レイラが兵士の救済に奔走しているのと時を同じくして響く絶叫と金属音の中で三人の兵士達はお互いがお互いの背を預けて迫り来る巨人を退けていた。
「うわわッ!!ルイスー!!ジャックー!!どっちでもいいからヘルプー!!!」
「なッ…!!何やってんだお前は!この馬鹿ッ!」
アイリスの叫び声が聞こえた直後にざくりとあまり気持ちのいい音ではない音が響いて巨人は霧へと化していく。
その手の中に収まっていたアイリスは体の圧迫感から解放されてごろりと屋根に転がった。衝撃に顔をしかめる彼女に追い討ちをかけるようにルイスが腹に蹴りを一発。
「おいこら馬鹿女。遂に頭だけじゃなくて腕も使いもんにならなくなったか?」
「うぅ…面目ない…サンキュ。あとせめて馬鹿“力”にして…馬鹿だけはさすがにヘコむ…」
起き上がってしょんぼりとアイリスに尚もルイスはげしげしと蹴りをくらわせていた。ジャックはため息をつきながらそんな二人を仲裁をする。
「遊びじゃないんだぞお前ら…気抜くな」
二人はわかっているとでも言いたげな表情を浮かべて刃を握り直した。そしてウォール・ローゼ方面へと視線を滑らせてルイスは未だ上がらない撤退の信煙弾に苛立たしげに舌打ちする。
一体エルヴィン達は何をしているという。もう口減らしには充分な損害は出たはずだ。レイラと自分らの一般兵救済により多少予定より多く生き残ってはいるだろうがそれでもいつまでこんな茶番を続けるつもりなのだ。
「これじゃ分隊長の負担が増えるばっかりじゃねぇか…」
刃に付着した血を軽く振り払いながらルイスは傍にいる班員達に視線を寄越す。
「いくらなんでももうすぐ撤退指示が出るはずだ。お前らは先戻ってろ」
「え…でも…あの…」
「はっきり言って荷物抱えながら戦ってらんねぇんだわ。お前ら邪魔。巨人のことで心配してんのか?平気だよ。この先たしか兵長の持ち場だから」
気弱そうな少年は一瞬目に光を宿したが次には不安そうに俯いた。恐らく戻る道中に巨人に襲われたらと考えているのだろう。
確かにそれで襲撃されたらこんなまだまだ経験の浅い新人に一般人の兵士は守れないだろう。だが、このまま直進すればリヴァイの持ち場にぶつかるはずだ。きって彼なら粗方巨人は片づけているはずだし、何かあれば駆けつけてもくれるはず。運が良ければリヴァイに鉢合わせ所で撤退指示が出て、彼と共に帰還も可能だ。彼ならこの上ない護衛になる。
その事を簡潔に少年兵に説明すると彼はまだ怯えに体を震わせていたがコクリと頷いて一般兵達を誘導していった。
「…ったく、やっと行ったか。これで気にせず戦闘に集中できる」
「お前なぁ…あんな風に言わなくたっていいだろ。邪魔とか言うなよな」
呆れ顔のジャックにこれといって反省する素振りも見せずにルイスは視線を前へと戻す。
「邪魔は邪魔。あいつらみたいな足枷があるからレイラ分隊長が傷つく、あの人が悩まされる」
ルイスにとって民兵などどうでもよかった。勝手に死ねばいいし、口減らしもしたいならすればいい。ただレイラさえ安全でいられるならそれでいい。本当は今だってこんなことをしていないでレイラの所へ行きたい。自称だけれど自分は彼女の右腕なのだから。
「……喰われてんなぁ、みんな。お、ありゃあハンジ分隊長か。生きてたんだな」
少し遠目に確認するハンジの姿。楽しそうに巨人の頭をまるでボールのように蹴っ飛ばしている。
苦笑しながらそれを見ているといきなりアイリスが大声を張り上げた。
「ルイス!ジャック!あそこ!!民兵が取り残されてる!!」
彼女が指差した先を見ると、確かに三人ばかりの男性達が煙突の後ろ側に隠れて恐怖から身動きが取れないのか、ガタガタと震えてその場に座り込んでいた。
「マズい…!あれじゃみんな巨人の餌になる!!二人とも、行くぞ!」
