少女の回想
 少女――マヤ、という名を持つ彼女は、見知らぬ土地をひとりで彷徨っていた。
「……うぅ……」
 強い日差しと風が、容赦なく幼い彼女の体力を奪っていく。遠くに街が見えるが、あそこまで辿り着けるのかどうか――意識が霞んでいく中、マヤは気力を振り絞って歩き続けていた。
 五歳になったばかりの彼女は、戦火の中で身寄りを失った子どもだった。
 アルタゴ公国とロムン帝国の間で続けられている紛争は、多くの命を奪い、多くのものを破壊してしまっていたが、五年以上決着がつかずにいた。それによって生まれてしまった戦災孤児も少なくはない。保護される子も中には居るものの、マヤはそうなる事はなかった。
「……」
 マヤが最後に水を飲んだのは、どれほど前だっただろう。徐々に呼吸が浅くなり、体力も限界に近付いていた。それでも、生きたい、という強い想いが、彼女を突き動かしていた。
『お隣さんと一緒に……ここから離れるんだ……。向こうに、少し遠いが……大きな街がある。きっと、誰かが、お前を助けてくれるから……』
 逃げる時間も与えず、燃え盛る町。崩落する建物。覆い被さるようにして、マヤを守った両親――小さな町を巻き込んだ戦火は、彼女をひとりぼっちにしてしまった。途中までは町から連れ出してくれた人と一緒だったが、数日前にはぐれてしまい、それからはずっとひとりだ。
 幼い故に、状況をはっきりとは理解出来ていなかったが、両親とはもう会えない事は分かっていた。泣きたくても、流す涙すら枯れてしまったような状態で、彼女はただ歩き続けているのだ。

「すみません、止めてください!」

 マヤの少し後ろで、一台の竜車が止まる。多くの物資を積んだ荷台から降りて来たのは、青い髪の少女だった。
 今のご時世、このような場所を一人で歩いている幼い子どもが心配になったのだろう。マヤに駆け寄ってきた彼女は、心配そうな表情を浮かべている。
「あなた、こんなところでどうしたの……? それに、ひどい怪我……」
「……うー……」
「もしかして、紛争で……?」
「………………」
 少女が言った、フンソウ、という言葉の意味は、マヤには分かるようで分からなかった。
 人に会えて安心したのか、マヤの体から力が抜けていく。地面にぺたりと座り込むと、慌てて少女がマヤを支えた。
「! だ、大丈夫……じゃない、よね。……あのっ、この子もアルタゴ市まで一緒に――」
 彼女に背負われた後、マヤは眠るように意識を落とした。

 ◆

 優しい、良い匂いがして、マヤは目を覚ました。
「気が付いた、んだね」
「……」
「ごめんね、勝手に連れて来てしまって……あなたの事、放っておけなかったから。でも、怪我の治りが早くて良かった。どこか、痛むところはない?」
「…………」
 真っ先に彼女の目に入ったのは、どこかの家の天井だった。すぐ横には、先ほど竜車から降りて来て、マヤに声を掛けてきた少女が居る。
 マヤが頷くと、ほっとしたような様子で、その少女はベッド脇に水の入ったコップを置いた。
「私はティア、って言うんだ。あなたのお名前は?」
「あー……」
「……?」
「……ううー」
 マヤは自分の名前を告げようとするが、喉で言葉が引っ掛かって、思うように発声する事が出来ない。戦火が彼女から奪ったのは、故郷や家族だけではなかったのだ。
 毛布を握り締め、僅かに俯いてしまったマヤ。ティアが首を傾げていると、家の扉が数回軽く叩かれる。
 それだけで来訪者が誰だか分かったのか、どうぞ、と彼女が一言返した。

