風と共に
※マヤの口調捏造


 飛んでいく。風に乗って、光のような白い花びらが。
「……おねーちゃん……っ」
 最後の最後までその光を抱き締めていたマヤ。それらが完全になくなってしまっても、しばらくそのまま、彼女は動けずにいた。
 アイシャがマヤの隣に屈んで、何かを堪えるようにしながら彼女の肩をそっと抱いた。エルクとクルシェは俯き、マイシェラとガッシュは魂の井戸があった方を静かに見つめている。ラウドは何も言わないが、握っている拳は微かに震えていた。
 静かだった。寂しくなるほどに。
「なあ、アドル……」
 白い花びらが遠ざかるのを見て、僕の隣でドギがぽつりとそう零した。
 どうしたんだ、と、小さい声で返す。
「ティア……笑ってたな。最後まで……」
 アルタゴの地に希望を見出し、繋いでくれると信じて、終焉の巫女の使命から解放されたティアは、穏やかに笑って消えた。マヤとも会えた彼女は、もう、思い残す事はないと言うかのようだった。
 勝てないはずの戦いには打ち勝った。縛られていたものは確かに解き放った。だが――失ったものは、決して小さくはない。
「…………」
 一度だけ、頷く。
 そのまま僕は、五大竜が消えていったアルタゴの空を見上げた。

 ◆

 異変が収束した後は、慌ただしい日々が続いていた。
 今後、アルタゴの地をどう守っていくか。復興はどうするか。竜騎士団が再び活動を始めるには――等、話し合う事が山積みの長達とアイシャは、公宮から数日間出てこなかったくらいだ。
 僕とドギは、復興を手伝う、という形でしばらくアルタゴに留まる事にした。急ぐ旅ではなかったし、次の目的地が決まっているわけでもない。何より、大変そうな彼らを放って旅立つ、という事は出来なかった。
「アドル。俺は明日、港のほうに呼ばれてるんだが……お前はどうする?」
「僕は旧市街のほうに行くよ。あっちにもそれなりに獣が入り込んでいたみたいで、建物があちこち崩れてるらしい」
「元々老朽化してた場所もあったしな……早めに作業が終わったら手伝うぜ」
「ありがとう」
 用意してもらった公宮の一室で、ドギと明日の事を相談する。寝泊りするのは宿屋でいいよ、とアイシャにはやんわりと断った。が、アルタゴの恩人にこれくらいの事はさせて欲しい、と言われてしまったら、厚意を受け取る以外の選択肢はなかった。
 気を遣わせてしまった申し訳なさはあったものの、こんなに上質なベッドで眠れる機会は当分ないかもしれない。せっかくだから堪能しておこうぜ、とドギが言ったのは三日ほど前の事だ。確かによく眠れた、と思う。
 空いている机の前に座って、あれから落ち着いて書く時間が取れなかった日誌を開く。ただ、ペンを手に取ったが、頭の中で文章が上手く纏まらない。
 色々な事、と一括りにするのは憚られるような出来事が幾つもあった。一番に書くべき事を思い出そうとすると、どうしても、言葉が散らばりそうになってしまうのだ。
「ドギ」
「おう、どうした?」
「少し、出かけて来てもいいかな」
 遠くには行かないから、と付け足しておく。
「子どもじゃあるまいし、心配してねえさ。気分転換も大事だぜ」
 そう言うドギは、僕の声色から、なんとなく察してくれたようだった。軽く背中を叩いてくれた手はあたたかい。
 明日使うのであろう、何かの図面を広げているドギは、先程まで頭を悩ませていた。その様子を見て、夜食になりそうなものでも調達して戻って来よう、と決めた。


