![]() My perfume -1- バタン、と扉が勢いよく開かれる。 それにびくり、と一瞬背筋を伸ばしたが、すぐにパソコンの画面の後ろに見えた紅い髪色にほっとしながら雪菜はパソコンの画面へと視線を戻した。 「ディーノ、寒い。その扉締めて」 「お前らってさ」 「ん?」 「嗅覚なんて救いようが無ぇレベルの癖に、勘だけは鋭いよな」 「は?」 突然現れたかと思えば、大きな音を立てて雪菜の座っていたデスクの向かいにドカりとディーノが座る。 そして不満そうに紡がれた内容に、雪菜は怪訝に眉を潜めながら、パソコンの画面から視線をあげた。 「どうしたの、急に」 「俺、今日いつもと何か違うと思う?」 いつもなら、何だかんだ言いながらも都合のいい台詞を口から紡ぐ彼なのに。 何だか面倒臭そうなディーノの様子と、少しだけ苛立ったような口調に、雪菜はディーノの瞳をじっと見つめてから、その姿へと視線を上下に落とした。 ……背後の扉が開けっ放しなのは今は触れないでおこう、と膝にかけていたブランケットを僅かに引き寄せながら。 「別に……あぁ、言われてみれば……いつもとつけてる香水が違う?」 「Scusi?分かるのか?」 「銘柄とか詳しくはないけどね。いつもの貴方の香りと違うから」 雪菜が見る限り、彼の服装も髪型も、はたまた人形へのトランスフォームも格段不審な点は見受けられない。 一体何が、と雪菜が口を開こうとした瞬間に、鼻先をすり抜けて行った彼の香りにスン、と鼻を鳴らした。 あぁ、いつもはメンズの香水をつけているのに……どうやら、今日は身に纏う香りが違うようだ、と。 「それ、女性用じゃない?それがイタリアの流行なの?」 当たっている?とでも言いたげに雪菜が首を傾げれば、目の前のディーノははぁ、なんて大きな溜息を漏らす。 そして机の上に置いてあった筆記用具やら書類やらを指先で遊ぶ様に転がした彼は、再度溜息を漏らして腕をつき、雪菜を忌々しそうに蒼い瞳で見上げた。 「人間ってのは面倒な生き物だぜ」 「なーに、何があったの?」 「"人間様"を思って、あえて隠してたってのにさ。根掘り葉掘り聞いて、裏まで取りやがって」 「あぁ、浮気がばれたの?」 雪菜がそう指摘すれば、ディーノの瞳が至極不満気に歪められる。 その反応に雪菜が少し瞳を丸くしたのにも気がつかないのだろう、軽い舌打ちさえ漏らしたディーノに、雪菜は彼に見えない様に頬を緩めた。 実際には彼が特定の女性を作らないでいる事は知っていたし、別に自分が深入りする必要はないとつかず離れず、いつもディーノの口から漏れる彼女達への……人間の不適合さを馬鹿にする言葉を適当に聞き流してはいたけれど。 「匂いなんかでバレるとは思ってなかったぜ」 挙げ句の果てに肩さえも心無しか落として見えるディーノに、雪菜は笑みを殺す様にマグカップに口をつけた。 あのディーノが。 一度や二度の浮気がバレたぐらい、屁とも思わなかった、あのディーノが。 どうやらバレたらしい浮気に今更ながらへこたれているなんて、と雪菜の喉に込み上げてくる感情を、何とか喉の奥に紅茶と一緒に押し込んだ。 「えと、な、何だったっけ、昔似たような話をテレビで見た気がする。人間の記憶と嗅覚の因果がどうのって」 「……へー」 恐らく雪菜の言葉なんて全く聞こえていないのだろう。 相も変わらず歪められたままの瞳で宙を睨むように見上げてから、その瞳を伏せた彼は一体何を思っているのだろう。 あれ程人間嫌いだったディーノが、人間の女性に興味を持ち始めたのは雪菜も嬉しかった――たとえ、それが不特定多数であったとしても、それでも大きな一歩だと確信はしていた。 あとは、この一歩を乗り越えてくれれば、なんて半ば母親にも近い感情を、何千年も年上の”同僚”に抱いている自分に胸中で笑いながらも、雪菜はディ―ノと同じ様に大きく溜息を一つ、口から吐き出した。 「ま、バレてまずい事なんてしてるディーノが悪いのよ」 「マズイっつぅか、なんつぅか……」 「ふふ、」 「ンだよ、ベラ。そんな天使みたいな笑顔で誘ってくれるんなら、俺はジャズとだってやり合ってみせるぜ?」 「こんな所に逃げ込んでないで、早く謝ってきたら?」 以前のディーノなら、間違いなく”バレても何ともねーし”という言葉が返ってきていただろうに。 軽口はいつもの事、と聞き流してから折り重なる様に軽く”お姉さん”を気取ってみる。 これがサイドスワイプだったら”けどよぉ!”なんて機械音を鳴らしながら反抗してくれうだろうが、……目の前のディーノは一度だけ口を開こうとしたが、結局何も言わずに席を立ち上がった。 