草笛の奏
※2020/12/29のファルコムオンリーにて、PDF無配として置いていた小話です。



「楽しい思い出はたくさんあるけど、何より、あなたに出会えたことが一番嬉しかった。本当に、心からそう思うの。あなたとは女神としてではなく、フィーナという一人の女の子として、話すことができた気がするから……」
 寂しさを滲ませながら、彼女はぽつりぽつりと言葉を零す。
「ときどきでいいから、思い出してください。私のような女の子がいたってことを……」
 フィーナの頬を、一筋の涙が伝う。ささやかな願いを告げた彼女へ、私は言葉を返すことができなかった。小さくとも頷くべきなのか、忘れないよ、と言うべきなのか――迷う間にも時間は流れてゆく。
「……お別れです」
 再会の約束は交わせない別れだと、分かっていた。それくらいは察することができた。だからこそ、静かに、フィーナの言葉を聞き入れることしかできなかった。
 手を伸ばすことはできず、引き留めることも許されず。使命を果たすために去っていったフィーナを、私は何も言えないまま見送った。
「フィーナ……」
 一言、その背中へ向かって、そう呼ぶので精一杯だった。返事が来ないと分かっていても、冒険の途中で何度も呼んだ彼女の名を、呟かずにはいられなかったのだ。

 二人の女神が眠りについたサルモン神殿を、夕陽が包んでいった。今日も夜が訪れ、一日が終わろうとしている。そして時が巡れば夜が明け、朝がやってくる。地上へ降りたイースの地にも、それは等しく訪れる。
 守って護った結果、守られ護られた。過去や使命が織り交ぜられた初めての大きな冒険は、夜へ向かう空のように、ゆっくりと幕を閉じようとしている。
 ――あ、あなたは……誰……?
 神殿の地下牢でフィーナと出会った時の言葉はまだ、私の脳裏に焼き付いて離れなかった――否、それだけではない。記憶喪失だという彼女の手を引いて走ったことも、ゼピック村で過ごした穏やかな時間も、決戦前に助けられたことも、私は生きている限り、忘れることはないだろう。忘れはしない、忘れられるはずがない。