「ティア。戻っていたんだな」

 静かに開かれた扉。入って来たのは、ティアよりも年上に見える銀髪の男だった。
 父、というには若すぎるし、兄にしては似ていない。ティアとはどういった関係なのか――マヤはぼうっと彼の顔を見つめる。
「はい、竜車で先ほど。サイアスさん、今日はこちらに来ていたんですね」
「今日は、巡回をしていて――……? 君は……」
 ベッドの上で毛布を握るマヤに気付いて、サイアスは彼女の前に屈んだ。
「さっき、街道を一人で歩いているのを見付けたんです。近くに家族も居なさそうで、怪我もしていて……もしかして、と思って」
「戦災孤児、の可能性があると」
「……きっとそうなのかな、って。最近、少なくないようですし……」
 ティアは悲しげに目を伏せる。
 そうだな、と短く呟いて、サイアスはマヤに向き直った。
「君は、どこから来たんだ? ……お父さんやお母さんは、どこかに居るのか」
 見慣れない銀髪を珍しく感じたのか、マヤが手を伸ばしそっと掴む。サイアスは特に気にしていないのか、振り払ったり身を引いたりはせずに、好きなようにさせていた。
 彼の問いかけに、マヤは首を左右に振ってから、空いているほうの手で宙を指す。
「……ん」
「身寄りは……そうか。そして、その方角は……半月ほど前、紛争の影響で焼け落ちた町が沿岸部にある、とは聞いているが」
「それに巻き込まれたんでしょうか……?」
「……分からん。が、その可能性はあるだろうな」
 サイアスは真面目に返しているが、マヤに前髪をやんわりと掴まれたままだ。そのまま軽く引っ張ったり、ねじったり――癖が付きにくいのか、まだ絡まってはいないようだが、マヤは楽しそうに彼の銀髪を堪能している。
 マヤが引っ張った銀髪は、当然だが、手を離すとすぐに元の位置に戻っていく。けれど、何度もそれを繰り返しているうちに、髪の先端がくるりと丸まってくる。
 マヤの境遇を察してティアは心を痛めていた様子だったが、目の前で繰り広げられるそれに、少しだけ表情が和らいだ。
「……ふふっ」
 しばらく二人を見ていたティアは、やがて小さく笑う。
「ティア?」
「! す、すみません。ちょっと可笑しくて、つい」
「まあ、笑ってもらえるならそれでもいいさ。ところで……この子、どうするつもりなんだ?」
「え……」
「こんな時勢だ。アルタゴ市内にも、近郊にも孤児院と呼べる施設はない。このまま旧市街で面倒を見るか……或いは、引き取ってくれる者を探すなら、俺も手伝うが……」
 ティアと話しているサイアスは、今度は後ろで一つに括った髪をマヤにふさふさといじられている。柔らかい髪質で触れているのが面白いのか、マヤは笑顔のままだ。
「……」
「ああ……別に今、この場で決める必要はない。数日間この子の様子を見て、どうするか判断したほうがいいだろうからな」
 サイアスが立ち上がり、マヤはやや名残惜しそうに彼の髪を見つめる。その視線に気付いて、彼は思わず苦笑を浮かべた。
「元気なのは良い事だな。……そういえば聞き損ねていたが、この子の名は分かるのか?」
「それが……分からないんです。このくらいの年齢の子なら、自分の名前も分かっていそうなんですけど……」
「……」
「さっきも、聞いてはみたんです。でも、上手く答えられないみたいで」
「この子が戦災孤児である可能性を踏まえると、身寄りを亡くした時に言葉を失った可能性もあるか……」
「…………」
 二人の会話に耳を傾けていたマヤは、彼らが何を話しているのかは理解していた。
 マヤは考える。自分の名前を伝えるには、どうしたらいいか。感情は身振り手振りで伝える事が可能だが、名前となるとそうもいかない。
 方法を考えていると、ふと、マヤの脳裏に母親との思い出が過る。
『マヤ。ほら、あなたの名前をここに書いておいたから……失くさないようにね』
 散歩中に拾った石や木の実をよく入れていた、お気に入りの小さな小物入れ。その端に赤のインクで書いてもらった、自分の名前。
「……!」
 マヤは懐を探る。家にあったものはすべて焼けてしまい、一つも持ち出せていなかったが、あの小物入れは大切に持っていたのを思い出したからだ。
 すぐに手に当たる布の感触。マヤが引っ張り出すと、少し焦げてしまってはいたものの、まだ小物入れとして活用出来そうな袋が出てくる。
「ん……」
 幸い、名前の部分は変色していない。少し滲んでいるが、読み取れないほどではなかった。
 これなら、と、マヤはサイアスの服の裾を引っ張り、振り向いた彼にそれを差し出す。
「? どうしたんだ……これは、袋か?」
「あ……端に、何か書いてあるみたいです」
 サイアスが、受け取ったそれを丁寧に広げる。覗き込んだティアは、その端に書かれた赤い文字に気が付いたようだ。
「…………マ、ヤ……マヤ。もしかして、それがあなたの名前なの?」
「んっ!」
 そうだよ、と告げる代わりに、元気よく頷くマヤ。
「どうにか伝えようとしてくれたんだな」
「名前が書いてあるものがあってよかったです。……きっと、大事なものなんだよね。見せてくれてありがとう」
 ティアが穏やかに笑んで、小物入れをマヤへと手渡す。誰かに名前を呼んでもらうのは久々のように感じて、マヤは安心感に近いものを覚えた。
 それを見ていたサイアスは僅かに表情を緩めるが、何かに気が付いたように顔を上げる。
「……そろそろ巡回に戻るか。マヤの事は、一応、決まったら連絡してくれ」
「はい。一週間以内には……」
 巡回の間に立ち寄ったという彼は、そう長くは居られないらしい。携えていた剣の留め具を一度確認して、サイアスは外へと向かおうとする。
「ティア」
 彼は扉の取っ手に手を掛けたが、ぴたりと動きを止めて振り返った。
「どうしたんですか?」
「……。鏡を貸してくれないか」

