細心の注意を払いながら家屋と家屋の間を足を引きずりながら進んでいく。そうする度にできる鮮血の赤い線は巨人の食事なんかよりもよっぽど生々しく思えた。
全く持って世知辛い世の中になってしまったものだ。
もっとも、暮らしやすい世の中というものも生まれてこの方味わったことはないのだけれど。
「はは…さすがにこれはもうダメかも」
もう何度目か数えることすら忘れてしまった壁外調査。
右足を負傷し、装置のガスも既に切れていた。やむなく撤退しようにも門までの距離が長すぎる。たどり着くまでに巨人と遭遇しない可能性など無いに等しいだろう。
だがそれでも、この先足が使いものにならなくなってもいいから、生きることだけは諦めたくはなかったから、彼女は歩みを止めはしなかった。
その途中に転がっている仲間だったはずの者達の死体を見て体が小刻みに震えそうになっても、必死に奥歯を噛み締めて耐えた。
そうして平気な風に虚勢を張っていなければ、簡単に心は恐怖にのみ込まれてしまいそうだったから。
怖くないわけがない。こんなのはあやふやな死に向かって歩いているようなものだ。平気でいられるほど自分は立派な存在ではないのだ。
「死にたくないっ…絶対…死ぬもんか」
引きずる足の重みも痛みも、感覚さえも全てを自意識の外へと追いやってただそれだけを考える。
そうして一軒家が続く道の角を曲がった時だった。
この世で最も憎らしく、それでいて最も恐怖する存在の無防備な剥き出しの裸足が目に映り込んだのは。
「……ひっ…」
上げる目線の先には人類の捕食者の無慈悲なまでに無感情な瞳があった。
反射的に刃に手をかけるも、震えていてうまく掴むことができない。
目の前の死に今まで抱いていた生への執着も剥がれていく。
「い…いや…誰かっ…誰か助けてっ…!」
悲痛な叫びはただ何もない空間に溶けていった。
巨人の手はそんな空を切ってナマエへと伸びてくる。
もはや逃げ場はどこにもなかった。こんな時に限って体は動かないし、負傷した足は思い出したかのように今更痛みを彼女へと与えた。
首根っこを摘まれ宙に浮く体。目の前に広がるのは美しい走馬灯なんかではなく、ただただ巨人の大きく開けた口の中だけ。
なんて醜い。最悪だ。巨人への恐怖で塗り固められたこの世界はなんて残酷なのだろう。だって最愛の人に別れを言う時間さえ与えられないのだから。
諦めが肝心とはよくできた言葉かもしれない。ここまで強い死への恐怖を感じると不思議と納得してしまう。
目を閉じる。やがてすぐ後にやってくるであろう痛みを覚悟して強く歯を食いしばった時、鈍い音が辺りに響き渡って体は急な浮遊感に襲われた。
「…あ」
ポツリと声をもらしたのと、体が飛んできた何かに掴まれたのはほぼ同時で。
眼前にはただ遠ざかっていく巨人の蒸発する姿だけが映っていた。
「…兵、長」
今の己はまさしく担がれている状態だ。小柄な体のどこにそんな力があるんだろうかと、やけに冷静になってしまった頭で考えながらその名を呼ぶ。
いや、冷静ではないか。うまく頭が回らないだけ。
自分が今生きているということさえも、どこか他人事のように感じられた。
最後に思い浮かべた最愛の人に助けられる、そんなのは御伽噺の中だけに起こることのはずなのに。
「すいません…迷惑かけ、ちゃって…」
顔を見ていないのに、そう言った後に彼の顔が苛立たしげに歪んだような気がした。
「…正義のヒーローって本当にいるもんですね」
「俺がそう見えてるんだとしたら頭いかれてるな」
冗談めかした会話をしながらリヴァイは彼女を抱えたまま壁の方へと向かう。
ゆっくりとゆっくりと自分が助かったのだという実感がわいてきてナマエは思い出したように小さく体を震わせた。
目にはうっすらと涙の膜が張っている。
「私…さっき巨人に捕まった時、生きることを諦めちゃったんです」
唇をこれでもかというほど震わせ、それでも言葉を紡ぐことはやめない。
否、やめないのではなく、話すことにでも集中していなければ脆い涙腺など簡単に崩壊してしまいそうだったから。
「でも…兵長の傍にいることは諦めたくなかった…」
この人の傍でこれからも共に戦っていきたいと、傍にいたいと、最後までそんなことを思ってしまっていた。
生きていることを諦めて、リヴァイと共に在ることを望むなど、矛盾している。
人間などそんなものなのだろうか。この理不尽な世界の中でなら、そんな我が儘じみた矛盾も受け入れられるのか。
最後まで言い終えた時、不意に彼の込める力が強くなった。
「なら諦めるな…これから先も」
「はい」
「お前だけの気持ちじゃねぇんだよ」
「…はい」
二回目の返事はひどく掠れていた。自分だけの一方的な感情ではないと、明確に示されたようでそれが嬉しくてたまらなかった。
淀みきったこの世界。でもだからこそ、余計に尊い存在は光って見える。
そうして「好きです」と小さく呟いた言葉は果たして彼には届いていただろうか、そしてこんな時に言うなと怒られてしまうだろうか。
だがリヴァイは特に何の反応もせずに進み続けた。
予想通りと言ったらそうかもしれない。
軽く苦笑していると、やがて聞こえてくるのは彼の声。
「…死なせねぇよ、お前だけは」
微かに鼓膜を震わすだけの小さな声は、それでもナマエの心を揺らす。
命を危険に晒し、助けてもらっておきながらこんなことを思うのはおかしいかもしれない。
だけれど、こんな場面を作ってくれた世界に
彼女は深く感謝したのだった。