「プールの使用許可?」
束になった書類を半ば機械的に処理しながら、希望ヶ峰学園の学園長である霧切仁は目の前の桐生へとそう言葉を投げた。
「桐生クン、君の才能はよく理解しているつもりだし私達はその才能を伸ばす為には協力は惜しまない。…が」
「やっぱダメですか?」
「さすがにね」
「…ですよね」
口ではそう言いつつもあからさまに負のオーラをまとわりつかせながら桐生は諦めにも似た色のため息を一つ吐いた。
まだ朝早くの学園長室で何故こんな妙な構図が出来上がっているかというと、時はちょうど数日前に遡る。
高校におけるメインイベントの一つと言えば学園祭だ。もちろんそれは希望ヶ峰学園にとっても同じで近く迫った学園祭で生徒はクラスのものとは別に各々の才能を活かした出し物をしようと活気づいていた。
それは桐生も例外ではなく、どんなマジックをしようかここ最近ずっと考えていた。
体育館で人体切断や空中浮遊といった定番マジック、教室で新作のテーブルマジックなど、複数案は思いつけれどどれもしっくりこない。そうしていっそグラウンドでやってしまおうかなんて考えていた時、部活終わりの水泳部員を見てピンときたのだ。水を使おうと。それも普段クラスメートの前でやるような簡単なものではなく、大量の水を利用するものを。
だからこそプールという場所が必要だった。あの広いプール全てを駆使して行うマジックはきっとやりがいがあるはず。それも皆が見たこともない新しいマジックを。
そしてマジックのタネを徹夜で練りに練って朝日が完全に昇る頃、出来上がった新作の紙を持って学園長室へと訪れ冒頭へと繋がる。
「プールの使用自体はぎりぎり出来るとしても問題は道具の方にあるんだ。すまないね、桐生クン」
「…俺も説明してて痛感しました」
夢中で考えていた時は気づかなかったが、霧切に説明すればするほど、そして冷静に考えてみればみるほどこの新作マジックにかかる費用がとんでもない額だったことを悟った。学園祭予算でどうにかできるようなものではない。
何故こんな些細なことに気付けなかったのか。
愚かな自分自身を全力で叱咤してやりながら桐生は力なく霧切へと頭を下げた。
そのままよろよろと部屋を出て行く。
窓の外の太陽は未だ薄く輝いているだけで時計を確認してみても、今はまだ登校すべき時間ではなかった。
仕方がない。霧切に許可を得てさっさとプールの詳しい構造を調べようと思っていたのだから。
だがプール使用はぎりぎり許可が下りるという話だから大掛かりなものではなくても面白いことはできるかもしれない。そう思ったら足は自然と二階の男子更衣室へと向かっていた。
我ながら苦笑してしまう。いつからこんなに自分は諦めが悪くなったのだったっけ。
きっと己を突き動かすのはその先にある笑顔。他人に喜んでもらいたいという簡単だけれど最も重みのある目的の為に。
そうして電子生徒手帳で男子更衣室の扉を開け、その先にあるプールへと続く扉を開ける。
だだっ広い屋内プールには一人の女生徒だけが心地よい水音を響かせながらまるで人魚のように泳いでいた。
「朝日奈…?」
よく見知ったその人物は、桐生の呟きと同時に笑みを浮かべて彼へと手を振った。
「桐生!どうしたの?こんな時間に。あ、トレーニング!?」
何とも彼女らしい発想に笑ってしまう。
こんなに早い時間から朝練及びトレーニングをする者なんて彼女か大神くらいではないだろうか。
軽く微笑みながらゆっくりとプールサイドに近づけば、朝日奈の方もこちらへと泳いでくる。
「俺はただ学園祭用のマジック考えようと思って来ただけだよ」
「プールでやるんだ!今までで一番スケール大きいね」
「まぁ、まだ予定でしかないんだけどなー」
期待を込めた瞳を向けられると少し居心地が悪くなる。計画はほとんど頓挫しかかっているのだから無理もないのだけれど。
