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My perfume -3-





いつから、そうだったのだろう。
一度そう考え出してしまえば最後、雪菜の頭の中にドロドロとした形容のし難い何かが流れ込んできて頭の中をいっぱいに埋め尽くしていくだけ。
そんな悪循環に陥って、気付けばあの日から早一週間が経とうとしていた。

「……はぁ」

もう何度目か分からない、溜息。
そして、キリと痛む胸。
気晴しに、と全く頭に入らない研究に溜め息をついてレノックスへと提出する書類を持って出てきたのは良いけれど。
コツコツと廊下を無言で歩けば歩く程、かえってあの時の事が雪菜にフラッシュバックするかのように襲いかかってきた。

「……」

結局あの時、香水屋の窓から見えた二人を追いかける事は出来なかった。
ディーノが何とか慰めようと、彼にしては珍しくしどろもどろになっていたのは覚えている、が。
見間違いに違いない、まさかそんな事ある筈がない、だけど――……、と、雪菜の頭をぐるぐると埋め尽くしていった考えに集中しすぎて、ふと気がついた時は自室に戻っていたなんて。

「……痛い」

ジャズの隣を歩いていた女性は、一体誰だったのだろう。
綺麗な毛先がくるんと背中で跳ねて、そして優しそうな表情で嬉しそうに微笑んでいた……ジャズを見上げて。
何度も頭の中に過るのは、ジャズと彼女が楽しそうに笑い合っていた光景。
思い出せば傷つくと分かっていながらも、何度考えても行き着いてしまう”浮気”という自分の思考回路にもホトホト嫌気すらさしてきた。

「……、……」

一言、ジャズにあの日の出来事を聞くだけで良かったのに。
一言、隣に居たのは誰だったの、といつもの様に彼に問えば良かったのに。
それが出来なかったのは……次の日の朝、いつもの様に迎えにきた彼の車中に……ブロンドの髪の毛を見つけてしまったせい。

もしかしたら、あの人のじゃないかもしれない。
もしかしたら、基地の誰かのものかもしれない。
なのに、それなのに。
五月蝿いぐらいに震えてしまった心臓に、ついに雪菜は寝不足を言い訳にぐっと唇を噛んで瞳を閉じるしか出来なかった。

「雪菜?」

そんな事を考えていれば、不意に名前を呼ばれた。
途端に、ぎくりと身体を強ばらせたものの、雪菜が足を止めると同時に肩に重みがかかる。
と、同時に鼻をしつこくくすぐる”あの”香りに、雪菜の心が苦痛の悲鳴を上げた。

「……ジャ、」
「どうした?暗い顔して」

こちらを心配そうに見下ろして首を傾げたのは、勿論ここ最近ずっと雪菜の頭の中を締めているジャズの姿。
あれ、もう任務が終わる時間になっていたのか、と雪菜は気まずさを隠す様に手にしていたファイルを胸に抱き寄せた。

「……?どうした?」
「あ、ううん。何でもない」
「まーた仕事のしすぎで頭ぼーっとしてるのか?」

くす、と呆れた様に笑ったジャズが、くしゃりと雪菜の髪を撫で付ける。
もしかして、笑う時の首の角度や、声の音量はスパークが司る感情ではなく、ブレインサーキット内でシステム計算されているのだろうか。
どんな時でも、何を隠していても相手に伝わらない様に……、なんて感じてしまう程にいつも通りのジャズの仕草や様子に、雪菜は視線を落とした。

「雪菜?」
「あ、うん?」
「お前、最近様子がおかしいぞ?何かあったのか?」
「そう、かな?何もないよ。ただ、ほら……仕事がね、ちょっといっぱいあって」

こういう嘘をつくには本当に自分は向いていない気がする、と雪菜はワザとらしく咳払いを漏らした。
勿論、"貴方の浮気を疑っていました"だなんて口が避けてもこの場で言える訳もない。
あぁ、今自分はジャズの目の前で何事も無い風にちゃんと笑えているのだろうか。
頬がひくつくのを自覚しながらも、雪菜は逸らしていた視線をジャズの顔へとそっと持ち上げた。

