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知らない風景の中で知らない女が笑っている。それはもうこの世の幸せ全てを手にしたような顔で。けれど彼女の顔はぼんやりとしていてよくわからない。

泣いているのだろうか、頬に伝う涙。それはきっと優しい涙。“幸福”を具現化したような。

そして彼女は何かを伝えたそうに形のいい唇を動かしている。

だけれどよく聞こえない。聞かなければいけない言葉のはずなのに。


もう一度同じ言葉を紡いでほしい。今度はしっかり聞くから。

あやふやでそれでも綺麗だった風景がぼやける。それと同時に彼女の姿も薄らいでいく。


まだだ。まだ聞けていない。もう少しなんだ。

再び彼女の口が開く。

ぼやけていく世界の中で確かに彼女は

“愛しているわ”


そう呟いて消えていった。

















がしゃんと、殺風景で静かな部屋に盛大に響き渡る音。

その音に反応するように机に突っ伏して眠っていた二人組は大袈裟に体を揺らして起き上がった。

「……んー…?あれ…?うわちゃー…やっちゃったね」

「……何だよ今の音。つかもう朝か…?」

眠たそうに目を擦りながらルイスはだるそうに眼前のロキへと言葉を投げる。

昨日は壁外調査も仕事もなく、暇な日だった。本当はレイラと過ごす気でいたのだが、彼女の方は街へ出なければならなかったので一緒にいることは諦めたのだ。

もちろん自分もその外出についていく気満々だった。しかし、ついていくのはザジだと決まっていたのでそれすら叶わなかったのだ。不満が胸の中を満たしていたがレイラが決めたこと。異論など唱えられるわけがない。

結局レイラのいない本部にいても何の意味もないということでビール瓶片手に、ロキを訪ねて一日中飲んでいたというわけだ。

「あ、おはよ、ルイス。オレも今起きたとこだけど」

起きたばかりで整っていない髪を気にする風でもなく、眼前のロキは床に散らばったガラスの破片を一つ拾い上げる。

「瓶、落っこちて割れちったみたいだよ。中身全部飲んどいてよかった」

広がる破片。差し込む朝日に照らされた破片はひどく美しかった。それはそう、あの不思議な夢の中の風景のような。何がそんなに綺麗なのかわからない、だけれどひどく心惹かれるあの風景に。

あの夢を思いだそうとすると頭が痛む。それは単純に二日酔いのせいなのだろうが。夢とは曖昧なものだ。どれだけ寝る前に必死に努力しようとしても、朝起きてみればそんな努力も泡のように簡単にはじけてなくなってしまう。

「なぁ、ロキ。俺変な夢見たんだけどさ、お前は?」

我ながら変な質問だったと思う。いきなりこんなことを聞いてもロキのことだ、いきなり何を言っているんだと爆笑するに決まっている。

だが、珍しく彼はルイスを笑うでもなく質問を問い返すでもなく、小さく笑ってただ床の破片を集めるだけだった。

「オレも見たよ。すごーく変な夢」

「…そうか」

それだけを短く返し、空のジョッキを手に取る。内容について言及しなかったのは多分何となく気づいていたからなのだろう、彼も自分も同じ夢を見ていたのだと。

片目を閉じながらジョッキの中を見るがそこには当たり前だが何も入っていない。ぽっかりと開いた透明な空洞の中にほんの少しの酒の残り粒が光っているだけ。

天から地へと傾けたその虚無の空洞に伸ばすように舌を出す。そうしてやればかろうじて残っていた粒はまるで吸い寄せられるように妖艶な赤へと滑り落ちていった。

「はは、まだ飲み足りなかった?つかこっちの片付け手伝ってよ」

素手で丁寧に大きな破片を拾い上げていくロキ。

元々眠っていて無意識だったとは言え、倒したのは彼だ。何故自分がその手伝いをしなければならないのか。

ルイスは何も言わず、黄金色の隻眼を細めながら黙って彼を見つめているだけだった。

そうして穏やかな朝の空気にのみこまれそうになった時、
女のように線の細いロキの指から流れる真紅を見てルイスは現実世界へと引き戻されることとなる。

「おい、何やってんだよ。血、出てんぞ」

「え?あ、本当だ!気づかなかった」

あまり言葉の強さほど驚くことはなく、ぼんやりと眺めてから彼はゆっくりとその鮮血に彩られた指を口へと持っていった。

彼がこんなにも注意散漫になるのは珍しい。いつも飄々としているくせに一度たりとも他人に隙を見せたこともないこの男が。その態度は同期のルイスにとっても同じだった。

「…ったく。別にお前の指にガラス入ろうが毒が入ろうがどうでもいいけどよ、珍しいな、お前が注意を怠るなんて」

別に本気で聞いたわけではない。彼がこうなった理由は何となくわかっていた。

ロキの固い殻を一瞬でも緩くした原因、それはあの夢のことなのだろう。このことを話題に出した時だってどことなく反応がおかしかったから。

ルイス自身、彼と同じように夢のことは気になっている。今となってはもうほとんど覚えていないのに、それはひどく己の心を揺さぶるのだ。

「ね、ルイスはさ、本気で誰かに愛されたいとか愛したいとか思ったことはある?」

夢の中で確かに女が呟いた言葉。何も思い出せないのにそれだけは覚えている。優しく、心底幸せそうに紡がれた言葉。

彼女は一体誰だったのだろう。そしてあの言葉は誰に向けたものだったのだろう。どれだけ考えても夢の中の出来事に答えなんか出せやしないけれど。

「愛してる、なんてそんな甘いもんじゃねぇけど…」

夢への考察を中断する代わりに今度はロキの質問について考えてみる。

自分にとってのそんな対象など決まっている。そんなこと考えるまでもなかった。ロキもそれをわかっているのか、真面目な中にほんの少し悪戯な気持ちを塗り込めながらこちらを見ている。

