「“恋人”」

人を好きになって、その恋が成就した男女の関係。説明はいくらでもできる。
自分だって頭ではしかと理解していたし、また創作意欲だって普段の倍湧いていた。

一緒に寮へと帰るカップル、中庭を楽しそうに散歩するカップル、観察だってたくさんした。

取り組んだことのないテーマに興奮し、想像を巡らせ、いつもよりいい作品を作ってやろうと奮起した。

「…でも描けなかったの、どうしても。あんな感覚初めてだった」

進まない筆、濁っていくキャンバス。イメージがどうしてもわかない。
それは“超高校級のアーティスト”である桜庭彩乃にとっては恐怖すら植え付ける現象だった。

何を描いても納得がいなかい。わからないのだ、恋そのものが。

悔しくて、それと同時に悲しかった。
そして、そんな中でも完全に納得のいかない作品を作り上げてしまったことが、むなしかった。

「私は未完成の作品を提出した…!そんなの許されることじゃないのに…!」

懸命に制作した人々を差し置いて準賞なんておこがましい。落選だっておかしくはなかったはずだった、それなのに。

「…恋なんて…わからないよ」

「ボクはわかる。わかるよ、桜庭さん」

いつの間にか拾うのをやめて、苗木は真っ直ぐにこちらを見つめていた。

その瞳がとても真剣で、泣き顔なんて見られたくないのに顔を背けることができない。

「すごく説明し辛いんだけど…面倒なんだ。好きな人の動作でこっちの気持ちも簡単に変わっちゃうから」

誰を見据えているのだろう。その視線の先に。
舞園だろうか。霧切だろうか。それともまた別の誰かだろうか。
どちらにしろ、きっとその子は苗木のとても大事な人。

だってこんなにも凛々しくて、かっこいい苗木なんて見たことがないから。

「でもその分幸せだよ。その人を見ているだけで嬉しくなるからさ」

「私にも…いつか苗木クンの言ってること、体験できる…?」

「うん、できる」

「絵も…完成させられる…?」

「もちろん!だから…」

絵の具を片づけ終えて苗木は彼女の横へと腰掛けた。

そして涙で濡れた顔の桜庭に優しく笑いかけながら、転がっていた筆を手渡す。

「無理しないで桜庭さんの描きたい絵をまず描いていこうよ」

「…ありがとう、苗木クン」

震える手で握った筆は嫌に重たく感じられた。何か新しい想いが込められたような。

やがて吹っ切れたみたいに顔を上げた桜庭は、すぐに顔を横に向けて、今描きたい人、苗木の姿を描き始める。

「え!?桜庭さん!?」

「今日は苗木クンが描きたいの。…ダメかな?」

「いやっ、ダメじゃないけど!ボクを描きたいって…」

「すごくいい顔してたから…届くといいね、苗木クンの気持ち」

「あはは…一応頑張ってはいるんだけど」

苗木が笑う。桜庭も笑う。今日一日拝めなかっただけでもう随分と長い間見ていなかったような錯覚すら覚えさせられた彼女の笑みは薄い橙の空へと溶けていく。

思えばこうしてクラスメートを絵にするのは初めての気がする。

ならば、完成したこの絵には

一体どんな名前をつけようか。


(擦り込んだ砂糖は甘酸っぱくて)


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