 ◆

 ティアの朝は早い。太陽が顔を出して一時間も経たないうちから、彼女の一日は始まっている。
「あうー……」
 朝食の用意をするより先に、手車に採取してきたハーブや花を積みながら、丁寧に一つ一つ状態を見る。頼まれているという薬も鞄に詰めて、忘れ物がないかを慎重に確認する。
 そんなティアの視界の隅では、黄色いリボンがひょっこりと揺れていた。
「マ、マヤ……? これが気になるの?」
 結んでもらった黄色いリボン。それを再び揺らして、マヤは頷く。
 彼女が使っている机に張り付くようにして、マヤはじっと並べられたハーブや花を見つめていた。幼い彼女には、どれがどういったものなのか、判別はつかない。故郷に居た頃に拾い集めていた木の実も、特に種類の見分けはついていなかった。なんとなく集めたくなる年頃、だったのだ。
 ティアの並べ方が丁寧なのもあり、マヤはつい見入ってしまう。小ぶりなハーブから、やや葉の大きいもの、その横には色とりどりの花があり――それらを順に辿っていく中で、マヤはとある白い花に目を留めた。
「その花、綺麗でしょう? セレン花、って名前なの」
「ん」
「今日は広場までこの花やハーブを売りに行くんだけど、一緒に来る? まだあなたには、アルタゴ市を案内していなかったし……横で見ているだけでも、大丈夫だから」
「……!」
 外へ連れて行ってもらえる、という嬉しさもあり、マヤはその場で小さく跳ねる。同時に、これらを売るというティアの事を手伝いたい、とも思った。
 手車に積まれている花を見て、マヤは室内をきょろきょろと見回す。不思議そうな表情を浮かべるティアの後ろに、丁度良さそうな大きさの籠があるのを見付けて、迷わず手に取った。
 ティアの前に駆け戻って、マヤは籠を腕に提げて見せる。それだけだとはっきりと意図が伝わらなかったのか、彼女は首を傾げたままだった。
「……」
 マヤが、机に置かれていた花を幾つか籠の中に入れて、そのうちの一つをそっと手に取った。そしてそのまま、ティアに向けて一輪、花を差し出す。
「もしかして、この花を売るのを手伝いたい、ってこと?」
「ん!」
「……そんな事まで、考えてくれたんだね。せっかくだし……それなら、お願いしようかしら」
「えへへ……」
 笑い合うティアとマヤ。穏やかな時間は、ゆっくりと過ぎていく。
 こうして“小さなお花屋さん”となったマヤは、ティアと共に広場へ初めて出かける事になった。


 諸々の準備を終えて、マヤはティアと一緒に、手車を押しながら広場へと向かう。太陽が昇り、人の往来は増えてきている時間帯だったが、そこに長居しようとする者は少ない。足早に通り過ぎていったり、用を済ませたらすぐにどこかへ行ってしまうような者ばかりだった。
「今日は、人がいつもより少ないね……。日差しも強いし、夕方前には家に戻ろっか」
 こくりと頷いて、マヤは花が入った籠を手に持つ。太陽の暑さにも負けずに、彼女はにこにこと笑ってその場でくるりと回ってみせた。花を売るなら任せて欲しい、と言う代わりに。
「元気いっぱい、だね」
 その様子を見て微笑んだティア。まるで、妹をあたたかく見守る姉のようだ。
 彼女は少し考え込むような仕草をした後、マヤのほうへと一歩踏み出す。
「ねえ、マヤ」
 ティアはマヤの前に屈み、目線を合わせた。
「三日前に、サイアスさんとも話したんだけど……。……このまま、旧市街で……私の家で、一緒に暮らさない?」
 マヤはティアから、アルタゴ公国の現状について大まかに聞いていた。幼いが故に難しい事は分からなかったが、海の向こうの大きな国と戦争をしている事、今は一旦激しい戦いは収まっているとはいえ、またいつ始まるか分からない状態だという事――そして、旧市街には、自分と同じように、紛争で身寄りを失ってしまった子どもが何人も暮らしている、という事は理解していた。
「決めるのはマヤ自身だから、もちろん、強制はしないよ。あなたを、家族として迎えてくれる人も居るかもしれない……」
 ティアは少しだけ俯く。
「でも、私はあなたと居ると――」
「んっ」
 籠を地面に置いて、マヤはティアの両手を握った。
 そのまま真っ直ぐに、目を見つめる。
「?」
「……ん!」
 嬉しそうに笑ったマヤ。言葉がなくとも、ティアがそう提案してくれたのが嬉しかったのだ、という事を伝えようとするかのように、大きく頷いた。
「…………マヤ……」
 マヤの想いが伝わったのか、ティアも笑い返した。
「ありがとう――これから、よろしくね。マヤ」




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