 外は、静かだった。夜になって、警備している騎士以外の姿がないのもあるのだろう。
 公宮の入り口を守っている騎士に一言外出する事を伝えてから、広場の方へと歩いて行くと、そちらは人が疎らに行き交っていた。アルタゴに来たばかりの頃は出店が多く並んでいたが、今は一つも出ていない。あの景色が戻って来るのは、どれくらい先の事になるのだろうか。
 気分転換、のつもりで出て来たものの、どこまで行くかは特に決めていない。夜食を買うなら宿屋の一階でどうにかなりそうだったが、そこと公宮を往復する間に、どこか見晴らしのいい場所に立ち寄りたい気分だった。
 頭の中で、アルタゴ市の地図を開く。夜だからそう遠くまでは見渡せないかもしれないが、夜風に当たって落ち着く事が出来そうな場所を探す。
 潮風、遮られない空と海、見渡せる景色――少ししてから、とある場所が思い浮かんだ。
「……あのへんでいいかな」
 進もうとしていた方向とは逆に歩き始める。宿屋は遅くまで開いていると聞いたから、すぐに向かわなくても大丈夫だろう。
 巡回騎士や市民とすれ違いつつ、目的の場所を目指す。食材の入った籠を提げて家に入って行く者、子どもの手を引いて歩いて行く者、また明日、と言い合って別れる者――星々が輝き始めた夜空の下、アルタゴ市は静かに、一日の終わりへと向かっている。
 そんな街の中心を少し離れてから数分もしないうちに、寄ろうと思った高台が見えてくる――が、そこへ続く階段に一歩踏み出して、足を止める。
 小さな先客が居たからだ。
「マヤ?」
 夜風に揺れる黄色いリボンに、足元に置かれた花の籠。後ろ姿でも見間違えるはずがない。
 呼んだつもり、ではなかった為、マヤには聞こえていないようだ。彼女は高台の縁に身を預けて、じっと海のほうを見つめ続けていた。
 こんな時間にどうしたのだろう。ティアとの思い出が詰まったあの家で暮らしていく事を望んだマヤは、暗くなると旧市街へと戻っていると聞いた。落とし物をしてしまって探している、といった様子でもなさそうだ。
 放っておくわけにはいかず、階段を静かに上がって、声を掛ける事にした。
「マヤ」
 夜の海に囲まれた、海神グラッテオスの像。その下には、竜騎士団の軍港がある。
 それらを見ながらマヤが何を想っていたのかは、想像が出来そうで出来ない。
「……あ」
 僕に気付いて振り返ったマヤは、口をぱくぱくと何度か動かした。
「アドル、おにーちゃん」
「何を見ていたんだい?」
「……あれ……」
 マヤの横に並んで、彼女が指す先を見る。そこには、海に浮いている竜騎士団の軍船があった。夜間の巡回から戻って来たものが、吸い込まれるようにして入港してくるのが見える。
「船、大きいね」
「ん、おっきいね」
「そうだ……せっかくだから、描いておこう」
 持参したペンと手帳を取り出す。昼間の軍港は既に描いてあったが、夜のものがあってもいいだろう。その下にはちょうど、描けといわんばかりに空白がある――ここを空けておいたのは僕自身、なのだが。
「絵、かくの?」
 背伸びしてきたマヤは、興味があるようだ。
 屈んで、終わりが近いそれを適当に開き、絵を描いた部分を彼女に見せる。
「冒険の、日誌を作っていてね。後で、こんなものがあったなぁ、って思い出す為に描いているんだよ」
「わぁ……これ、なに? かわいいね」
「セグラムの里で飼われていた“ピッカード”って動物だよ。マヤは、ピッカードを見た事はないのかな」
「まだない……」
「そうか。でも、これから見る機会があると思うよ。セグラムの人が、アルタゴ市にもピッカードを連れて来たい、って言っていたから」
「ピッカード……楽しみ!」
 笑うマヤ。一人で海を見ていた時は、どう声を掛けるべきか少し迷ってしまったが、笑顔が見られてほっとした。とはいえ、どこか寂しげな様子である事には変わりないが――無理もない。異変収束時にマヤが失ったものは、あまりにも大きすぎる。
 マヤがティアと出会ったのは三年ほど前だと言うが、二人は実の姉妹のように仲が良く、周囲からも見守られていたそうだ。一度親を亡くしているマヤにとって、ティアとの別れがどれほど辛いものか――僕には、それを推し量る事は出来ない。
 それに、ティアだけではない。同様に居なくなってしまったサイアスは、巡回の途中に時々、旧市街に立ち寄っていたと聞いた。きっと、二人のところを訪れて、穏やかな暮らしを見守っていたのだろう。僕がその様子を直接見る事はなかったが、断片的な話からそう窺い知る事は出来る。何より、彼自身がああ言っていたのだ。あの言葉に、嘘偽りがあるとは思えなかった。
「アドルおにーちゃん」
「ん?」
 今度はマヤが屈んで、僕の手帳を指す。
「わたしも、絵、かいていい?」
「僕の手帳に、って事かな?」
「……ダメ?」
 紙が手に入らない、というわけではないだろう。それでも、僕の手帳に描きたいという事は、マヤなりに何か考えている事があるのかもしれない。
「駄目、なんて言うわけないよ。僕達はまだ、アルタゴに居るから……描き終わったら、教えてもらえるかい?」
「うん!」
 手帳を広げて、何も描いていない白紙のページを丁寧に切り離す。紙を受け取ったマヤは嬉しそうに笑った。画材は家にあるようで、描き終わり次第、持ってきてくれるという。どんな絵を描いてくれるのだろう。
 それからしばらくは、海を眺めつつ、僕とマヤは一緒に軍船を描いたりした。