 人間と女神。共に在る未来を選べないようにしたのは運命か、それとも。
 名付けようのない感情が、ただ、私の胸中を満たしていた。

 ◇

 夕暮れのバルドゥーク。空が仄かに夜へと染まり、昼の明るさが徐々に世界の裏側へと去ってゆく――この時間帯をそのように言い表していた書物は、幼い頃に父が読み聞かせてくれたものだ。すべてが拓かれていないこの世界というものに対する推測を、お伽噺のような物語で記したもの。いつかその裏側を見てみたい、などと当時は考えていたのを、アドルはよく覚えていた。大きな街も、海すらも知らず、小さな小さな世界の中で、まだ見ぬものへと思いを馳せていた頃だ。
 幼い頃を回想しながら、アドルはゆっくりと歩く。行先は特に決めておらず、ダンデリオンを一人で出てきたのはなんとなく≠セった。気持ちの整理がしたかった、というのも多少はある。
 周囲を見回す。ある意味初めて見る街でもあり、何度も怪人として駆けた街でもある。異能で駆け上がった壁、風を切って滑空したり、瞬間移動を繰り返して見て回った幾つもの街区。それらの記憶はアドルの中に景色と共に確かに存在しているものの、自分の足でも訪れておきたい、という想いもあった。
 夜まではまだ時間がある、少し気になるところを巡ってみよう――アドルがそう思った、その時。
「?」
 川のせせらぎ、行き交う人々の話し声、石畳を歩く音。それらの合間に、かすかに違った音を聞いたアドルは、ふと足を止める。
 直後、脳裏に小さく閃光が走るように、記憶の欠片が降ってきた。
『少し前からだ。夕方、時々、どこからか綺麗な音色が聞こえてくる』
『草笛のような音だった』
『けれど、どれだけ音に近付いても、それを奏でている人物が見つからない』
 それは、ちょっとした噂話だった。ダンデリオンを訪れる常連客からシャンテが聞いたという、大きな街にはありがちな類の話――とはいえ、語る人々は皆、恐怖心を抱いたりしているわけではないようだ。
 音色の美しさゆえか、それとも。探しても姿を見つけられないというその音色の奏者は、心残りがある中で没した音楽家とも、空から舞い降りた天使とも囁かれた。誰が最初に流したのかは分からなかったが、物語の一部分のようなその話は様々な形で、バルドゥークの街に少しずつ広まっているという。
 当然、その不思議な音色の話は、ダンデリオンを拠点とするアドルの耳にも入った。ラルヴァの干渉か何かかとアプリリスは少し警戒している様子だったが、アドルはなんとなく、それとは異なっている気がしていた。何の根拠もなかったから、彼女へそう告げることはできなかったが。
 ――という記憶も、しっかりと彼≠ゥら共有されている。
 夕焼けの空に溶け込むかのようなその音は草笛≠フものだろう、とアドルは推測した。最後にその音色を聴いたのは随分と前だったが、それは未だ鮮明な思い出として在る。エステリアのゼピック村で、澄み渡るような綺麗なそれに耳を傾けたのはもう、七年ほど前になる。
 あれから色々なことがあったなと、石畳を再び歩きつつアドルは思う。同時に、不思議な感覚がしていた。バルドゥークへ来るまでに経てきた、様々な冒険の数々は確かに自分自身のものであるのに、それらを隣で見てきたかのような感情も微かにある。
「ほら、はやく帰らないと怒られちゃうぞー」
「ま、まってよー! おにーちゃん!」
 自分の中にもう一人自分がいるとこうなるのか、と思うアドルの横を、小さな兄妹が駆け抜けていく。しっかりと手を繋ぎ、
人にうまくぶつからないように、家への路を急いでいた。少女の首元に巻かれた空色のマフラーが、生き物の尾のように何度も揺れている。
 その兄妹とは逆の方向へ、アドルは進む。表通りから裏通りへと入り、陽の光が届かなくなりつつある路地を抜け、草笛の音を頼りに歩いていく。既に周囲に人の姿はなく、時折建物の合間から猫や犬が顔を出す程度だった。
 猫には何匹か遭遇したが、そのうちの一匹はアドルのあとをついてきた。小さな気配があるのに気がついて、アドルは立ち止まり屈む。
「君も聴きに行きたいのかい?」
 後ろにいたのは白い子猫だった。ふわふわとした毛と、丸い瞳が愛らしい。人に慣れているのか、アドルが声をかけても逃げるようなことはなかった。
「にゃあ」
 言葉が通じているかどうかは、アドルに確認する術はないが、ひとまずそれを肯定と捉えることにした。足元に擦り寄ってきた子猫へ手を伸ばすと、当たり前のように乗り、あっという間にアドルの肩へとよじ登ってくる。
「どこかで会ったことがあったかな」
 それともただ単に、人懐っこいだけなのか。バルドゥークへ来てから人助け――ではなく猫助けをした記憶のないアドルはもう一つの記憶を探るが、そこからもこの子猫は見つからない。
 ダンデリオンへ戻ったらキリシャたちに聞いてみよう、と一旦区切りをつけて、アドルは子猫が落ちないよう、マフラーの隙間へ招き入れた。


