久しぶりの雨。忙しすぎて天候を気にしている暇などほとんどなかったからそう感じるのかもしれないのけれど。
さっきまで晴れていたのに降り出すとは、全く持って空は気まぐれすぎて笑えてくる。そんな気まぐれなものを愛しく思っている自分も自分だが。
思えばリヴァイと初めて出会った日も、ハンジと出会った日も、そしてルイスと初めて出会った日もこんな風に静かに雨が降っていた。
もしかしたら雨は出会いを運んでくるものなのかもしれない。数多の出会いと別れを繰り返して、それをリセットしながら新しきを運んで。
「今日も誰かに新しく出会ったりして」
冗談めかして呟かれた言葉は雨の音にかき消されて誰の耳にも届くことはない。
懐かしむように昔を、皆に出会ったあの雨を日を思い出してみる。
考えてみれば、随分と長い時間を彼らと共に過ごしてきたものだ。たくさんの者達を失い、記憶の中に住まうことになってしまったのに、彼らの姿だけは未だ見失うことなく己の隣に存在しているのだから。
そうして小さく笑みを浮かべながら、窓の外の雨粒から視線を外せば、突き当たりに今の今まで捜し求めていた人物の姿。
「リヴァイ!!あ…っと、お話中だったみたいだね。ごめん」
急いで突き当たりまで進んでいった時に、死角にいたペトラ達四人の姿を確認して、レイラは申し訳なさそうに眉を下げた。
そんな彼女の様子を横目で見て、リヴァイはまた彼らへと視線を戻す。
「お前ら、話は以上だ。行け」
「「はい!」」
何か仕事の指示でもしていたのだろうか。四人はぴったりと各々の声を重ね合わせながら返事をして、軽くレイラに頭を下げながらその場を去っていく。
彼らがいなくなった後にリヴァイはやっとレイラに体を向けて彼女を見つめた。その瞳が「早く用件を言え」と言われているようで、思わず苦笑してしまう。
「書類に不備があったってエルヴィンに聞いたからさ、訂正しようと思って」
思い出したように眉間に皺を寄せながらリヴァイはレイラを見て、それから手元の紙束に目を落とす。
彼もまた、彼女に書類に不備があったことを伝えに来ようとしていたのか、数枚か捲っていって目当てのものにたどり着くと、一層不機嫌そうにそれをレイラへと突き出した。
「三行目の部分だ。…くだらねぇミスしやがって」
「私だってミスくらいするって。仕方ないでしょー」
「一つズレが生じたら全部がズレちまうだろうが。仕方ないで済ますな」
「ごめんごめん。次からは絶対ないようにするから」
このリヴァイに対してここまで砕けてものを言えるのは恐らく彼女ぐらいだろう。
リヴァイも何だかんだで心から怒ってはいないのか、不機嫌そうだった表情もいつの間にか解かれている。
レイラは紙面に目を落としつつ、沈みかけた二人の間の静寂を打ち破るようにゆっくりと口を開いた。
「さっきね、リヴァイと初めて会った時のこと考えてたんだ」
彼から返事が返ってくることはない。だけれど、彼も今自分と同じようにその時のことを思い出しているのだろうことは容易に想像できた。
「今こうして思い返してみるとさ、もう本当に何十年も前のことみたいに思えちゃうのが不思議だよね」
指で紙面の文字をなぞる。乾ききって擦れることもない黒インクの文字の羅列も、書類の内容も、最早微塵も頭の中に入り込んではこなかった。
「あの頃からリヴァイは何も変わってない。口が悪いのも、強いのも、ずっと昔のまま」
初めて会った時はその辛辣な言葉の数々に大層衝撃を受けたものだ。彼の態度に何度も腹を立てたこともあったが、それもまた今となっては良き思い出となっている。
今まで一度も喧嘩したことがないというのは奇跡としか言いようがない。
共に掃除して、時には笑い合って、時には弱さを露呈して、それをリヴァイが受け入れて、そして壁外に出て戦って。
「でも…本当に色んなことがあったよね。ねぇリヴァイ、私はどう?昔と変わったかな?」
純粋な笑顔をリヴァイへと向けるレイラ。
