三人の、さいごの願い(加筆修正版) | |
※昨日イースワンライに投稿した小説を大幅に加筆修正したものになります(2.5倍くらいの長さになってしまいました) ああ、死とはこういうものなのか。 この世に生を受けてから二十九年、長いようで短いものだった、と思う。 「サイアス……」 遠のく意識。自分の名を呟くようにして呼んだのは誰の声だったか。判別する事は出来そうにない。 悔いはない。心残りも。双極の騎士として守るべき存在を最後まで守れず、ティアを残して先に逝く事になってしまったのはそれに該当するとも言える、が、それが澱みの如く心の中に残っているように思えないのは、何故なのか。自分の中で答えを探しても、霞むばかりで掴めそうになかった。 ただ、一つだけ――叶えられない願いが、今になって、心の隅に生まれてしまった。正確には、願いとして認識した、と言えるだろう。 ――あの二人の、穏やかで優しい時間……できるものなら守ってやりたかったが……。 どれだけ剣技に秀でていようと、長を守るという役割を果たそうと、彼女が近くに居ようと、叶える事の出来ないものがある。それに気が付いたのは、いつの事だったか。 それでも当然、生まれた時から持っていた使命を放棄する選択肢はない。己の手を血で汚してでも、双極の騎士が守るのはイスカの長だ。儀式を阻み抗おうとする者が居るのならば、その前に立ち塞がるだけの事。そこには迷いはなく、躊躇いもない。 『サイアスさん。戻っていたんですね』 『その籠は?』 『マヤが、花を売るのを手伝いたいみたいなんです。あの子が、あんなに強く自分の気持ちを伝えてきたのは初めてで…………良かった』 大切な存在、マヤと出会い、よく笑うようになったティア。重く孤独な使命を抱え、それから逃げる事を許されなかった彼女が笑顔で居られたその時間は、自分には守ってやれなかったものだった。 『僕は戦うよ。約束もしたからね。だから……必ず、届けてみせる』 彼は――アドル=クリスティンは、真っ直ぐにそう言った。強く握り締めていた手の中には、幾つもの想いが籠っているように思えた。 アルタゴの理の前では敗北が決まっている、竜の戦士の宿命を背負った剣士は、仲間達と共に魂の井戸の底へ向かった。その背を、直接見届ける事は出来なかったが。 断ち切れるはずのない、誰にも覆しようのない運命を前に、彼らはどうするのか。終焉の巫女であるティアに対して、どう答えを出すのか。自分が掴む事の叶わなかったものを、見出せるのか。 ティアが勝てば、終焉は成る。アドル達が勝てば、終焉は止まるだろう。だが、結末が後者に転んでも、アルタゴの理に近い存在であるティアは、おそらく――。 そこで、思考が溶けるようにして揺らぐ。井戸の底へ魂が向かっている証拠だった。 ◆ 風が吹く。花の匂いが漂ってくる。 「……?」 目を開くと、どこまでも続く草原が目に入る。頭上には、晴れとも曇りとも言い難い空がある。ひやりとした感覚に視線を落とすと、足元を流れるのは澄んだ水――どうやら自分は、浅い川の中に立っているようだった。 ここはどこなのか。魂の井戸の底は、このような景色とは程遠いはずだ。 幾つかの可能性を脳裏に浮かべていると、反対側に広がっていた白い花畑の中で、見覚えのある黄色いリボンが揺れた。 見間違えるはずがない。あれは、紛れもなく。 「マヤ?」 呼ぶ、という区分に入るほどの声量ではなかったが、彼女には届いたらしい。しゃがんでいた姿勢から立ち上がり、少し離れた場所に居た少女――マヤは、周囲を少しだけ見回す。 「うー……? ……あ!」 何故彼女とこんな場所で会うのか、疑問を抱いたところで答え合わせは叶わない。 見知った人間を見付けたからか、安心したような表情でマヤが駆け寄ってくる。が、彼女の足は、花畑の端でぴたりと止まってしまった。 「……っ」 自身の足元を見てから、困ったような視線を向けてくるマヤ。その花畑から出られない、といったところか。 それならば、と歩いて行くと、逆にこちらは川から出られなかった。見えない何かの境界線があるらしく、越えようとすれば、引き戻すような強い力が足にかかる。互いに、どうしても踏み入る事は許されないようだ。 それが一体何なのか――なんとなく、察しがついた。同時に、マヤがこちら側へ来られない事に安堵してしまう。 