××年分の話をしよう
 その平原に咲いていた花は、彼、アドルが生前の冒険の途中で、何度か目にしたものだった。
 懐かしいな、と、少し屈んで、彼は綿毛を見守る。やがて穏やかな風に乗って旅立つそれらは、一体どこで芽吹くのだろうか。
 ――ダンデリオン。旅立ちの花。
 アドルの脳裏に呼び起こされたのは、二十四歳の時に訪れた、監獄都市での冒険だった。数字にしてしまえば遠い、遠い日々の出来事だが、その冒険も未だ彼の中では褪せずにいる。
 夜に閉ざされた都市。怪人と異能。錬金術に複製人間――あの場所でも多くの出会いがあり、決して少なくはない別れがあった。
「……?」
 ふわりと飛んでいく綿毛を目で追った先、森の中に建物がある事に気が付いて、アドルはゆっくりと立ち上がる。先程まではまったく見えていなかったのに、と、内心で首を傾げつつ、彼はそちらへと歩き出す。

 誰も居ない平原。そこに在るのはアドルと、言葉を発する事のない草花だけだ。世界の音はあるようで、なにもない。

 沈黙と共に歩き続けて、何分経っただろう。居た場所からはおそらくそう離れていないというのに、随分と長く感じられた。
 こちらの世界は時間の流れが違っているのだろうか、などと冷静に分析しながら、アドルは辿り着いた建物の前に立つ。
「……」
 そこは教会のようだった。外壁は蔦に覆われ、ところどころ崩れかけており、嵌め込まれたステンドグラスはひび割れてしまっている。廃墟へ緩やかに向かっている、といったところだろうか。扉はまだ腐食が進んでいないらしく、アドルがそっと押すと、まるで迎え入れるかのように開いた。
 ――忘れられ、世界と時間から切り離されたかのような、小さな空間がそこにはあった。
 一歩進む度に何かの破片を踏んでいるのか、ぱり、という控えめな音がする。大きなステンドグラスは崩れつつもまだ半分以上残ったままで、差し込む陽光を受けて細い光を伸ばしていた。
 静寂の中に、人の気配がひとつある。入る前からなんとなく彼が感じ取っていたそれは、中に入ると更に近くなった。こんなところに、一体どんな人が居るのだろう――と、アドルは身廊を歩いていく。
 警戒していないわけではない。けれど、どこかで感じた事のある気配であるのと、今のこの状況が記憶の断片と重なって、携えた剣に伸ばそうとしていた手は自然と引っ込めていた。
 誰だろう、という疑問に、ほのかな予想が被さろうとした――その時だった。

「君の好奇心、相変わらずみたいだな」
「!」
 
 薄暗い礼拝堂内の静寂を、アドル以外の声が破る。声の主は、彼が居る一列前の長椅子に寝転んでいるようだった。
 思わず足を止めて、彼はそちらを静かに見る。再び音が消えた空間の中で、見えない視線が交わっているような気さえした。
 そこに居るのが誰なのか、アドルにはすぐに分かった。踏み出そうとすると、追憶の波が一気に押し寄せる。
 緩く頭を振って数歩進み、アドルが長椅子の横に立つと、寝転んでいた青年が体を起こした。

「やあ、アドル。また会えたね」

 アドルが口を開くより先に、“彼”はあの頃と何も変わらない、人懐っこい笑顔を見せる。
 当然のように呼ばれた自分の名。あれから数十年が経過していて、年齢もそこそこ重ねているというのに、何の迷いもないように見えた。
「……僕のことが分かるのかい?」
 敢えて、だった。“彼”は――マリウスは、確証がないのに名を呼んだりはしないだろうと思いつつも、アドルはそう問いかけていた。
「分かるに決まってるよ」
 何を言っているんだ、といった様子で、マリウスはアドルと目を合わせて笑う。
 嘘を吐いているようには見えなかった。
「それなら良かった」
「……。随分、時間が経ったんだなあ……君、幾つだったんだ?」
「六十三……くらいかな」
 長生きした、とは言えないかもしれない。それでも、冒険で満たす事が出来た人生で良かったと、アドルは付け加える。
「沢山冒険出来たみたいだね。君は最後まで、君らしく在れたってところか」
「そうだな……僕から冒険という言葉を取ったら、あとには何も残らなくなるくらいにはね。手記も百冊以上遺せたよ」
「百冊! それはすごいな。アドルの記録であり、遺された光であるわけか……僕も読んでみたかったな」
 どんなに小さくてもいい。手記を読んだ誰かの希望になれば――夢を持って、広い世界に目を向けるきっかけになってくれたらという願いも、あれらには詰まっている。
「マリウスにも、話せる事が沢山ある。長くなりそうだけどね」
「気にしなくていいさ。聞かせてくれないか? “アドル・クリスティン”の冒険の話を」
 長椅子から立ち上がり、外へ行こうと促すマリウス。
 アドルは頷いて、開かれたままの扉を見る。風と共に綿毛が一つ迷い込み、ステンドグラスの破片の横に降り立った。
「ああ。勿論だ」
 どれから話そう、どう伝えよう。久々に、長く冒険の話が出来そうだ。
 時計の止まった世界の中で、記憶という名の冒険日誌を捲りながら、アドルはマリウスの背を追った。





補足

マリウス→記憶の中のアドルはあの頃のままなので、二十四歳の姿に見えている……事に気付いている
アドル→マリウスが二十四歳の姿の自分を見ている事をなんとなく察する



←Back