薄桜鬼-江戸- | ナノ
 





Untitled -21-





店の少し奥、あまり光の入らないそこで雪菜は溜め息をついて筆を置いた。
林に引き取られてから早一週間が経とうとする中、雪菜に任された仕事は家事炊事、それから八百屋の仕事。
そして今手元にあるのは、林に渡された使い古した算盤。

「でき、た。」

指でそれを弾いてみても、それから数字を読み取る事等できるわけもない。
算盤が出来ないと林に申し出てみれば、だいたいでいい、と雪菜を見もしないで筆と硯を渡されてしまい。
そもそも、字は書けるとはいえども、筆や硯、そして元居た世界とは違う質感の紙に文字を書く等不慣れにも程がある。
何度か、売ったものや仕入れたものの管理をそれなりにまとめて林に手渡したが、毎回目を通す事もなくそれは店の端に積まれたまま。
一向に見る様子がない林に、雪菜は半ばやけになりながら今しがた完成した昨日の売り上げ表を見下ろし、思わず溜め息まじりの苦笑を漏らした。
はっきりいって、目も当てられないと自分でも理解はしているが、計算だけは間違っていない事を確認してから雪菜は作業を切り上げた。

「おい、」
「あ、はい。」
「今日は夜はいらねぇから。」

不意にかけられた声にびくりと体を強ばらせると、大きな欠伸をしながら林が姿を現した。
ぼさぼさの頭にいつもの少しくたびれた着物を身に着けた林は、二階から気怠そうに降りてきたかと思えば、振り向いた雪菜をちらりと視界に入れ。

「ちょっくら出て来るから、後はまかした。」
「、わかりました。」

ぼりぼりと腹を掻きながら、林はそのまま足を止める事なく林はさっさと引き出しに入れておいた今日の売り上げを片手で取り出して、それを懐にしまった。
ここにきて、林という男について雪菜が知った事といえば、金遣いが荒いという事ぐらいだろうか。
少なくとも、自分が引き取られてから林がまともに店先に立った所は一度たりとも見てはいない上に、丁度今頃、夕方前に家を出て真夜中から早朝にかけて酔っぱらって帰ってくる事が日常であった。
そういえば、新選組に居たときもいつもその時間までに買いにきていたな、なんてぼんやりと思いながら今日もどこかで飲み歩いて来るのであろう林を入り口まで見送れば。
振り返りもせずに、林はのろりくらりと体を引きずる様に通りへと出て行った。

「いって、らっしゃい。」

ぽつりと小さく呟いた声等、届く訳も無いだろうに。
恐らくこれが原田ならきっと振り返って頭を撫でてくれたのではないか、あの琥珀色の瞳を細めて笑いながら。

「原田さん……元気かな。」

未だ新選組の屯所を離れて一週間しか経っていない。
一応、目安だといって渡された野菜の大まかな値段表を頭に叩き込んで、数人の常連とのやり取りなら出来る様になった。
通貨の勘定においては未だに苦労する事が多いが、慣れている様子の常連が当たり前の様に差し出すそれを受け取っていれば何となく勝手は分かる様になって来る。
店先に立つ自分は相当珍しいのだろうか、まじまじと視線が注がれるが、誰も何も問いかけてくる事はない。
必要最低限の会話しか続かないやりとりを機械的にこなして、雪菜は最初に教えられた場所へと売り上げを仕舞い込む。
そして、夕方にはそれを持って林が飲みに行く、という繰り返しがずっと続いていた。
きっとこれが、これからの”日常”なのだ、と思えば屯所での生活が夢の様にさえ思えて来る。
最後に笑ったのはいつだっただろう、とぼんやりと空を見上げてから、雪菜は扉を閉めて店の奥にと戻って行った。
相変わらず開いたままの、金の入っていた引き出しの中をちらりと見て、それを締める。
客が頻繁に来る訳でもないが、だからといって林がいない今は店を開ける事などできる訳もない。
昼食の残りはまだあるから、それで晩ご飯を済ませようと考えながら雪菜は二階へと上がっていった。