「俺の声が聞こえるな?」 屈んで小さな肩に手を置くと、こくりとマヤが頷いた。 「…………」 「んー?」 声は届く事を再度確認したところで、続けようとした言葉が詰まる。ひょっこりと覗き込んできたマヤは、どうしたの、とでも言うように大人しく待ってくれていた。というより、何を言われるのか気になって仕方がない、といった様子だ。 紛争がきっかけか、言葉を失ったマヤ。いつも身振り手振りで伝えたい事を表現しているが、元気で、優しい子なのはよく知っている。そんなマヤだからこそ、ティアは救われていたのだ。 ――マヤに、伝えても良いものか。まだここに残ってしまっているさいごの“願い”を。 どう決着がついても、ティアはおそらく消滅の運命にある。彼女の想いを守ってやる事は出来なかったが、まだ、してやれる事はあるのではないか。捨てきれなかった、心の片隅に置いていたものが芽吹いたような感覚を、無駄にはしたくないと思ってしまった。 「……」 言葉を探していると、マヤが提げていた小さな籠の中に手を入れた。 数秒後、そっと青色の花が手渡される。その色は、海とも空とも違う――ずっと見守ってきた、あの色だった。 「青い花……?」 「ん」 「……。もう立派な、一人前の花売りだな。こんなに綺麗な花を見付けたのか」 リボンを崩さないように頭を撫でてやると、褒められたのが嬉しかったのか、マヤは笑う。無邪気な笑顔に救われていたのは、ティアだけではなかったのかもしれない。 この子になら、託しても大丈夫なのではないか――その笑顔を見ていてようやく、自分の中で言葉が形になってくる。 「…………今更、俺にはこんな事を願う資格はないだろう。だが」 「?」 言葉を切る。 少し間を空けて、不思議そうな面持ちのマヤと、しっかりと目を合わせた。 「マヤ。あいつに……ティアに、会いに行ってやってくれないか」 無茶で、無謀だとは自分が一番理解している。ティアが居るのは魂の井戸の底、子どもが一人で向かえるような場所ではない。屈強な竜騎士が付いていたとしても、辿り着ける確率は極めて低いだろう。 それでも、僅かな可能性を信じ、願わずにはいられなかった。 『私は、アドルさん達との戦いの勝敗に関係なく消える身。……心残りはありません』 魂の井戸で儀式を始める前、今にも消え入りそうな笑顔を浮かべながら、そう言ったティア。優しい彼女が吐いた嘘くらい、見抜く事は容易い。十八年の長い付き合いなのだ。分からないはずがなかった。 だが、自分がその想いを汲んで剣を振るう事は叶わない――叶わなかった。だからこそ、今頃、あの地で剣を振るっているであろう“彼”ならば、と思ってしまった。 「ん!」 何を当たり前の事を言っているんだ、と言わんばかりに、マヤは力強く頷く。 「……そう、だったな。俺一人の願いではない、か」 「……?」 「信じているぞ。その想いがあれば、必ずティアに会えるはずだ」 立っている世界から色が消えていく。マヤの足元で揺れていた花は白一色になり、空は黒と灰が入り混じる。手元にある花以外から、色彩が失われていく。 そろそろ、時間切れのようだ。 「マヤ」 立ち上がり、彼女に背を向ける。 霞み始めた景色を目に映しながら、一歩、川の中へと踏み出すが、冷たさは既に感じない。 「ありがとう――俺からは、それだけ伝えておこう」 最初に言いかけた言葉は、そっと飲み込んでおいた。それは、ティアから直接マヤへ伝えるべきものだからだ。今ここで、自分が伝えるべき事ではない。 マヤの短い返答が耳に届く。雑音が混じり始めた空間の中でも、それははっきりと聞き取る事が出来た。 ――願いは、叶うだろうか。 自分一人のものではないそれが、叶うかどうかは分からない。見届ける事も出来ない。それでも心の底から信じられた。さいごの願いを叶えるのは、汲み取るのは、神ではないからこそなのだろうか。 風に乗ってどこからか飛んできた白い花びらは、やがて灰色の空へと消えていった。 マヤから受け取った花は、まだ、青い色を保ってくれている。背後に気配は感じられない。彼女はきっと、目覚めたのだろう。 自分はこれからどうなるのか。跡形もなく消えるか、或いは、永遠に何かに苦しめられる事になるのか――犯した罪の重さを踏まえれば、後者の可能性が高そうだ。当然の報いだろう。そうなったとしても、正面から受け入れるだけだった。 