 赤のマフラーに白い毛が付くのも気にせず、そのまま歩き続けていると、いつの間にか文化保護区へと辿り着いていた。時間が時間なので誰も居らず、乾いた風が静かに木々を揺らしている。佇む石像は何も語らず、ただ、過ぎ去った年月をその身で証明していた。
 賑わう都市から切り離されたような場所。子猫が小さく鳴く。なにかを恐れているというよりは、なにかに気がついた時に発する鳴き声だった。
「……?」
 アドルが見上げた先、石門の上に、ほのかに蒼い光を放つ何かがある。草笛の音もそこから聞こえていた。
 再度、人が居ないのを確認して柱の下に立ったものの、アドルはぴたりと動きを止める。異能で駆け上がれそうだが、子猫が驚いてしまうかもしれない、と思ったからだ。
 ――今から柱を駆け上がるから、しっかり掴まってて、と猫に伝えるのは難しそうだ。
 どうしたものか、と考えていると、子猫がもぞりと動く。すると、マフラーの間から顔を出し、数秒もしないうちに身軽に飛び降りて、アドルの足元に大人しく座り込んだ。
「えっと……」
「……」
「困ったな。君の言葉が分かればいいのに」
「…………」
 そもそも何も発していない、ということは置いておく。子猫が視線で訴える内容は推測するしかない、という状況――少々困惑しつつアドルが赤の王の姿を纏うと、子猫はぐるぐると周りを歩き始めた。突然姿が変わったにも関わらず、怯えることも警戒することもなく、その蒼い瞳に真っ直ぐにアドルを映している。
「逃げてしまうかと思ったよ」
「にゃ」
 後ろに回り込んで、括った長い赤毛へ前足を伸ばす子猫。外套を先ほどと同じように素早くよじ登り、肩が定位置となったのか、僅かに爪を立ててしがみついている。まるでこのまま駆け上がれと言うかのように。
 それでも心配なので一応手を添えて、アドルは異能を解放する。一気に垂直に壁を駆け上がる力を、ヘヴンズラン、天空散歩と名付けたのは一体誰なのだろう。言葉通りに空中を歩けるわけではなかったが、空へと一直線に向かうことができるこの異能には合っている名だと感じたことは覚えていた。
 数秒で柱を駆け上がり、門の上へと到着する。城壁の向こうに沈もうとしている太陽が、隠れる前の最後の瞬間に細い光を差し込もうとしている。
 草笛の音色はまだ、響いている――が、噂で聞いた通り、奏者の姿は見当たらない。
 肩に乗っている子猫は、気まぐれに毛づくろいをした。降りる様子がないのを確認してから、アドルはゆっくりと屈んで、光を放つ花びらを拾い上げる。やはり見覚えのあるものだった。
「蒼い花びら……あとでマーガレットさんのところへ届けに行こう」
 これで枚数は、確か――。思えば随分たくさん拾ったなと、混じりつつある二人分の記憶の中からこの蒼い光を見つけて思う。
『相変わらず、無茶ばかりしているんですね』
『私の希望をその先に繋げてくれて、ありがとう』
『フフ……《冒険家》ぶりも、すっかり板についてきたみたいだね』
『まさかこんな形で、また顔を見られるなんてね』
『人が存在する限り、負の感情が絶えることはない……』
 花びらを集めている女性・マーガレットは、時々不思議な言葉を言っていたことを思い出す。
 これを届けたらまた何か聞けるかな、などと考えながら、アドルは赤の王の姿のまま、その場に腰を下ろした。
 バルドゥークを囲う城壁は橙に染まり、その向こうに広がる景色には、夜が徐々に近づいている。ダンデリオンへそろそろ戻らないと、と思っていても、心が縫い留められたように動けずにいた。
「どうして、懐かしい気持ちになるんだろう」
 自問に対して、子猫が細く鳴く。答えは世界中を探しても、きっとどこにもない。ただ一か所を除いては。
 一旦途切れた演奏。風が吹き抜ける。
 聞こえ始めた音色は遠い日に、ゼピック村の湖畔で聞いたものと同じだった。
『アドルさん』
 まるで、昨日のことのように思い出せる。神殿地下で初めて出会った時も、平穏な村で過ごした時間も、思い返せばこのような色の空を背に、彼女が一筋の涙を流して、自身の使命を果たすべく別れを告げた時のことも。
 そこにいる草笛の奏者≠ヘ、思い込みかもしれない。置いてきてしまったものではなく、共に連れて冒険をしていると思っていたものがもたらした、優しい、黄昏の白昼夢なのかもしれない。
 それでも――それでも、このあたたかな気配は、あの日の陽だまりの中で感じたものとまったく同じだった。
「もう少しだけ、聴いていてもいいかな」
 曲が入り混じる風に語りかけるように、アドルはそう告げるが、どこからも返事はない。代わりに、音色までの距離が少し縮んだような気がした。

 アドルは、百二十枚目の蒼い花びらが乗った手をそっと握る。
 穏やかな草笛の旋律は、街へと溶けるようにして消えていった。





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