その印はまるで
「はぁ…和むなぁ」

のほほんと音がつきそうなほど緩んだ表情をしながらナマエはカップの中のミルクティーを一口啜った。

ここ連日色んな仕事をしていてゆっくりと休む暇がなかったのだ。やっと訪れた休息の時間に、ナマエはここぞとばかりに広いソファーを陣取って羽を伸ばしている。船に乗っているせいか、微かに体が揺れて、それさえも心地いい感覚として彼女の精神を癒していた。

隣の船室ではヨナとマオが勉強している。休みの日にまで勉強時間を入れられるなどかわいそうなことこの上ないがヨナのことだ。その内サボってこっちに来るだろう。

もしそうなるとしたら恐らくもうすぐだろうからナマエは楽しそうに口元を緩ませて彼の分のミルクティーを用意しておこうと立ち上がった。
それと同時に扉の開く音がする。ヨナだろうかと振り向いたのだが、そこにいたのは彼ではなかった。

「あ、アール」

「ん?あぁナマエ。何だ、やることないからってずっとここにいたのか?」

アールは彼女と同じようにカップを片手に持ちながら軽くナマエに笑いかける。
どうやら考えることは皆同じらしい。ただ、彼の持っているカップからはストレートの紅茶独特の香りが漂ってきていて、ナマエの鼻を僅かにくすぐった。

「それはアールだって同じでしょー。これからここに居座るつもりだったんじゃないの?」

「はは、どうだかなァ」

ソファーに改めて座り直した彼女の隣に、尚も愉快そうに笑いながらアールはゆっくりと腰を下ろす。

口ではそう言いながらも、本当は二人とも何となくわかっていたのかもしれない。ここに来れば二人だけの空間が得られることを。
わかっていたからこそナマエは新しく紅茶を作りに行くことを中断したし、アールもまるで当然のように彼女の隣に座ったのだろう。

ルツにはよく「お前らって変な関係だよな」なんて言われるけれど、ナマエはそれで十分幸せだった。アールだって同じ。何も言わなくてもいてほしい時に傍にいて、互いを満たし合う関係が幸せでたまらないのだ。

「そういやさ、さっきマオがヨナ坊探し回ってたぜ。絶対サボられたんだよな、あれは」

くっくっと溢れる笑いを我慢しながら、彼は先ほどの光景を思い出していた。

今日は特に見つからないようで、ついにはマオは息を切らしていた始末。船なんていうある意味どこにも逃げられない絶好の鳥かごの中で探し人一人見つけられないのはかわいそうだが非常に面白い。

「ふふ、私もそろそろヨナ君逃げ出す頃だと思ってた」

空になりかけのカップを顔の横に持っていって柔和な笑みを浮かべるナマエ。
彼の分を用意しようとした自分の判断はやはり間違ってはいなかったようだ。

どうせもうすぐここが避難所になるのだ、ミルクティーを用意しておいてあげなければ。

「お、もう一杯飲むのか?」

立ち上がって調理室へと移動しようとした彼女へとアールは怪訝そうに声を投げかけた。そういえば彼女は自分がここに来た時もどこかに行こうとしていたことを思い出す。

「ううん、ヨナ君の分、そろそろこっち逃げてくるだろうから用意しといてあげよっかなって」

なるほどと納得する。彼女はいつだってそういう女だ。誰彼構わず優しいから、こちらとしては困ってしまうが。少年相手にほんの一瞬でも嫉妬の感情を生んだ自分もどうかとは思うけれど。

そんな自分に苦笑しながらも、何かナマエに言おうとしたその時、ぐらりと揺れる感覚。正確には自分達が揺れたのではなく船の方が。方向転換でもしたのか、大きな揺れ。

「うわわっ」

座っていたアールの方にはさほど被害はなかったが、問題はナマエの方で。しまったと思った時にはもう遅く、彼女が持っていたカップは綺麗に宙を舞い、盛大な音とを立てて床へと落下し、そして割れた。

「た…大変!拾わなきゃ!!…って痛っ…!」

「おい、ナマエ!大丈夫か!?」

少し慌ててしまったのか、アールが止める間もなくナマエがカップの欠片を集めようとした為に、彼女の指には真新しい小さな傷が出来上がる。白い指に浮かぶ赤は、素面の時に見たならば息をのむほど綺麗だったが、生憎今はそんな余裕はない。

アールは急いで彼女へと駆け寄っていった。その細い小さな腕を掴んで傷口を暫し眺める。

「ア…アール?」

「破片は入り込んでねぇみたいだな…よし、ちょっと待ってろ」

そう言って未だにおたおたとするナマエに構わず、アールは己の服のポケットをごそごそと弄った。やがて、彼の手には絆創膏が。
日頃から持ち歩いているのかと、迷惑をかけている側なのはわかっていたが、ナマエは軽く感心してしまう。

そのまま自身に貼ろうとするアールにハッと我に返った。

「いいよ!自分でできるから!」

「ダメだ」

いつもより真面目な彼の声。本気で心配させてしまったのだろうか。そう思うと、何故だかほんの少しだけ心が温かくなった。

そして、処置の施された指をジッと見つめる。そこにはうっすらと赤が滲み、絆創膏を彩っていた。

「ごめんね。これ、ありがと」

「気にすんな」なんて言いながらわしゃわしゃと彼は彼女の頭を撫でる。そうしてナマエの怪我をした指に軽く口づけてから、散らばった大きなカップの欠片に手を伸ばした。

突然のことにもちろん驚いて顔を朱に染めたナマエだったが、慌てて彼の作業を手伝い始める。
アールはいちいち心臓に悪い。わざと自分の恥ずかしがることをやってきているかと思うほど。しかも向こうはいつだって何でもない顔をしているからそれが余計に悔しい。

ナマエは少し頬を膨らませて、不満を吐き出すように言葉を紡いだ。

「あーあ、ヨナ君に紅茶作るつもりだったのに…今日はもう無理そうだね」

「はは、ならこの割れたカップに感謝しないとな」

意味がわからないという風に首を傾げればそれに応えるように彼は言葉を続ける。

「ヨナ坊に割くはずだった時間を俺がもらっちまったんだ。嫉妬しなくて済む」

少し照れくさそうに笑うアール。それにつられてナマエも笑う。

結局アールもそんなに余裕ではなかったということ。

それを知った時

ナマエは不思議と絆創膏をつけている指が

温かい熱を持ったように感じていた。


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