*長編の番外編なので名前変換は長編で使っている名前でどうぞ。
穏やかな時が流れる。何を思うでもなく、神経を張り詰める必要があるわけでもなく、本当に穏やかな時間が。
船特有のゆらゆらと規則的に揺れる微かな感覚も、何とも言えない癒やしを彼女に与えていた。
「…あったかい」
窓から差し込む陽光に、まるで日光浴をしている気分。
ナマエは小さく息を吐くと、深くソファーに腰掛けた。
今は皆外に出ていて室内にいるのは自分だけ。レームは煙草を、ウゴは車のメンテナンス、マオはヨナ探し、他の皆も何かしら理由を言って部屋を出て行ったけれど、正直に言って覚えていない。あの時は昼食の後で一層ボーっとしていたから。
いつの間にか一人になっていて、そのことはほんの少し寂しかったけれど、それは幼い頃抱いていた虚無感とは違っていて。己の成長に笑みを浮かべずにはいられない。そう思うこと自体、自分が普通とは違うという証明なのかもしれないけれど。
「…眠いなぁ」
うっすらと聞こえてくる波の音、鳥の羽ばたく音、揺れる身体、己を包む太陽の光。全てが睡魔を呼び寄せるに相応しい。
あまり昼寝というものはしたことがないし、夜眠れなくなっても困るので、ナマエは軽く頭を振って起きていようと思うのだが一度芽生えた欲求はなかなか簡単に振り払うことはできなかった。
寝るのは嫌いだ。その先に何が待っているかわからないから。眠りが浅ければ夢を見る、その夢が幸せなものかそうでないものかに関わらず。
もしその夢から覚めなかったら、なんてくだらない妄想だと言われるかもしれないが己の眠りへの恐怖はこれが大部分を占めていた。
「せめていい夢が見たいですね…」
やがて誰にともなく口からは呟きがこぼれ、意識がゆっくりと肉体から離れていく感覚が体中を支配していった。
「ナマエー、いるかー?」
無遠慮に開けられる扉。船室内に開閉音は大きく響いたが、部屋の中は至って静かだった。
一瞬扉を開けた張本人であるルツは首を傾げたが、ソファーに体を預けて眠っているナマエの姿を見つけて目を見開く。
「寝てんのか…?」
規則正しく呼吸をする動作がなければまるでその姿は人形のようで。白い肌や細い髪に思わず視線を釘付けにしてしまう。
いや、それよりも驚くべきことがある。
もう彼女とのつき合いはかなり長いが、それでもナマエが武器も持たずに無防備に眠っている光景を見たのは初めてだった。
と言うのも、出会った当初の彼女は非常に警戒心が強く、眠る姿を見るどころか後ろから一声かけただけでもCz-75の銃口を眉間に突きつけられるようだったのだ。自分だと気づけばすぐに何度も謝られはしたけれど。
「ナマエ」
名前を呼んでみるけれど、当然のことながら返事はない。
そうしてルツはゆっくりと歩み寄っていき彼女の隣に腰掛けた。
触れられそうで触れられない。触れたら壊れてしまいそうだったし、何より起こしてしまってこんな貴重な姿を見られなくなるのは嫌だったから。
ふと机上の拳銃に目が止まる。銃を体から離れた位置に置くことも、彼女にしては珍しい。
「本当にどうしたんだよ。飯の後だからか?」
まるで他人への問いかけのような自分への問いかけ。
そしてその答えは恐らく是。
昼食を食べて、それからこんなにも穏やかな時の流れに身を任せていたならば、素直に昼寝の一つでもしたくなるのは当然だ。ナマエだってそんな自然に従ったのだろう。
ただナマエという人間にとってはその行為は超がつくほど珍しいというだけ。異常なまでの警戒心を崩すことのなかった昔のナマエからは考えられない、綻びという名の人間らしさだった。
ルツは彼女を眺めながら、薄く笑う。
単純に嬉しかったのだ。彼女が素直に昼寝などする日が来たことが。
そして同時に自惚れた。幾ら寝ているとはいってもナマエのことだ、こうして他人が近づいたならばすぐにでも目を覚ますはずだろう。それがないということは、己は彼女に危険を感じさせないほど信頼されていると言えるのではないか、と。
「そういうことなんだろ?ナマエ…」
そう問いかけた途端、今までしっかりとした体勢で眠っていたナマエの体がぐらりと傾いた。
ルツの肩辺りに頭を、いや、体重を預けてまた彼女は規則正しく呼吸を繰り返す。
思わず彼の心臓も大きく跳ねた。一瞬起きたのかと焦ったが、そういうわけではなかったので安堵する。
そして今の何でもないナマエの動作が先ほどの質問の答えのようで、ほんの少し温かな気持ちにもなった。
「なぁ…聞こえてっか?」
「ま、聞かれてても困るんだけどよ」なんて冗談めかして静かに笑いながら、ルツはナマエに一方的に喋りかける。
好きな女が隣で無防備に寝ているのだ。そう考えると心臓は普段よりも大きく音を立てるし、心の底からやましい気持ちがないといったら嘘になる。
触れてみたいし、色々してみたい。
だがそれ以上に、言ってみたい言葉があった。ずっとずっと抱え込んできて、小隊のほとんどの者にも知られているけれど、一度もはっきりと口には出したことのなかった言葉が。
ソッと彼女の頬に触れる。やはり起きる気配はない。こんなにもナマエの肌は綺麗だったのかと驚いたけれど、そんな感心を抑え込んでゆっくりと口を開いていった。
「好きだ。ナマエ」
一体何年の時を要したのだろう。こんなたった三文字の簡潔な想いを口にするだけに。
自分はこんなにも臆病だっただろうか。いや、慎重というべきだろうか。
伝えるだけならいつでも伝えられた。二人きりになった時も少なくはなかったのだし、本当にいつだって。
だけれど、ナマエの恋愛方面への関心のなさと、自分をそういった対象として見ていなかったことを知っていたから。返ってくる答えのわかっている告白など、惨めなだけではないか。
だが諦めなどはもちろんない。どれだけの時間がかかったって構わない。勝算がないからといって簡単に捨てられるほど生半可な想いでもないのだから。
「伝えてやるさ。いつか必ず。こんな寝てる時じゃなく…ちゃんと」
呟いた言葉は、やはり誰の耳にも届くことなく消えていく。
やがてルツは緩くナマエの頭を撫でて
微笑を湛えながら目を閉じた。