ジャックの掛け声に合わせて全員一斉に地を蹴る。ガスを無駄にはできない為、細心の注意を払いながら。
その時、ルイスは視界の端に巨人の姿を確認した。通常種か奇行種かはわからないが奴は一直線に自分達の方へと向かってくる。ただ、何か違和感があった。距離が離れていて何とも言えないが何か嫌な予感がする。そう、それは一年前のあの60m級の巨人を見た時と同じような嫌な予感。
「何だあいつ…異常に早い……奇行種…なのか…?」
その巨人はものすごいスピードで自分達の方へと向かってきている。それを奇行種というカテゴリーで振り分けて本当によいのだろうか。体に走る悪寒。脳が警鐘を鳴らした。マズい。何かがマズい。急げ。奴がこちらに追いつく前に民兵を連れて逃げろ、と。
そう思った時にはルイスは珍しく焦りの表情を顔に浮かべながら叫んでいた。
「ジャック!!アイリス!!急げッ…!!最大スピードだ!!早くッ!!!!!」
「なッ…!?ルイス!?」
「何だってーのさ!?」
彼の言葉に疑問を持ちつつも二人も最大限にガスを蒸かして前進する。
あともう少し。もう少しで間に合う。急げ。本当はあんな民兵助ける義理はないがレイラが助けるのだ。自分らも同じことをするだけ。それだけの理由で彼らは走りつづける。前を向いて。助けなければ、必ず。間に合え。
民兵達もルイス達の存在に気づいて瞳に輝きを取り戻している。
ようやくルイス達が彼らの前に降り立った時、間に合ったかと横を向いたその瞬間、皆の視界は一面が巨人の顔で埋め尽くされる。そして巨人が腕を振りかぶるのと同時に
そこで彼らの意識は途切れた。
リヴァイは空を見上げる。信煙弾はまだ上がらない。エルヴィンの判断だ。文句はないが心からの納得はできなかった。恐らくまだレイラは皆を助けるために奔走しているはずだ。無事でいればいいのだが。
そこではたと彼は気づく。何故今この状況でレイラのことが頭に浮かんだのか。ましてや彼女の心配など。確かにここ最近の彼女の精神状態は不安定だった。だが、持ち前の強さでうまく乗り切っていたのでさほど気にはしていなかったはずなのに。自分の中でやはりまだ気にかかっていたのだろうか。
それにしてもこんな状況下で真っ先にレイラが頭に浮かぶとは。
考えていても仕方がないとリヴァイは周囲に視線を巡らせた。死体、死体とそればかり。元々こうなることが予定だったのである意味作戦成功だが気持ちのいいものではない。
そんな中で彼は動く人を遠くに発見する。見覚えのある金髪寝癖頭。その横にいつもいる背の高い男と小柄な女。
「ルイスの野郎か…」
彼らは何やら急いで移動している。その先には数はよくわからないが座り込んでいる民兵。そしてそんな彼らの真横からはものすごいスピードで走ってくる巨人。奇行種なのだろうか。
いつも会うと悪口ばかり言ってくるルイスでも、その腕は認めている。大したものだ。他の二人だって同様。ほっといても巨人一体ぐらい軽く倒すことができるのは重々承知している。
だが何故か。あの巨人を見た時、リヴァイは本能で彼らを援護しにいこうと思った。何か悪い予感がすると。そうして彼がルイス達の所へ急ごうとした瞬間、彼の前に立ちふさがる巨人。
「…ちっ。お前にかまってる暇はねぇんだよ」
リヴァイは刃を抜いて苛立たしげに目の前の障害物へと斬りかかっていった。
「……う」
頭の鈍痛に目を覚ます。一体何がどうなった。民兵に追いついた途端にこっちも巨人に追いつかれて、それで。あぁ、ルイスが奴に攻撃されたんだったと思い出すまでにはさほど時間はかからなかった。
上手く回らない頭で現状を把握しようとした時、右手にぬるりとした感触が広がる。何だ、と横を向いた刹那、彼は簡単に現実へと引き戻された。
三人の民兵に折り重なるようにして倒れているアイリス。手に付着したものは彼女の体から流れている血だったのだ。