変わったか、などと今更口に出す必要もない。答えなど、そんなものは初めから決まりきっていた。
「お前は変わった」
彼女の瞳がみるみる驚きの色に染まっていく。
昔から変わらないものがあるとするならばそれはこの感情の豊かさだと思う。
嘘をつくのは上手いくせにそれとは関係ない感情の表現は昔からわかりやすいのだ。
「お前は多くに目を向けるようになった」
どんどんと背負うものが増えていった。それは個人が持ちうる許容量というものを完全に超えてしまうほど。
それから部下を持ち、彼らのことを自分のことなど関係なしに気にかけるようになった。
「あと戦い方も変わった。時々俺の所に来てするくだらねぇ話も今じゃほとんどルイスにザジの野郎のことばっかだしな。それに…」
言い始めたらキリがない。次から次へと出てくるのだ。昔と今のレイラとの相違点など。
いつまでも喋っているのではないかというほどのリヴァイの勢いを止めたのは、彼の視界に映った陰鬱な空には似つかわしくない柔和な彼女の微笑みだった。
「何が可笑しい…?」
「ふふ…だってさ、案外リヴァイって私のこと見てくれてるんだなぁって思ったから」
言われてみて、改めて思い返してみる。己の記憶の中に彼女がどれだけの大きさで存在しているのかを。
レイラは大切な仲間だ。それは確かなこと。だが仲間というだけで割り切ってしまうにはあまりにももったいないような、そんな気がした。
レイラの笑顔は、優しさは、自分の中で仲間なんておおざっぱなカテゴリーで分類できてしまうほど薄っぺらく、価値の低い代物ではないはずなのだから。
珍しく纏まらない思考の中で、レイラの方は嬉しそうに笑いながら口を開く。
「そういうのが変わったことだって言うんならさ、リヴァイだってたくさんあるよ」
リヴァイの真横で窓を背にしながら、彼女は目だけを天井へと向けた。
「昔に比べてルイスと喧嘩する量が減ったこと、掃除の仕方がプロみたいに上手くなったこと、それに、前より喋るようになったよね」
「私もずっとあなたを見てきたから」と、彼女はそう言った。屈託のない綺麗な笑顔だ。本当に、このまま戦いの中で失わせるには惜しいほど。
この言葉に他意はないのだろう。彼女は仲間でも恋人でも誰にでも同じようにこういったことを言う女なのだから。
何となく、それが物足りなく感じて、リヴァイは眉間に皺を寄せる。
それでも、もう暫くは彼女と過ごすこの穏やかな時が続けばいいと、何故かそう思わずにはいられなかった。
「やっぱり…絶対に変わらないものなんてないんだね」
憂うように紡がれた言葉は一体どんな意味を込めていたのだろう。
確かに変わらないものなどない。全て時と共に変化していく。彼女はそれを恐れているのだろうか。
実際に環境そのものは随分と変わった。だって、共にずっと戦っていこうと約束していた彼女の部下の内二人は、もう戻ってはこないのだから。
だからこそ、安寧を求めて足掻けば足掻くほど、手から滑り落ちていく現実に恐怖する。
「悪い方向にだけ変わったわけじゃねぇだろ」
たったそれだけの言葉。だがそれだけでも、レイラの心を揺さぶるには十分すぎて。
簡潔な言葉の内側に込められた意味に、レイラは目頭が熱くなる思いを感じた。
「…うん。そう…そうなんだよね…」
やがて困ったように笑いながら、涙がこぼれ落ちないように上を向く。
「本当…弱くなっちゃうなぁ…リヴァイの前だと…」
彼が受け止めてくれるのを知っているから、その優しさに縋らずにはいられなくなる。
それでは駄目なのだとわかっていても、体は勝手に想いの吐き出し口を求めてしまう。
「…ありがとう、リヴァイ」
ずくりと、心臓が音を立てて跳ねた。
イヤに彼女の言葉が重みを持って己へとのしかかる。
いつもならここでもう一声かけるか何かするのだが、そんな余裕も今はなくて。
やがて廊下に話し合いを終えたハンジとルイスが通りかかるまで
まるで窓枠という額縁の中に描かれた絵のように
二人は黙って佇んでいたのだった。