 ◆

 復興は少しずつ進み、広場には出店の姿がちらほらと見られるようになった。こんな状況だからこそ、というのもあるのかもしれない。各里の名物が揃っており、復興作業の合間に人々が立ち寄ったり、子ども達が笑顔で駆け寄ったりと、次第に活気も戻って来ていた。
 宿屋前の小さな広場にも、いつの間にか竜車が停まるようになっていた。崩落した街道の整備が順調なようで、遠方から物資の支援で訪れた商人は、復興の早さに驚いたという。各里の戦士や、人々が力を合わせている結果なのだろう。
 書き進めた日誌を閉じて、窓の外に広がるメドー海を見る。竜騎士団の軍船が、夕暮れの海の水面を滑るように航行しているのが目に入った。
『こちらは部隊の再編成が終わったところだ……明日から、市街の巡回も再開する。おぬしらには……世話になってしまっているようだな』
『僕達も、アルタゴの人達には色々と助けてもらいましたから。それと……ドライゼンさん、傷はもう大丈夫なんですか?』
『……いつまでも、立ち止まってはいられまい』
 竜騎士団も、決して浅くはない傷を負った。千竜長を務めていたサイアスが居なくなり、その彼によって、公宮守護を任命されるほど優秀だった竜騎士が何名も殺され――その際にドライゼン将軍も重傷を負い、幸い命に別状はなかったが、職務に復帰出来るかどうか、というところを彷徨っていたほどだ。心身共に強い人物なのだと再認識する。
「? 誰か来たみたいだな」
 軍船を見送った直後、入り口の扉が数回軽く叩かれた。すぐ近くのベッドに腰掛けていたドギが、来訪者を出迎えるべく立ち上がる。
「お、マヤじゃねえか。どうしたんだ?」
「えっと。二人におとどけもの、です」
 顔を向けると、ドギが手招きする。
「アドル、マヤが来たぜ。お届け物だとよ」
「お届け物……あ、もしかして」
 思い当たるものは一つだけだった。それに、こちらを向いているマヤは、手に見覚えのある紙を持っている。間違いなさそうだ。
「やあ、マヤ。描けたのかい?」
「うん」
 屈んで、差し出されたそれを受け取る。そっと広げるとそこには、花畑の中で笑い合っている二人の少女が描かれていた。
「これは……マヤと、ティアと……」
 横に描かれた籠には、花やハーブと思われるものが入っている。時々、アルタゴ市の外に花などを摘みに行っている、とは聞いていたが、その時の様子を描いたのだろうか。
 そして、少しだけ離れた位置で、二人を見守るようにして立っているのは。
「こっちは……サイアスか」
「わかる……?」
 きっとサイアスは、こうしてティアとマヤを見守っている事が多かった、のだろう。すべて推測にはなってしまうが。
「分かったぜ。特徴を掴むのが上手いんだな、マヤは」
 ドギがそう言って笑いかけると、マヤも笑う――が、数秒後には俯いてしまった。
「わすれ、ないで……」
「……?」
 受け取った絵を机に置いて、再びマヤの前に屈む。すると、ぽたり、と雫が部屋の床に落ちた。
 顔を上げたマヤは、目元を拭う。それでも、彼女の頬を伝うものは止まらない。
「……アドルおにーちゃん、ドギおにーちゃん……。わすれないで……っ、おねーちゃんたちのこと……!」
 大切な姉であるティアを目の前で失い、その後、親しくしていたサイアスも居なくなってしまった事を知ったマヤ。直後は落ち込んでしまっていたが、ティアが言い残した言葉を思い出したのだろう、翌日以降は少しずつ笑顔を見せるようになっていた。
 けれど、大人だって、大切な人との別れは心に深い傷を残す事もある。あれから一週間も経っていない――すぐに、癒えるはずがないのだ。
「大丈夫。ずっと、覚えているよ」
 それに、居なくなってしまっても、誰かが覚えていれば、その人の中で生きているのだ。
 あの時のティアと同じようにマヤをそっと抱き締めてやり、背中を軽く叩く。
「だな、忘れるわけがねえ。あんなに良い絵もあるんだ」
 ドギも隣に屈む。マヤの黄色いリボンが緩んでいるのに気付いたのか、手を伸ばして結び直してあげていた。
「っ……あり、がとう。……あのね……わたし、がんばるから。アルタゴ、おねーちゃんがすきだった花で、いっぱいにするから……」
「きっと、綺麗だろうね。僕も見てみたいな」
「うん。……そうしたら、また、アルタゴにきてくれる?」
「もちろん」
 マヤが、もう一度目元を拭った。まだ涙は拭いきれていないが、ありがとう、と再び言う代わりのように、彼女は笑ってみせる。
「へへ……その時には、俺達もたくさん土産話を用意しないとな、アドル」
「ああ。そうだな」
 その時、開きっぱなしにしていた窓から、小さな何かが風に乗って飛んできた。どこから飛んできたのか、と考える前にそれを手に取る。
「……!」
 見覚えのある白い花びらは、掌の上で、静かに風に揺れている。
 思わず窓の外を見遣るが――そこには、夕暮れの空が広がっているだけだった。



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