「そういえば明日らしいですね、104期訓練生の卒業は」
丁寧にカップにコーヒーを注ぎながら、ザジは思い出したように一言そう言った。
雨上がりの暖かな日差しが差し込む静かな部屋の中は、彼のそんな一言によってさらに時が止まったように静けさに満ちる。
「あ…そっかぁ、じゃあエレン達が卒業するんだ…!!」
「早いもんッスねぇ。まだずっと先のことだと思ってたッス」
調査兵になると、二人の前で約束してくれたエレン。
母親を巨人のせいで彼の目の前で失って尚、調査兵になって戦おうとする強い精神力を持っている男の子。たった数度会っただけなのに、こんなにも他人の心の中に存在を残すことのできる不思議な魅力を持った者でもある。
その魅力は直接期待へと繋がっているのだろう。昔を懐かしむだけではなく、もっと別の大きな何かを見据えているような不思議な色をレイラとルイスは瞳の内側に塗り込めていた。
「10番以内で卒業できるかな」
高順位で卒業するということはそれだけ能力値が高いということ。そんな優秀な人材が調査兵団に入団してくれるなど、頼もしいことこの上ない。
言葉では疑問系にしたけれど、本心では信じていた、彼が高順位で卒業できることを。
実際エレンの実力をこの目で見たわけではないけれど。
「まぁ、好成績じゃなくても団員増えるだけマシッスよ。成績と生存確率は表裏一体じゃねぇってな。なぁザジ?」
「うっ…それを言われるとちょっと…」
特に秀でるものがなくてもこうして何年も生き残っていられるのは恐らく運が良かったのと、周りの助けがあったからだろう。
実際、ザジ自身が招いたことだとはいえあれだけ絶体絶命の危機を乗り越え、怪我も後遺症を残すことなく完治してここにいられることは奇跡と言っても何ら問題ないはずだ。
救われた命は救ってくれた者達に使うべきなのだからもう簡単に命を投げ出すことはできない。
もとより、もうそんな馬鹿げたことをする気はないのだけれど。
「優秀かどうかはともかく早く会ってみたいです。その、エレンって子に。勧誘の時にどの子か教えてくださいね」
二人がそこまで期待するのだ、恐らく普通ではないのだろう。
明日は卒業の日で次の日は壁外調査。実際この目で彼の姿を見ることができるのは次明後日の新入隊員勧誘の時になる。
催し物前の子供ではないけれど、ただ純粋に楽しみだった。だが期待に胸膨らませてばかりはいられない。
ザジはカップの中のコーヒーに目を落として、憂うようにぽつりと呟いた。
「ですが…エレン君は入団してくれるとして、今年は何人が調査兵になるんでしょうね?」
毎年失う兵士の数と入団する兵士の数は比例しない。失う方が多いのだ。
あまりレイラの前でこんなことは言いたくはなかったが、気にするなという方が無理だった。
「そればっかりはどうなるかわからないけど、多分あんまりにも少なすぎることはないんじゃないかな」
楽天的すぎるほどに穏やかに微笑むレイラ。
そこには確信めいた感情のようなものが含まれているように感じられたが、正直わけがわからない。ザジは首を傾げながら彼女へと問いかけた。
「何故です?」
「きっとエレンに影響された子達が来てくれるはずだから…」
彼ほどの覚悟と闘志を三年も傍で見てきたのだ、心動かされる者が一人もいないなど、そんな馬鹿げた話があるわけがない。
それすらも勝手な決めつけなのかもしれないけれど、信じていたかった。
「ミカサにアルミン…あいつらもエレンについてくるでしょうしね」
ぼんやりと虚空を眺めながら呟いて、ルイスはあの三人組のことを思い返してみた。
入団についてエレンが二人に何を言うかはわからないが、恐らくそうなるだろう。
特にミカサはエレンのことを大層大事そうにしていたから、彼女は彼と何があっても共に戦うはずだ。
盲信、なんて嫌みったらしい言い方をするつもりはないがミカサは何処か自分と似たような所があるから。
大切な存在の為に自らの生き方を選択し、大切な存在の為に戦う。ミカサに言ったら一緒にしないでほしいと一蹴されるかもしれないがルイスにとっては対象という軸が違うだけで考え方にほとんど違いなどなかった。