驚いて彼女の体をとっさに揺さぶるもアイリスはくたりとしたまま動かない。その腹はべこりとへこんでいた。目は最後に見た時のままで大きく見開かれている。
誰が見てもわかる。
彼女は死んでいた。
「なッ…!?何だよ…これ…」
覚めた頭でバッと横を向くと奴がいた。
じぃっとこちらをただ見つめている。
「おい…何なんだよお前…本当に巨人…か…?何で食べない…何で見てるだけ…なんだよ…」
尚も巨人はルイスを見つめている。
ルイスはその間中ずっと冷や汗を流しながらも警戒し続けた。
ヘタに動くことはできない。多分殺されるから。アイリスを殺されて腑が煮えくり返る思いだったし今すぐにでも殺してやりたかったがそれを無理やり抑え込んだ。
その時、うめき声と共にルイスの隣にいた男が頭を押さえて起き上がった。
「……ルイス…?俺達…今…」
「ジャック…どうやら俺らは今、絶体絶命って状況下に置かれてるみてぇだぜ」
ジャックは言葉の意味がわからず俯いたまま辺りを見回す。そして、彼は見てしまった。アイリスの無残な亡骸を。
その瞬間、ジャックは時が止まったように動かなくなり、顔を上げて首だけを目の前の巨人に向ける。アイリスを殺した巨人に。
ぐるぐると回る思考。追いつかない。気がついた時にはジャックは一筋の涙を流し、刃を手に取って力の限り叫んだ。
「お前が……お前がアイリスをッ…!!!!!!」
無我夢中で飛び出していくジャック。最早冷静な判断などできていなかった。
「よせッ!!ジャック、行くな!!戻れッ!!」
ルイスの制止などまったく聞く耳を持たずに彼は巨人へと向かっていく。殺されたレイラの大事にしていた民の為に。密かに愛していたアイリスの為に。
巨人の目めがけて思い切り刃を振り下ろす。だが、それは相手の目玉を貫くことはなく、手の甲へと突き刺さった。
「ジャック!!逃げろッ!!」
奴のもう片方の手でジャックの体はいとも簡単に掴まれる。慌てて彼が抜け出そうと足掻く隙も与えず巨人は虫でも潰すかのようにぐしゃりと、ジャックの体を握り潰した。
一瞬の出来事だった。バキバキと骨の折れる嫌な音が響いて開いた手から滑り落ちるジャックはまるで壊れたマリオネットのように四肢を曲げられて屋根の上を転がった。
巨人の目は今度は唯一動いているルイスに向けられる。
「ジャック…くそっ…!!」
ルイスは急いで刃に手を伸ばした。しかし、手に走る激痛。今まで衝撃的な事ばかりで気づかなかったが、右腕が動かない。完全に折れていた。
「………万事休すってか」
そう言った瞬間に巨人が振りかぶる。力の限り突き出されたその拳をルイスはとっさに避けた。拳は彼に命中することなく煙突に衝突する。風圧だけでも相当なものでルイスの体は軽々と隣の家の煙突まで吹っ飛ばされて強く背中を打った。そしてその時に一瞬に飛んできた瓦礫の一部が彼の左目に傷を穿った。
「…いってぇ…はは…こりゃさすがにもうダメっぽいな…」
思わず苦笑が漏れる。左目を動く左腕で押さえて、半分になった視界で彼はこちらに向かってくる巨人を見つめた。
レイラとの約束は守れそうにない。自分だけ生きて帰ったとしてもアイリスとジャックは死んだ。どうやってももう約束を果たすことはできない。
悔いはない。あの人の為に生きて、あの人の為に死ぬ。本望だ。自分にこんなにも嬉しい死に方は他にないだろう。ただ、レイラを残して先に逝くことが、悔いといったらそうかもしれない。昨日リヴァイにレイラのことを頼んで本当に良かったと思った。
最後の最後まで結局レイラのことしか考えられないのかとまた苦笑が漏れる。
「すいません……レイラ分隊長」
伸びてくる巨人の指の隙間から仰いだ空はどこまでも青い。
ルイスはその青の中に無慈悲な撤退の信煙弾が上がるのを見て
遠くから己の最も敬愛する女の
絶叫を聞いた。