「へぇ、俺に言えないコトなんだ?」
「だからそんな事ないってば」
「ま、どうせ今夜たーっぷり聞き出してやるからイイけど」
「え?」

突然のジャズの言葉に、雪菜の瞳が思わず見開かれる。
ここ数日は研究が、と何とか理由をこじつけてジャズとの距離を取っていたのだけれども。
既に約束済みともとれるジャズの発言に、雪菜は上手く回らない頭をフル回転しながら、ここ数日のジャズとのやり取りを思い出そうと息を軽く止めた。

「もしかして忘れてる?」
「っえ、と……」
「ったく、だーかーら、仕事も程々にしろっていつも言ってるだろ?今日はクリスマスだ、クリスマス」

コツンと額に軽いデコピンを落としたジャズに、そういえば、と雪菜がジャズとの約束を思い出した様に彼を見返せば、まるでそれが分かったかのように、目の前のジャズが嬉しそうに笑みを漏らす。
加えて、しょうがないヤツ、だなんて笑いながら軽口を叩いた彼に、雪菜は喉にまでさしかかった言葉をぐっと飲み込んだ。

(……あの人の前でも、そうやって顔を近づけて笑っていたの?)


「あら、ジャズじゃない!」

雪菜の耳にその声が届いたのと、心臓が敏感に察知して大きな音をたてたのとではどちらが早かっただろう。
雪菜の前方、ジャズの背後から聞こえたのは自分の知らない声。
けれども一方的には見覚えのありすぎるそのブロンドの髪と、あの時ジャズを見上げていた優しそうな表情の女性が雪菜の瞳に写し込まれると、まるで緊急事態だと言わんばかりの警報が雪菜の脳内に響き渡った。

「よ、よぉ。ここに来るなんて珍しいのな」
「えぇ、ちょっと用事があったから……って、」

コツコツ、と高すぎないヒールを鳴らしてこちらに歩み寄ってきた彼女に、ジャズが少しだけ何か言い足そうに口を開いたのを、雪菜は見逃さなかった。
(どうして、そんなに気まずそうな顔をするの?)
何とも形容し難い痛みと悲鳴がいよいよ雪菜の心を襲い、若干の吐き気さえ感じてくる。
今すぐにでもこの場を逃げ去りたいと雪菜が棒の様に固まった足に力を入れていると、やがて雪菜の前で足を止めた彼女がジャズをチラリと見てから、雪菜に向かって綺麗に口角をあげてみせた。

「あら、もしかして……貴方が彼の、」

そう言いながら、まるで品定めをするようにまじまじとこちらを見つめた彼女に、雪菜はジリ、とつま先に力を込める。
自分が考えすぎたせいで、ついに幻想が見え始めた訳ではないだろう。
現に、彼女の後ろでジャズが狼狽えるように口を開こうとしているその姿が、悲しくも雪菜の瞳に飛び込んできているのだから。
”バラさないでくれ”とでも思っているのだろうか、と雪菜は酷くなっていく邪推に二人から顔を逸らした。

「あ、え、えっと……私、そうだ、行かなきゃいけなくて、あの、その」
「おい、雪菜?」
「あ、あと、ジャズ!その、夜は忙しいから……だから、とにかく、ごめんなさいっ!」

決定的だ、と心にギロチンが突き刺さったかのような感覚。
普段の痴話喧嘩なら、ジャズが後ろから追いかけてきて簡単に腕の中に納め込んでくる筈なのに。
一向に後ろに引かれる事のない身体に、雪菜は思いっきり地面を蹴りながらとにかく人の居ない方向へと走り続けた。

逃げ出しても何の解決にもならないのは百も承知。
だけど、雪菜の鼻に香ってきた香りは……確かにジャズと同じものだった。





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あと1話!