「邪魔したな」 「あ、ねぇ!」 「何?ジャズから奪ってくれってお願いか?」 「じゃなくて」 開けっ放しの扉に手をかけたディーノに、雪菜が声をかける。 そしてどこで覚えてきたのか、ウィンクなんて雪菜に送るディーノに思わず笑いながら、雪菜は手元にあったシャーペンを片手に取った。 「ディーノの普段つけている香水って、どこのブランドなの?」 「俺の?何でだ?」 「んー、ちょっと気になって。ディーノってそういうセンスは良さそうだし」 「言葉には注意だぜ、ベラ。別に、ウェブで調べただけだ。何ならデータでも送っといてやるよ」 そう彼が告げると、すぐに雪菜のパソコンにメールの着信を告げる音が聞こえてくる。 差し出し人はアドレスも何もない”Dino"とだけで、ワンクリックで開くとそこには膨大な資料が添付されていた。 ……あぁ、これを全て”解析”して”統計”をとれば、そりゃ良い香りの香水に辿り着くわ……と苦笑を漏らせば、ディーノがヒラ、と手を振って部屋を後にした。 「グラーツィエ」 「Prego」 パタン、と聞こえてきた音、そして足音が遠ざかって行く音。 これからディーノは例の彼女の所に謝りに行くのだろうか。 地球に来てから、ディーノが初めて自分から誘った人だという事はサイドスワイプから聞いており、彼の話し振りからすれば、ディーノがベタ惚れだとか。 それはそれで信じ難いものもあったのだが……今日のディーノの様子を見ていれば、何となく今後の結末は想像がつくし、もともと、ディーノが不特定多数と関わりがある事を知った上でディーノとのデートに応じていた、と聞いた事がある。 まったく、誰かを好きになる気持ちは厄介なもんだ、なんて雪菜が笑いを零したその時、今度は緩やかに扉が開く音が室内に響いた。 「もう、本当に今日は来客ばっかりだわ」 「ん?……あぁ、ディーノか」 「あら、分かった?」 「まー、さっきすれ違ったからな」 ひょこりと顔を出したのは、バイザーを頭上にあげたジャズの姿。 愛しい彼の突然の来訪は……ディーノと同じく、いつもの事。 むしろ、オートボットや隊員の来訪自体がいつもの事と言ってしまえば、もはや身も蓋もないのだけれど。 「どしたの?」 「彼女んとこ来るのに理由が必要?」 それは知らなかった、なんて白々しく笑いながらデスクの隣にやってきたジャズの手が、雪菜の髪にぽんと触れる。 そのまま腰を屈め、さらり、と雪菜の髪を掬いながらそっとそこへ唇を落としたジャズに、雪菜が慌てて口を開いた。 「だけど、私まだ――……って、ジャズ?」 「ん?」 「ん、じゃなくて。私まだ仕事が……」 ストップ、と彼の身体を押し返しても時既に遅し。 いつの間にか目の前に屈みながら、背中に回されていた手に力が入ったのと同時に……少しだけ冷たいジャズの唇が、熱を乞うように雪菜の唇に触れる。 チゥ、と小さく惜しむようなその音がヤケに生々しく部屋に響き、必死に流されない様にと雪菜はジャズの胸を軽く押し返そうと力を込めた。 「へいへい、ちょっと通りかかったから顔を見に来ただけだって」 「そ、そうなの?」 「ンな残念そうな顔すんなって」 くす、と笑うジャズに、雪菜の頬に熱がかっと集中する。 そんな顔していない、とすぐに反抗したかったのに、結局はそれは額に落とされたジャズの唇によって喉の奥へと押しやられてしまった。 結局はキスされて嬉しっていう気持ちのせいで言いたい事も言えなくなっていまう……、なんて思いながら。 「んじゃ。悪かったな、仕事の邪魔して」 「あ、ううん」 「また夜な。それまで、ディーノとかディーノとかあのクソイタリア野郎とか、他の奴らにたぶらかされんなよー」 「はいはい」 本当にジャズは雪菜の顔を見にきただけなのだろう。 入ってきたときは気付かなかったが、片手に持っていたサイン済みの書類を肩に抱えていたジャズは、来た時と同様、緩やかに扉を閉じて部屋を出て行った。 「……あれ?」 先程のディーノと同じく、コツコツとジャズの足音が遠のいて行く音が部屋に静かに響く。 立て続けの来客のせいですっかりと変わってしまった部屋の空気に、雪菜が紅茶を入れ直そうと椅子を立ったその時。 鼻を遊ぶ様にくすぐった香りに、雪菜は目をぱちりと瞬かせた。 これは、ディーノの香水じゃないし、ディーノが纏っていた”誰か”の香水でもない。 「気のせい、かな」 普段から出入りの多い部屋だ、自分が今まで気がつかなかっただけに違いない。 なんて、適当に結論付けながら、香りをかき消す様に新しいアップルティーのティーパックの袋を開いた。 ***** ディーノさん、いつの間にそんな事に! |