幸せの定義とは何だろうか。もちろん、普通ならば愛する人と共に生き、子供を産んで、二人で静かにその生涯を終えることにあるだろう。絵に描いたような幸せの形だ。素晴らしすぎてあくびが出る。
だけれど、私達の幸せは違う。“生きること”それ以外にない。巨人という自分達を噛み砕くあの死の刃から逃れて生き延びることこそが、既に幸せと言っていいはずだ。何を高望みする必要があるのだろう。いや、家族を作ることも、決して贅沢すぎる望みではないのかもしれないけれど。
「デスクワークってさ…案外疲れるよね」
黙々と書類をさばくペンの音だけが聞こえる室内。これでもよくしゃべるハンジが実験に行っていなくなったおかげで快適に仕事ができているというものだけれど。
空気に耐えきれなくて目の前のリヴァイに声をかけても返ってくるのは鋭い目線だけ。
「黙ってやれ」
何度このやりとりを繰り返しただろう。私が何か不満に近い発言をして、それをリヴァイが厳しくつっぱねて。
不満だって言いたくなる。何が悲しくてこんなに天気のいい日に部屋にこもって先日の壁外調査の報告書とか死亡者のリストなんて作らなければならないのか。天気のいい日に壁外調査もそれはそれで嫌だけれど。
「だってさ、つまらないんだもの。この作業」
「なら壁外に出て巨人と戦うのは楽しいのか?」
視線を下に落としてリストを見る。知っている名前なんてたくさんあった。ついこの前まで笑い合い、そして戦ってきた友人達の名。
指で字をなぞってみても、ほんの少しインクがこすれて指を汚すだけでそこに生気なんてありはしない。死んだら自分もこんなに無機質な物になり果てるのかと苦笑した。
「そうかも…こんなことをしているよりは数倍楽しい」
縦横無尽に宙を舞い、巨人を倒す。これがなかなかに爽快な作業。楽しいかと聞かれれば答えはきっと是。恐らく世間一般的に見て、この感覚は狂っているのかもしれないけれど。
そもそも“楽しい”という感情の基準もとても曖昧なものなのではないか。どこか遠い所に、自分達と同じように“人”が住んでいて、彼らの中では自分は普通なのかもしれない。
考えだしたらキリがなくて。私はついにペンを置いて、机に頬杖をつきながら、窓の外のなんてことない青空を見つめた。柔らかな風が吹き込んでくる。心地いい。巨人が視界に入っていないだけで不思議とそう思う。
「リヴァイは今楽しい?」
なんてことない質問。きっと彼なら楽しくないとか、くだらないとか言うのだろう。面白い答えなんか期待してないからそれはそれでいいけれど。
「楽しくはねぇ。ただ…不満もねぇ」
「へぇー…って、え!?驚いた、不満ないんだ」
思わず目を丸くしてしまう。いつも街の富豪やら憲兵やらに舌打ちをしている光景をよく見るから、不満だらけだと思っていたのに。
「それは何で?何か趣味でもあったっけ?あ、仕事が趣味っていうやつ?」
矢継ぎ早に質問を並べ立てたのは、きっと知りたかったからなんだと思う。こんな世の中でも彼の心を満たす何かを。
私の問いにリヴァイは顔を上げることはない。けれど、ゆっくりとその唇は言葉を紡ぐ。
「俺は、お前がいればそれでいい」
書類から目を離さず、本当に何でもないことのように彼はそう言った。
思わず面食らってしまう。
私と彼はいつも当たり前のように傍にいて、いつの間にかなくてはならない存在になっていた。そのことは覚えている。でも、こうしてはっきりと言葉にしてもらったのは初めてだった。
「ふふ、何それ。じゃあリヴァイは私が傍にいると幸せなの?」
「うぜぇ、調子に乗るな」
彼にはかわされてしまったけれど、私は溢れる喜びを抑えることはできなくて。顔には自然と笑みが浮かぶ。
考えてみたら私もそうかもしれない。こんな世の中で自暴自棄にならずに生きていられるのは、こうして大切な人と共にいられるからなのかもしれなかったから。
そうでなくても、一つ確信したことがある。今さっき、風が心地いいと感じたこと、壁外に出た時は吹き込む風にそんなことは感じない。それが、リヴァイと何でもない日々を過ごしている時にそう感じたのが自分が今何の不満もないことの証拠だ。
「ねぇ、リヴァイ」
「何だ」
「私もね、不満はないよ。幸せ」
「……そうか」
少しの間。こういう時の彼は、内心で照れてるってこと。本当に不器用でわかりにくいけど、私にはちゃんとわかってる。そんな様子を見て満足するなんて、私は随分とリヴァイという存在に毒されてしまったものだ。そこにある幸せが当たり前になりすぎて気づけなくなるくらい。
「だからさ、これからもお互い幸せであるために、ずっと傍にいてくれる?」
今度はリヴァイが面食らったような顔を作る。さっきの仕返し、なんて子供じみた意味を込めたつもりはないけれど、リヴァイがやっと私を真っ直ぐに見てくれたので良しとしましょう。
何も言わない彼をジッと見つめて答えを待っていると、ふと思い浮かんでくることがあった。幸せの定義のこと。あんなに、贅沢だと思っていたのに、今では自分もその型に少し嵌っていっているようで、苦笑してしまう。
すると、気がついたリヴァイはいつもの厳しい顔つきに戻っていて、まるで噛みしめるように言葉を発す。
「なら、その左手の薬指だけは喰われないように注意しておけ」
その瞬間に、自分に向けて何かが投げられる。それは小さくて、私は慌てて地に落ちる前にそれを手の中に収めた。
手を開いてみれば、そこには、窓から差し込む太陽の光を浴びて、キラキラと輝く指輪。一瞬わけがわからなくて、指輪とリヴァイを交互に見てしまう。けれど、“左手”“薬指”“指輪”。それぞれのピースを頭の中で組み合わせていって、やっと私は彼の言葉と指輪の意味を理解した。
恐る恐る左手の薬指にはめてみれば、ぴったりとはまるそれ。思わず涙が溢れてくる。
「そんなことでいちいち泣くな」
「へへ…これは嬉し泣きだよ」
それきり彼は何も言わなくなった。
こんな時、気の利いた言葉一つ言えないし、行動一つとれない。本当に不器用人だ。だってこんなに大事な物を投げてよこしてしまうくらいなのだから。
けれどそんな彼に呆れるよりも
今、この瞬間に一番幸せを感じている自分に呆れてしまった。
結局は、こういう単純なことが
定義通りのことが一番人にとっては幸せなんでしょう。
まったく…単純すぎて笑えてくる。
でも
きっとそれが“幸福”っていうものなのね。
企画「幸福論」様へ提出