それにしても朝日奈は素直だ。嬉しい感情も悲しい感情もすぐ顔に出る。素直にマジックを楽しんでもくれる。桐生の知る中で一番反応が大きく、楽しんでくれていると実感できるのはこの朝日奈で。
だからこそ今彼女から向けられている期待がくすぐったく、そして同時にとても嬉しかった。
「どんなのやるの?水の上を歩いちゃうとか!?」
「んー?それは秘密」
「えー…じゃあ何人でやるの?桐生一人?それとも助手付き?」
「それも秘密」
彼の答えに頬を膨らませて不満げにする朝日奈。
決まっていないことを答えようがないので桐生としても聞かれても曖昧な言葉しか返してやることはできない。
秘密ということにしておいて様々な想像をしてもらっていた方が彼女も楽しめるかと思ってそう言ったのだが、朝日奈には不満ばかりが募っていったようで、気づけば彼女の濡れた手が自分の方へと伸びてきていた。
そして朝日奈の思惑を理解して身を引こうとしたのと体が急な引力によって傾いたのはほぼ同時で。
何か抵抗する間もなく彼の体はプールへと吸い込まれていった。
「げほっ…!お前なー…授業前になんてことしてくれてんだよ」
ポタポタと髪の先から滴を垂らしながら呆れたように彼女を見つめる。
完全に水に浸かった体。ポケットに入っている新作マジックの書き込まれた紙はもう使い物にならないだろう。徹夜で考えたものだから少しばかり残念に思ったが目の前でイタズラっぽく笑う朝日奈を見ているとまぁいいかなんて思ってしまう。
「大丈夫だよ、一時限目体育だし。その間乾かしとけば!」
「一時間やそこらで乾けばいいけどな」
「大丈夫だって!それよりさ、桐生も泳ごうよ。競争でもいいけど」
「競争って…俺がお前に勝てるわけないっての。後で大神にでもつき合ってもらえよ。俺とやっても楽しくないと思うけど」
“超高校級のスイマー”に勝てたらそれこそ自分がその称号にふさわしくなってしまう。
苦笑混じりに投げた言葉に朝日奈は怒ったように髪の毛をアンテナの如くピンと伸ばしながら桐生の顔目掛けて水をかけた。
「そんなことない!私は桐生とは何してても大体のことは楽しめてるよ!」
「へー、それは嬉しいね。なんか告白でもされた気分だ」
からかうような言葉に今度は頬を真っ赤に染めて朝日奈は固まる。心なしか水温も上がったような気がする。
ここで素直に気持ちを口にできたらよかったのだろうが、残念なことにそんな勇気だとか度胸だとかは持ち合わせていない。
あたふたと水をはねさせる朝日奈を見て、やがて彼は声を上げて楽しそうに笑った。
「ふ…あはははは!!本当に見てて飽きないな朝日奈はさ!最高だよ」
周りの水を揺らめかせて彼は笑う。それは女から見ても悔しいくらい綺麗で、不思議と水も光って見えた。
それは相手が桐生だからだろうか。こういうのを世間ではなんて言うのだったっけ。
「ははっ…なーんか考えてたこと全部どうでもよくなったな」
「それはいいけど笑いすぎだよ!」
「ごめんごめん、面白くって。お詫びに…」
ごそごそと水中で必死にポケットを弄りながら桐生は手首のリストバンドを外して取り出したコインと一緒に掲げてみせた。
「桐生涼太最初で最後の水中マジックを披露しますよ」
「最初で最後?」
「マジシャン自身が水の中でやるなんて脱出系くらいだからな。貴重だぞー」
爽やか且つ少年のようなイタズラな笑みを浮かべる桐生に自然と心臓が跳ねる。
水の中にいるからという以上の理由で体が宙に浮いているような感覚すらした。
そこから先はあまり覚えていられていない。
確かに会話したりマジックに驚いていたり、共にプールから上がったはずなのにどれもあやふやな記憶となってしまったのだ。
結局再び脳がくっきりとした記憶を刻み始めたのは授業中に響いたぼーっとしていた自分に対しての
教師からの叱咤となってしまったのだった。
(男性が人魚に見えたらそれはなんと呼べばいいのでしょうね)