最初は憲兵になりたかった。
それは内地で安全に暮らしたいとかそんなんじゃなくて、ただ僕は逃れたかった。あいつらがいない所へ、誰も僕を知らない所へ逃れたかったんだ。
子供の頃からいじめられてばかりで、僕は十数年の少ない少ない人生の中で楽しいとか幸せを感じたということは一度もない。
頭は良くないし力だって強くない。なのに両親は過大な期待ばかり僕に寄せる。「商業で成功して私達を楽にしてくれ」「内地に行って権力を持て」そんな言葉は聞き飽きた。そんなの僕には無理ってことぐらい知っていたはずなのに。
耐えきれなくなって何度も何度も死んでしまおうとした。だけどそんな勇気すら僕にはなくて。
自分で自分がわからなくなって頭がおかしくなりかけた、そんな時だった。
巨人が壁を、ウォール・マリアを破壊したのは。
僕の住んでいたシガンシナ区に奴らは現れた。
逃げ惑う人々、飛び交う悲鳴。奴らが人間を補食する様。恐ろしかった、今まで見てきたどんなことよりも。でもそれは心の奥底で僕が望み続けていた光景だった。僕をいじめていた連中も、重たい枷でしかなかった両親も、みんなみんな食われていったんだから。正直興奮したよ。両親を見捨てて逃げる途中、僕の胸はずっと高鳴っていたんだから。
そして同時に奴らなら簡単に僕を殺してくれるはずだと思った。自分自身ですら幕を下ろせなかったこの惨めな生を終わらせてくれると。
生きていても仕方がないんだ。僕には居場所なんてないんだから。なら、もう終わりにしようじゃないか。
だから僕は
死ぬ為に調査兵団に入ったんだ。
「やぁ、二年ぶりだね。君は僕のことは知らないだろうけど」
目の前にそびえ立つ巨人。いや、そいつは巨人というにはあまりにも人間じみていた。
「まだいたんだ。もしかして巨人にも住処があったりするの?」
食べるでもなく、殺すでもなく、巨人はただ何も言わずにザジを見つめている。
二年前と何も変わらぬその姿。陽光に照らされて光る金髪に大きなくせに開かれることのない口。全てが二年前のままだった。
ルイスの視力を奪い、アイリスとジャックを殺し、そしてレイラをこれでもかというほど苦しめた元凶。
「まさか今日も会えるとは思わなかった」
自分でも声が震えていることがわかる。実際間近で見るこいつは、言い知れない恐怖を彼に与えた。二年前、遠目から見ただけでも足が竦みそうだったのに、目の前に立たれると冷や汗が止まらなくなる。食べるために巨人が人間に襲ってこないというのは想像以上にこちらの気を変にさせられるようだ。
震える体に鞭を打ち、ザジは尚も巨人から目を離さない。もう己の身を守る物はないに等しい。レイラ達が自分の不在に気づいて戻ってくるよりも早く。
「あの時は残念だったね。先輩を殺し損ねちゃって。だけど…」
まっすぐな瞳で巨人を見つめる。その姿は皮肉にもひどく美しく見えた。
「先輩の代わりに僕を殺せばいい」
本当は初の壁外調査だったあの奪還作戦の時にそうしているべきだったのだ。レイラだけ先に無理矢理にでも戻らせて、自分がこいつへと突っ込んでいけばよかった。
けれどできなかった。レイラがあまりにも混乱していて己を制御しきれていなかったから。それでもレイラ諸とも向かっていけばよかったのだろうが、初めて会って、初めて組んだのに、不思議とあの人は死なせてはいけないと、そう思ったのだ。
いや、そんなことはただの言い訳でしかない。本当は心のどこかで死ぬことを恐れていたのだ。その証拠にこうして自分は二年も生き続け「生き残らなければ」なんて戯れ言まで口にしている。“強くなりたい”と、限りなく不可能に近い願いさえ抱いてしまうほど。
それは同時に、まだ自分が生にしがみつこうとしているという事実も暗に示していた。
巨人の手がゆっくりとザジへと伸びる。巨人に掴まれるというのは想像していた倍気分が悪くなる。
答えを返すはずのない巨人に、それでも尚ザジは言葉を紡いでいった。
「分隊長や兵長達はさ…僕が“後方より巨人接近”って言うといつも後ろを確認しないでその場からすぐ移動するんだ」
圧迫感が徐々に増していく。それでも関係ない。話していなければ気が変になりそうだった。
「僕はそれを…皆さんが僕のことを信じて…信頼してくれているからだと思ってた」
実際つい先ほども、誰も後ろを振り返ることなくその場を移動していた。だからこそ離れてもすぐには気づかれなかったし、接近してくる巨人がこいつだとは確認されなかったのだ。
皆が自分の言葉を信じ、行動してくれる。だがそれをされる度に、心は真新しい傷をつけられてしまう。
「でも…結局あの中に僕の居場所なんかなかったんだ」
いつも壁外調査で任されるのは後方支援かルイスの半分の視界のサポート。巨人に遭遇すれば、周囲に気を配って極力待機。
いてもいなくても変わりはしないあまりにもうやむやな存在でしかなくて。
悲しくはない。ただ悔しかった。
「こうなるぐらいなら…出会わなければよかったんだっ…」
ザジの唯一の誤算はレイラ達仲間の存在だった。出会ってしまわなければ、こんなに追いつめられながら死ぬことはなかったのに。
皆いい人だった。初めて自分はここにいていいんだと、そう思うことができた。レイラやルイスと過ごす時はひどく心地よくて。それはこの人達と戦っていけるのならば、まだ生きていてもいいと思わせるほど、強くなって隣に立ちたいと思わせるほど。
