色褪せる事のない青であれ

 部屋に吹き込む風は、夜にもなるとだいぶ冷たさを含んでくる季節だ。ノルドのそれとはまた、違った風を感じる。
「……」
 目の前には、真っ白な画用紙がある。まだ何を描くかは決めていない。ただ、なんとなく、まだ見た事のない風景を描いてみたいと思った。唐突に、ではあるのだが。
 月末の士官学院祭へ向けた作品が終わった後にでもゆっくりと進めようと、画用紙を眺めながら思っていた。まだまだ時間はある。どんな風景を描こうか、色々と脳内で挙がった候補は――突然扉をノックされた音によって、一度置かれる。
「空いているぞ。入ってくれ」
 日付が変わるまで、後二時間ほどだった。こんな時間に部屋を訪ねてくる人物はあまりいない。
 故に、なのか。扉が完全に開く前に、向こう側に居るであろう人物を予測出来てしまったのは。
「よう、お邪魔するぜ〜」
 ひらりと手を振って入って来たのは、クロウだった。時間が時間だからか、少々眠そうに見えるのはきっと気のせいではないのだろう。リィン曰く夜更かしの常習犯≠轤オいが、それならば日中の授業で居眠りをしていたのにも納得はいく。
 軽く欠伸をして部屋を見回した後に、クロウは真っ白なままの画用紙を覗き込んできた。
「なんだ、まだ何も描いてねーのか?」
「ああ、これから考えようとしていたところだ」
「お。それならちょうど良かったかもしれねぇな」
「?」
 制服の懐に手を突っ込んだクロウが取り出したのは、一本の色鉛筆だった。果てのない海のような、故郷の蒼穹のような――どちらにも例えられそうな蒼は不思議な事に、クロウの手によく馴染んでいる、ように見えた。その理由は分からない。
「カイ達とブレード勝負やってたら貰っちまってな。お前なら使えるんじゃないか、って思ってよ」
 そう言って、色鉛筆を手の平でころりと転がしたクロウ。一瞬だけ側面に銀の文字が見えたが、一体どこのメーカーの色鉛筆なのだろう。
 ブレード勝負。街の子供達と、カードを使った遊戯をしている姿は時々見かけていた。賭けているのは飴玉やお菓子のようだが、よく負けて巻き上げられているとも耳にした事がある。子供相手に本気を出していないだけなのか、大人げなく本気でかかっていっても運のなさで負けてしまうのか。
 どちらにせよ、面倒見がいいのだろうと察する。
「色鉛筆か。確かに今、ちょうど青が減ってはいたところだが……いいのか?」
「そっちの方がこいつも喜ぶだろ」
 片目をぱちりと瞑りながら、クロウは言う。こういう仕草が似合うのは性格故だろうか。
「寝過ごした授業のノート写させてもらったり……ま、お前にも色々と世話になっちまってたから、ささやかな礼って事で」
 これを使って何を描こうか考えようとした時、その言葉で、クロウは後少しで《Z組》からいなくなってしまう事を思い出す。
 補習のような名目で一学年下のクラスに編入、という異例の特別参加をしてきたものの、クロウはあっという間にクラスに馴染んでしまった。教室の一番後ろの机がなくなる日は、遠くはないのだ。
 そう思うと少しだけ寂しさを覚えてしまうのは、それだけ彼が溶け込んでいたという事なのだろう。
「……そうか。そこまで言われてしまったら、断る理由もないな」
「クク、貰えるもんは貰っとけって」
 ひらりと手を振ったクロウは、自室へ戻ろうと踵を返す。欠伸をしたのか、眠たそうな声が漏れるのが耳に入った。
 夜更かしはあまり良くないぞ、と、声をかけようとしたその時。
「……?」
 ちかり、と、閃光が瞬くかのように――そんな彼の姿がほんの一瞬、消えかけた。
「…………」
 息を思わず止めて、瞬きをする。そこにはちゃんとクロウが居た=B
 オレも眠いのだろうか、などと考えたが、思考は扉が開かれる音によって遮られる。顔を上げれば、ちょうどクロウはその向こうに行こうとしているところだった。
「クロウ」
 深く考える前に、ほぼ無意識にその名を呼んでいた。
「ん?」
 どーしたよ、と。何でもないその一言に安心感を覚えてしまった理由に、辿り着く事は
叶わない。手を伸ばせば伸ばすほどに、遠ざかってしまうからだ。
 呼び止めた訳を考えかけて、ふと、手の中の色鉛筆に視線が移る。
「……、何か――リクエストはないか? 世話になったのはオレも同じだからな。礼として、一枚描かせて欲しい」
「んー……気遣わなくてもいいんだぜ? 別に転校したり、どっか遠くに行っちまうワケじゃねーし」
 苦笑しながら零された言葉が妙に引っかかるのは、一体何故なのか。それすらも、掴む事は叶いそうにない。
 それもそうだな、これを使って絵を描くから、機会があったら是非見に来てくれ――と、ここで話を終わらせる事は容易いだろう。だが、その浮かんだ一文は、沸き上がった名前の分からない感情によって掻き消される。
「そうか……この青なら、きっと良い絵が描けると思ったんだが……駄目だろうか」
「……。敵わねえなぁ」
 頭を掻いて、クロウは考え込むような仕草をする。
「……そうだな……。……お前が思う海≠描いてくれねーか?」
「海?」
「おう、どんなんでも構わねえぜ」
 少し意外だな、と思いはしたが、言葉にはせずに留めておく。
 彼方まで広がる、世界を形作るもう一つの青。受け取った色鉛筆を、再度見る。海。周りの景色や天候によって様々な姿を見せてくれるものだという認識があるが、どういうものを描こうか。
 いつまでも褪せそうにない、と感じられるこの色に似合う海≠、脳裏に描くには、少しだけ時間がかかりそうだ。
「クロウは、海が好きなのか?」
「? 好き、っつーか……」
「それとも、雑誌の影響か?」
「そうそう――特に夏の海辺だ。キレーな水着の姉ちゃんが沢山居て目の保養に…………って、お前さんにしちゃ意外なセリフだな。見た事あんのか?」
「オレは読んだ事はないが……この前、下でそういった雑誌を広げっぱなしにしていて、マキアスに怒られていただろう」
「み、見てたのかよ」
「声が聞こえたからな」
 一般的には騒がしい、という括りに入るのかもしれないが、その光景も大切な、かけがえのない刻の一欠片だ。
 士官学院へ来なければ見られる事のなかった景色と、出会う事のなかった仲間達。得るものが多い毎日は充実してはいるが、いつか終わってしまう。
 そう思うと、尚更、有限である日々を大事に過ごさなければならない、と思えてくる。
「ガイウス」
「?」
 ぽつり、と零された名。クロウの緋色と視線が絡んで、短いような、長いような静寂が訪れる。
 言葉を探しているのだろうか、それとも。絡んだままの視線からは、彼の感情を――浮かべている表情の根底にあるものを、読み取る事は難しい。
「…………や、何でもねえ。下の階から音がした気がしたが勘違いか……そんじゃ、楽しみにしてるぜ?」
「分かった。待っていてくれ」
 屈託なく笑ったクロウは、入ってきた時と同じように、手を振って部屋から出て行った。先程のようにその後ろ姿が消えかける事はなく、扉が閉まる音は静かに響く。

 何も知らなかった、この時は――小さな約束は、当たり前のように、叶えられると思っていた。


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