(---)一人目 荊軻


これは、君が知らない女の話だ。





 酒に溺れるな、と女は言った。
 曰く、酒とはほんの少し人生を浮かび上がらせるためのもの。あくまで主体は人であり、酒のために酔うのではない。
 なるほどそうかもしれない、と酒の味を知らぬ子供は思った。突然背負う事になった責任と重圧を忘れるためにアルコールを求めた己を恥じた。
「忘れるためではなく楽しむために酒を嗜むというのなら、いつでも付き合おう。それまで楽しみにしているよ」
 頭を乱雑に撫でられた。女はいつもそうだった。主人扱いと子供扱いを全く同時に両立させる。ありのままに進むことを許容するくせに、導くことを忘れない。

 赤黒く燃える悪夢の都市で、未熟者に初めて応えてくれた人がいた。
 竜の魔女の陵辱をかいくぐり、活路を開く先人がいた。
 綺羅星のごとき皇帝軍団に、笑って刃を向ける反逆の逸話がいた。
 果ての見えない海路の苦難を、酒の肴に笑い飛ばした酔狂者がいた。
 混沌の霧に飛び込み、肉の柱に飲まれて消えたサーヴァントがいた。

 ――それら全てが、同じ女だった。

 四つ目の特異点から生還した後。子供の口から出たのは、心配でも安堵でも、怒りや悲しみですらなかった。
「死ぬのが怖くないの?」
 サーヴァントに問うには愚かすぎて、しかし子供にとっては当然の疑問だった。
 規格外の夢や愛や富や名誉のためというならば、身を削る戦い方をするのは当然だ。そんな現代の常識の外側に生きている英雄や化物たちなら、多く目にしてきた。
 けれど女は、この人は、王でも戦士でも化物でもない。ちょっと苦労人気質な、頼りになるお姉さんなのだ。大層な信念など保っていない。酒を愛し、ほんの少し国を憂いだだけの酔狂人なのだ。そんな女が、絶体絶命に至る前に、命を捨てて特攻する。
「貴女が宝具を使わなくても、勝機はあった」
「絶対ではあるまい。私が宝具を開帳したからこそ、君たちの生還は確実になったのさ」
 当然の判断だったと言わんばかりの態度で女は微笑んだ。彼女はすごい人だ。しかし破綻者ではないのだ。死ぬことの意味を理解し、恐怖も俺と同じくらい持っている。少なくとも子供はそう思っていた。だからこそ、なおゆるりと死地に向かう態度がもどかしかった。何故彼女は笑っているのだろう。命の価値を知りながら平然と差し出すなんて、理解できなかった。
「これまでとは状況が違った。もう二度と帰ってこられなくなるかもしれないのに、どうして特攻したんだ」
 あれは魔術王との戦いだったのだ。人類史全てを償却した黒幕。魔神柱に飲み込まれたサーヴァントが、正しくカルデアに帰還できる確信はなかった。だから一人も消滅させずに耐えきる方針にした。女はそれを裏切った。
「命令違反とか、そういうのはもういいんだ。それよりも聞かせて欲しい。どうしてそんなに自分の身を削る生き方をするんだ」
 根底を自己犠牲で定義されているサーヴァントもカルデアには存在する。しかし女はそうすることでしか生きられない生き物ではない。
 義務も必要性も、破格の見返りすらない。そのほうが確実な成果が得られる程度の見返りで、どうして命を捨てられるのか。
 不思議だった。どうしても理解できなかった。信頼しているからこそ、理由を問わずにはいられなかった。
 女はいつもどおりの様子で返答した。
「君は勘違いをしている。私は最初から見返りなど求めてはいない。もっとも、死ぬのは怖いさ。サーヴァントとして限界した今とて二度と酒が飲めなくなるのは惜しい」
 だったらどうして。
「私は国のために死地に赴いたわけではない。もっとろくでもない、個人的な酔狂が大半でね。あの暗殺は、私の退屈な人生の光だった。そして私は目的を果たしたよ。匕首の毒が――いや、詳しい話は跡にしようか。そして、英雄なんて場違いなものに選ばれて、今、こうして君達とともにいる。しかし、まあ、悔しいのも事実でね。皇帝をその場で殺し損ねた生前の己にどうしようもない感情を覚える。だからこそ確実を求めた。特攻と犠牲は、確実な勝利のために誰かが果たさねばならない役目だ」
 貴女がしなければならない犠牲じゃないはずだ。その思いは音になる前に消えた。
「ほんの少しだけ、この世から浮かび上がるために。私は一歩を踏み出すのだよ。それに――」
 黒化粧で色られた指先が子供の唇を塞いだ。そのまま頬を経由して目尻をくすぐる。長い黒髪が、目の前で揺れた。白百合の強い香りが、女本人の印象を覆い尽くす。
「私が死んだら、君は私のために泣いてくれるだろう?」
「――」
 だからかまわないのだと女は笑う。それが、あまりにも美しかったから。自分もそんなふうに世界を救えたらと憧れてしまったから。
 何も言えなくなってしまったのだ。

 その言葉に続きがあったなんて、あの時の子供には知る由もなかった。





 時は流れる。
 年が明ける。
 再び時間は動き出した。断絶の運命を飛び越えて、人類史は二〇一七年を迎えていた。

 沢山の人が焼却から救われて、これからは大忙しで。けれど、ポッカリと空いた空虚を埋めるすべを子供は知らなかった。みんなといれば平気だ。もっと頑張らなくちゃとふるい立つことができる。毎晩寝る前の孤独だけがどうしようもなく子供を苦しめた。
 ガチャガチャと黄金が揺れる。彼女に捧げたかった杯。冗談のように望まれた聖杯の美酒は、決して減ることはない。

 手に入れた大切なものと、たくさんの失ったもの。最初に召喚に答えてくれたサーヴァントは、後者のうちの一つだった。

 カルデアのサーヴァント『荊軻』は、肉の柱に飲まれて消えた。もう二度と還らない。

 魔神王との戦いで、彼女は再び特攻した。どうなるのか、全てわかった上で一歩進んだ。ただ殺めるのみだと笑って。 
『願わくば、私のようなろくでなしではなく! 君のような人が私以外の誰かを救うような世界であって欲しいと思う! ろくでなしからは程遠い君だからこそ、私は召喚に答えた! そして、今、もう少しだけ浮かび上がろうと思う!』
 ニヤリと笑って、バネのような太ももの肉が力強く伸縮し、一気に加速する。
 その姿に、場違いにも見惚れてしまったから。だからなにも、言えなかったのだ。

『だから、その時は―――、―――――――――』

 ずるい遺言。ひどい、ひどいよ。そんなことを、求めるなんて。みんなどうして。あんまりだと、詰め寄る相手はもういない。
 酒に口をつける。美味しいとは思えなかった。クラクラと、頭が揺れるような、少しだけ浮かび上がるような、掴みどころのない感覚。これこそ彼女だった。

 ああ、そうか。
 子供は――オレは、彼女が好きだったんだ。

「はは、はははは。そっかあ。なんだよそれ、ずるいなあ。みんな、ずるいよ」
 口元には、悲しみではなく、心からの笑みを。『どうか、笑って見送ってくれ』。それこそが彼女の望みだったから。


 あれはきっと、いつか現実に敗れる恋だったのだろう。
 もうここにはいない女の話だ。

 

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