Nobody but u. 「お疲れさまでーす」 ぱたぱたとオフィスを出て行くアシスタントの言葉に頷きながら、雪菜は溜息を漏らした。 時計の針は6時を少し回ったところだが、目の前に溜まっている書類から推測するに……今日の退社は10時を超えてしまうだろう。 「七津角、この前の企画書の件だけど。クライアントが興味持ってくれたぞ」 「あー……どの件ですっけ」 「お前なぁ、自分の出した書類ぐらい覚えておけよな」 ふと声をかけてきた部長は雪菜の机の上をチラと見下ろすと、苦笑を一つ。 万年人材不足だからな、と何とも救いにもならない言葉を漏らしたかと思えば、雪菜のノートパソコンの上に書類が数枚差し出された。 「これ、打ち合わせは俺はパスだから。お前一人で頼む」 「え、そんな……部長も出て下さいよ、私一人なんて、」 「だってこれはお前が出した企画書だろう?」 「……そう、ですけど……」 はぁ、と露骨に溜め息をついて部長を恨みがましく見上げてみても効果は無し。 ニヤリと含み笑いを浮かべてさっさと机に戻ってしまった部長を視線で追いかけるのは諦めて、雪菜は目の前に投げられた書類に手を伸ばした。 「あぁ、これ……」 ぼそりと呟いて、確かに自身で書き上げた書類に目を通す。 "出来るだけ適当に"出した企画書だったのに、と"食いついてきた"という先方に内心で悪態づいてみても結果は変わらない。 気怠げに企画書につけられていたポストイットを指で剥がしてから、雪菜は椅子に身体を預けた。 「打ち合わせは……来週かぁ」 「どこのクライアントだ?」 「イギリスです」 「いいじゃねぇか、お前の母国だ」 ふと事の終始を聞いていたのだろう、雪菜のちょうど真向かいに座ってタイピングをしていた先輩が声をかけてきた。 カタカタと忙しなく聞こえてくるタイピングは、もちろん指によって打ち込まれている――魔法を使えば労力を削減できるのに、なんて言葉は胸の奥底へと押し込んで。 「母国じゃないですよ……学校があっちだっただけです」 ホグワーツを卒業して早13年。 当初は魔法界での就職を希望していた自分が、まさか母国日本で普通にマグルの仕事についているなんて。 ヘー、なんて感情の籠っていない先輩からの相槌を受け流して、雪菜は大きく伸びをしながらようやく目の前へと視線を向けた。 「この打ち合わせ、先輩が出て下さいよ」 「悪いな、俺明日から中国出張なんだわ」 片手を一瞬だけ上げた先輩から少しの謝罪を受け取ると、そのまま雪菜は企画書を机の上に投げおいた。 「……近づくなって言われてるのに」 「ん?何か言ったか?」 ふと無意識にも近いぐらいに口から溢れた不満に、ぴたりと耳に届いていたタイピング音が止まる。 それに慌てて視線の焦点を戻してから、雪菜は苦笑を浮かべながら首を横に振ってみせた。 「―――いーえ、何でもないです」 出来るなら、イギリスに戻りたい。 出来るなら、魔法界に戻りたい。 けれど――あの時の約束があるから、戻れない。 「そういや、お前イギリスのどこに居たんだっけ?」 「ドが突く程の田舎ですよ、ググっても出てこないぐらいに」 「ふぅん、珍しいとこに行ったんだなぁ」 先輩からの言葉に、雪菜は体を起こしながら再びパソコンの画面へと視線を戻した。 別に今の時代、帰国子女なんて珍しいものでもなんでもない。 ただ、学んでいた内容が普通の人とは少し違うだけだ、と雪菜は小さな秘密に口元を緩めながら、企画書を脇へと追いやった。 **** 突発でたまには。 SSSばかりでサクサク進めます。 >>back |