「今も昔もこれからも、俺にとってのそういう存在は分隊長だけだ」

彼女がいるから自分は生きていられる。どれだけの時を重ねようと、その想いが揺らぐことはないと断言できる。

「本当に一途だねぃ、ルイス君は。何をするにもレイラさん一番?あのお方が幸せなら自分も幸せ?」

「当たり前だろ。悪いかよ」

にこにこと読めない笑みを浮かべながら、ロキは静かに首を横に振った。

「うんにゃ、悪かないさ。お前がレイラさん命なのは誰だって知ってるし。でもさ…」

一旦言葉を切って彼は真っ直ぐにルイスを見つめる。顔には他人の心に土足で踏み込んでくるいつもの道化じみた笑み。

「レイラさんがルイスじゃない誰か他の人と恋に落ちた時も、お前はそうやって普通でいられるのかな…?」

思わず眉間に皺が寄る。
何を言っているのだこの男は。普通でいられるのかなどそんなこと聞くまでもない。

レイラの幸せこそが自分の幸せ。彼女が笑っていられるというのなら、それ以上に望むことなどない。そんな彼女の隣に、近くに自分がいようがいまいがそんなことは問題にすらならない。

「俺はレイラ分隊長にとってはただの部下だ。恋愛対象にすらなってねぇんだから、んなことでいちいち頭おかしくなんねぇよ」

心底くだらないという風にそうロキに投げかければ、彼は一層面白そうに口端をつり上げた。

「そう言うと思った。じゃあレイラさんがルイスを求めてきたら、どうする?それにお前は応えるの?」

「…それを本当に分隊長が望んでくれるなら」

周りに隠すつもりなど毛頭ない。自分はレイラが好きだ、一人の女性として。だけれど、決して彼女が自分に振り向いてくれることはない。そんなことはわかっている。

彼女はいつだって仲間として、大切な部下としてしか己を映してくれることはない。だから期待なんかしていないし、むしろそれだけでも心地いい、そのはずだった。

「だろうね。けど無欲な人間なんていないんだよ、ルイス。それはお前だって同じなんだ」

彼の言葉にどくんと小さく心臓が波打った。

長い時を共に過ごし、レイラという人間の幸せだけをただ切に願っていた。そしてその過程で覚えた彼女の隣でないと壁外調査などしたくないという小さな小さな独占欲、敬愛以上の感情。

これがいずれ強い欲望へと変化しない保証がどこにあるというのか。

いつか歪んでしまうかもしれない。そうしてレイラに迷惑をかけてしまうかもしれない。それは恐ろしいことだが、絶対にないと断定はできない。

だけれど、そうなったとしてもきっと、自分が望むことは一つしかなくて。

今度はルイスの方が真っ直ぐにロキを見つめ返す。戸惑いの色など微塵も感じさせない表情で。

「それでも俺は、あの人の幸せだけを願ってたいんだよ」

面食らったような顔をしているロキに少し勝ち誇ったような眼差しを向けて、ルイスはゆっくりと椅子から立ち上がった。

いつまでもここにいてはまた後でリヴァイから小言を言われてしまう。さっさと戻らなければ。そして帰るのだ、あの部屋のレイラとザジの所へと。

そうして彼に背を向けて扉へと手をかける。その時、背後からロキの声。

「やっぱり…羨ましいよ、オレはお前が」

ひどく悲しげな声だった。少なくとも、ルイスの知っているロキのものとは違っていた。
驚いて振り向いても、表情はいつものままで。もしかしたら見逃してしまったのかもしれないが。

にこりと笑ったロキからは、新しい言葉が紡がれていく。

「お仕事熱心で一途なルイス君に最後に一つアドバイスあげるよ」

「……は?くだらねぇのだったらとりあえず殴るぞ」

「一応真面目な話。近い内、きっと何か大きな変化が訪れる。それはこの世界にも、レイラさんと周りの人間関係にも。オレの予想はよく当たるんだ、良いのも悪いのも」

「んなこたぁ知ってるよ。…一応気にかけとく」

何だかんだで信頼しているのか、素直に言葉を受け取って、今度こそルイスは二日酔いで痛む頭を押さえながらロキの部屋を出て行った。

一人残されたロキは、尚も微笑を湛えている。
そして床に未だ散らばっている瓶の破片を一つ摘んだ。


「さぁて、今度は何が起こるのかな…?」


誰にともなくそう呟きながら


彼は暫く光る破片と

乾ききった己の指をじっと眺めていたのだった。


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