けれど、あの二人は完璧なまでの強さを誇って、入り込ませてくれる隙など与えてくれやしない。先ほどの戦闘が強くそれを物語っていた。
そしてそんな中途半端な信頼が自分にもたらしたものは孤独感と絶望感。
だけれど、それでも自分はレイラ達のことが好きで、存在価値がなくてもいいから、彼女らの優しさに縋っていたいという感情がない交ぜになってそれが余計に自分を苦しめる。
こみ上げてくる嘔吐感。やがて口からは血がこぼれた。骨の折れる嫌な音も響く。不思議と目からは涙があふれてくる。
あれだけ願っていた無慈悲なまでの一方的な死。自分の意志などまるで関係なく殺してもらえるということに焦がれていた。そのはずなのに。
「……死にたく…ないなぁ…」
空に舞う二羽の鳥が目に映り込む。羨ましい。あんなに楽しそうに、自由に飛ぶことができるなんて。
ザジはゆっくりと目を閉じる。口元には緩やかな弧が描かれていた。
きっともうすぐルイス達が来る。そうすれば自分の存在に夢中になっているこの巨人の後ろを取って、二年前の借りを返すことができるだろう。
己の命を犠牲にして、なんて綺麗なことを言うつもりはない。ただ、最後くらい直接的に彼らの役に立ちたくて。
めきりと、また骨の軋む音が耳に入り込んでくる。本当に変な巨人だ。こんなにじわじわ殺すなんて。
そうして頭の中でレイラ達に別れを告げようとした瞬間、体は圧迫感から解放されて、代わりに今度は浮遊感が全身を包んだ。
「よぉ、二年前ぶりだな」
聞き慣れた声と共に地面へと転がるザジの体。そしてそんな彼に駆け寄るレイラ。目の前に立ち、武器を構えるルイスとリヴァイ。
巨人は二年前同様、手首から先を切り取られて、断面図を凝視している。
そうして頭が混乱していてわけがわからなくなっているザジの体を掴んでリヴァイは巨人から遠ざかっていく。
遠くからは微かに撤退の鐘の音。今のザジにはあぁ壁外調査が終わったんだということくらいしか理解できなかった。
「ルイス!」
「でも分隊長!こいつはっ…!」
何もかもがイレギュラーなのだ。普通に戦ったとて勝てる見込みは少ない。それに撤退の鐘も鳴っている。
ルイスは舌打ちをして巨人に背を向けた。
二年前のように、奴はそんな四人の背中を見つめていることしかしなかった。
ぼんやりとしたまま、どれだけの時間が経っただろう。結局あの後、壁の内側に入って、荷台に乗せられて街の中を移動して。
そうして気づけば本部の前。皆馬小屋に行ったり部屋に戻ったり。ザジはそんな皆の姿を眺めながら体を起こす。
「いっ…!!」
だが痛みでまた体は沈んでいく。そんな彼に気づいて、荷台の後ろを歩いていたレイラが慌てて駆け寄ってきた。
「骨、何本かやっちゃってるから動いちゃダメだよ」
優しく微笑まれて何も言えなくなる。彼女は何も問わないし、自分を責めたりもしない。勝手なことした挙げ句、怪我までして生きているというのに。
リヴァイやルイスですら、何も言わずに呆れたようにこちらを見ているだけだった。
そんな彼らに、何故か腹が立った。そうしていい身分ではないのはわかってはいたけれど。
「…んで」
声はひどく掠れている。涙もまたあふれてきた。何て情けない。けれど今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
「何であの巨人を殺さなかったんですか!!僕のことなんて放っておけばできたはずでしょう!!何で…!!」
瞬間、体中に走る衝撃。それは右頬から伝わりやがて全身へと伝染していく。次にはぐいと胸ぐらを捕まれて上半身は宙へと浮いた。
「てめぇ…次そんなくだらねぇこと言ったら本当に殺すぞ」
「先…輩」
目の前のルイスの顔は今までに見たこともないくらいに歪んでいた。
それは怒りとか憎しみとかいった感情ではなく、悲しみを湛えたような、泣きそうな顔。
「ルイス!怪我人に何してるの!」
「……くそっ」
「あ、こら待ちなさい!!ごめんリヴァイ!ザジのことよろしく!」
本部に戻っていくルイスを追いかけるレイラ。
もうわけがわからなかった。ルイスが何故あんなに悲しそうだったのかも、何もかもわからない。
するとリヴァイはゆっくりと自分の横に立ち、口を開く。
「死のうとしたのか」
短く頷く。もう隠すようなことでもなくなったから。そうして黙り込む彼に、ザジはとつとつと話し出す。死にたかったこと、自分の居場所がなくなっていたことを。
「くだらねぇな。ルイスの野郎もキレて当然だ」
何故と、言いかけて止めた。きっと聞いても答えてはくれないだろうから。
そうしてザジは到着した救護班に担がれていく。その姿を見つめながら、リヴァイは最後に言葉を紡ぐ。
「ルイスは…自分の本当に信頼する相手にしか後ろを、弱点のカバーを頼んだりはしねぇ」
どくんと心臓が跳ねた。言葉の真意を理解したいのにしたくない。けれど、リヴァイの言葉は確かに己の心に溶け込んでいく。
「…僕は…僕はっ…!!」
自分でも何が言いたいのかわからなかった。だが涙はそんな感情などお構いなしに流れてくる。
やがて腕で泣き顔を隠すように顔を覆えば、隙間から小さく青い空が見えて
その中で
鳥はやっぱり楽しそうに宙を舞っていた。