「これから……、どうなるんだろう。」

自分に割り振られたのは二階の小さな一室に足を踏み入れて雪菜は誰もいない部屋へと呟いてみる。
二階にあるのは自分のその小さな部屋と、男の部屋だけ。
正直に言えば住むには少し抵抗がある程汚かったその部屋は、一週間でだいぶ綺麗にはなったとはいえ、未だに鼻につくのはかび臭い香り。
日中はできるだけ雨戸を開けて空気を入れて入るが、どことなく薄汚いその部屋の端に雪菜はとすんと腰を下ろした。

「帰り、たい。」

ほんの一週間前だったら、お昼過ぎには土方にお茶を煎れたり、買ってきたという団子を囲んで隊士達と団欒をしていたのに。
どうにかなると思っていたここでの生活が思っていた以上に寂しい事に、雪菜は膝を抱え込んでそこに頭を埋めた。
耳には聞き慣れた廊下を走る音や、笑い合う声等届く事も無い。
ただただ、シン、と静かなその小部屋に、雪菜は泣きそうになるのをぐっと唇とともにかみ殺した。

「迷惑、かけちゃいけない。」

自分を説得する様に、何度も何度も言い聞かせた言葉。
何かあったら連絡するように、と近藤からも、原田からも重々に言われていたが、その結果、彼等も、そして贔屓にしているという林にも迷惑をかけてしまう事を思えば、そんな事できる筈もない。
第一、只でさえも家のない自分はそこまで求めて良い訳がない、と雪菜は背中を更に小さく丸め込んだ。

「はらだ、さん。」

会いたい、と思う。
あれから、まだ一度も八百屋には新選組は来ていない。
自分が出る前に大量に買い付けておいたせいもあるだろうが、それが雪菜にとっては辛くもあった。
買い付ける必要がないから来ないだけだ、と頭では理解しているのだが。

もしかしたら、自分なんてやはり迷惑な存在でしかなかったから来ないのかもしれない。
もしかしたら、居なくなってせいせいとしているのかもしれない。

彼等と過ごした時間から考えれば、そんな風に思われている筈なんてある筈無いと思えるのに、こうして一人で居る時間、考える時間が増えてしまうとどうも悪い方向に思考がいってしまう。
そんな事を考えていれば、いつの間にか我慢していた涙は頬をつたって着物の袖を濡らしはじめ、雪菜は自分のすぐ隣にあった鞄を引き寄せた。
確かハンカチを持ってきた筈だ、と鞄の中をごそごそと手探りで掻き回しながらそれを覗き込み。

「あ、れ。」

指先に触れたハンカチを取り出そうとして、更にその下に入っていた白い布に気付いて雪菜は首を傾げた。
もともと持ち物は少ないが故、すぐに自分の持ち物ではない事の見当はつく。
もしかして新選組の誰かの何かを誤って持ってきてしまったのでは、とひやりとしながらそれを手に取ってみれば。

「え?」

布だと思っていたそれは、何かを包んでいる。
そろそろとその布を開けてみれば、目の前に出てくるのは一本のーーー簪。
見慣れないそれに、更に首を傾げて手に取ってみれば、瞬間にふわりと雪菜の鼻に嗅ぎ慣れた香りが届いた。

「もしかして……。」

手紙も何もない、ただ布に包まれたその簪。
それでも、忘れる訳もない、間違う訳もない、確かに届いた原田の香りに、久し振りに胸が高鳴った。
一体いつ入れたのだろう、これは自分に贈ってくれた物なのだろうか。
どきどきと高鳴る鼓動にすっかりと涙の後は消えてしまい、一週間ぶりだろうか、自然と漏れていたその笑みを感じながら。
雪菜は綺麗な漆の一本の簪を、持ち上げて薄暗い部屋の光に翳してその色を何度も楽しんだ。




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ちょ、前回までの明るさはどこへってなぐらい、暗い。そして短い。
八百屋編しょっぱなからこんなんでごめんなさ…!

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