「でも何はともあれ、まずは明後日の壁外調査を何事もなく終わらせなくちゃ」
「はいッス」
「わかってます」
104期生のことについて思考する時間を費やすのはいつだってできる。
今はレイラの言うとおり目前に迫った壁外調査に集中するべきだ。
とは言ってもコーヒーカップ片手に部屋で寛ぎまくっている自分らに緊張感があるなんて言った所で説得力など微塵もないのだけれど。
ザジも最初の内はそんな二人に危機感を持っていたが、今ではもう慣れたのか、すっかりその一部になってしまっている。
「あ、ごめんザジ。コーヒーおかわりくれるかな」
「はい、少々お待ちを」
温かなコーヒーから流れる湯気を浴びながら、ザジは途切れた会話を再開させるようにゆっくりと口を開いた。
「そういえば最近こうやって部屋でダラダラしてても兵長に怒られなくなりましたね」
いや、怒られなくなったというよりは、リヴァイ自体が部屋に来なくなったと言った方が正しいだろう。
少し前までは壁外調査前にこんな緩んだ態度を見せていたら嫌みの一つや二つ珍しいものではなかったのに。
それが寂しいとか物足りないというわけではない。ただ芽生えた疑問の種は考えれば考えるほど大きく成長していく。
考え込むザジが面白かったのか、レイラはおかしそうに笑って、それから何でもないことを話すかのように言葉を紡いでいった。
「一応リヴァイも兵士長だからね。私達ばかりに時間をかけてはいられないんじゃないかな」
「でもそれは今も昔も同じはずですよね?」
連鎖的に生まれてくる疑問を解消しようと、ザジは新たな質問を彼女へと投げる。
それでもレイラは困惑することなく淡々と問の答えを口にした。
「それは単純に私が昔は頼りなく見えてたからだと思うよ」
「何言ってんスか!仮に兵長がそんなこと考えてたとしたら今頃俺が殺してるッスよ」
言い方に多少引っかかる所はあるが、ルイスの言うとおりだ。
責任感や頼りがいという言葉を具現化したような存在のレイラにそんなことを思うような人間などいるものか。リヴァイほどの人間なら特に。
「でも、私達ばかりに構ってられないっていうのは本当だと思うけどな」
両手で包み込むようにカップを持ちながら、レイラはどこか切なげな表情を作る。
その瞳の奥にはうっすらと、悲しみの色が塗り込められているようだった。
「ペトラ達は正式にリヴァイの部下になったんだから、彼らに時間を割いてあげないとだし」
壁外調査をする時だって彼らは常に共に行動するようになった。特にペトラはリヴァイのサポートに徹し、もはや彼の隣で戦うのは彼女の役目となっている。
悔しいわけではない。ただ胸にぽっかりとした空洞を作られたような感覚と、言い知れない恐怖だけが心を満たしていた。
それはリヴァイが、自分といるよりもペトラといる時間の方が長くなったことに対してではなく、彼にとっての自分という存在がペトラという存在によって徐々に片隅に追いやられていくことに対して。
どうしてそんなことを思うのか、自分でもよくわからないのだけれど。
そうしてやや沈んでしまった様子のレイラをルイスは暫く黙って見つめていたが、やがて言葉を選ぶように重々しく口を開いた。
「分隊長はペトラが羨ましいんスか?」
言われたことの意味がわからず暫し固まるレイラ。
何故彼はこんなことを聞いてきたのだろう。しかもあの四人全員のことではなく、ペトラだけを指して。
羨ましい、どうだろう、わからない。わからないが多分違うと思う。
こんな複雑な感情を羨望などというもので結論づけてしまうのは、余りにも早急すぎる気がした。
「多分違う。でも何でそんなことを…?」
「いやぁ、ただ気になっただけッス。ちなみに、分隊長にとっての兵長ってどんな存在なんスか?」
言葉の裏に隠された彼の真意に気づいたのは恐らくザジだけで。
それがわかった時にはザジは思わずルイスの方を見てしまっていたが、彼はそれを気にせずにただレイラの答えを待っているだけだった。
「私にとってのリヴァイは…」
やがてルイスの質問を深く考え込みながら
レイラは静かに目を閉じた。