雲が流れなくなった白黒の空間。重い足を動かして、川の反対へ渡る。花が一つもない、ただの草原に腰を下ろす。静かにその時を待つのも、悪くはない。 妙に重くなる瞼。近くにあった樹木に背を預けて、そのまま目を閉じる。 そうしてから、どれくらいの時間が流れただろう。 「サイアス、さん」 聞き慣れた声がする。遠くからではなく、すぐそばから。 沈んでいた意識が引き戻され、あれほど重かった瞼を持ち上げる事が出来る――そうして開けた視界の中で、マヤから受け取った花と同じ色の髪が揺れた。 「ティア?」 名を呼ばれて、彼女はあの嘘を吐いた時と同じような表情を浮かべた。 「……はい」 月の民の長、終焉の巫女として振舞っていた時の紋様は、ティアから消えていた。 だが、彼女が今、境界線を越えてここにいるという事は。 「終わった、んだな」 それは、アルタゴに終焉が訪れたかどうかの確認ではない。 「…………」 静かに頷いて、ティアは隣に腰掛ける。灰色の空は見ずに、俯いたまま、色のない草原を見つめていた。 覆らなかった消滅。理の鎖、宿命、運命は、やはりティアを離さずこちらへ連れて来てしまった。だが、何も残せず、後悔や無念といった想いの中で消えたわけではないのだろう。それは、ティアの表情を見れば分かる。 「マヤには、会えたか?」 「っ……消える間際に、会えました」 「……。それを聞いて安心した」 「…………そうしたら、あの子、言葉を……。おねーちゃん、いかないで、って……」 彼女の声は微かに震えている。 「マヤを残してしまう事になるのは、心が痛みました……でも、あの子は、一人ぼっちじゃないから……。それと、こんな私の心残りが、願いが……最後に、叶うなんて。決して、許されない事をしたのに」 マヤに願いを託した時も考えた事だったが、仮に誰かがついていたとしても、魂の井戸の底まで彼女が来たとは考え難い。ティアが外まで出る事が出来たのだろう。 そうだとすると、その時、誰がティアに“帰ろう”と言い、手を引いてくれたのかは――考えるまでもない。彼と、離れているアルタゴ市からマヤを連れて来たであろう誰かが居なければ、叶う事はなかった。 「会いたい、という願いがあったのは、マヤも同じはずだ。それが通じ合った――そういう事だと思うが」 別れる直前に見た、マヤの力強い反応と笑顔が過る。血は繋がっていないとはいえ、二人の絆の強さは血縁関係のある家族と同じかそれ以上だと、再認識せざるを得ない。 「はい。……だけど……私とあの子だけが、あの時間を手繰り寄せたわけではないんだ……と思います」 「……?」 「アドルさん達は……私に“帰ろう”と言ってくれました。ラウドさんは、アルタゴ市からマヤを連れて来てくれて」 「ラウドが……?」 ティアが零したのは少々意外な名だったが、思えば、納得もいく。あのような態度を取る男ではあったものの、根が悪いわけではないのだ。 「それと……アドルさんが手を引いてくれた時、そこにサイアスさんも居るような気がしてしまったんです」 「……!」 「私の思い込み、かもしれません……。けど、気のせいではなかったと思っています」 勝手にそう捉えてしまってすみません、と続けてから、ティアは笑った。 どうやら、彼はあの場所に置き去りにしてしまったものを拾い上げてくれたようだ。 「そう思うのなら、否定する必要はないな」 「……サイアスさんは、やっぱり優しいですね」 「何を言うかと思えば……人の事を言えないんじゃないのか」 「ふふ、そうでしょうか。……なんだか久しぶり、ですね。こうして話すのは」 「久しぶり、か。言われてみれば、確かにな」 双極の騎士と終焉の巫女、としてではなく、ただの“馴染み”としてのやり取り。つい最近まで交わしていたような、遠い昔に置いてきてしまったようなそれは、心地よさすら感じられる。失った時間が戻ってきたようにも思えた。 再び草原に視線を落とすティア。色彩のない草は、風に揺れる事もない。ある意味珍しい光景だが、寂しい景色でもあった。 何かを押し込め、気を紛らわすかのように、それを眺めていた彼女へ声を掛ける。 「ティア。我慢しなくていい」 いつまでここに居られるのかは分からなかったが、その前に、一言彼女に言っておきたい事があった。 彼女は穏やかに笑っていたが、その端に滲んでいるものは、隠しきれていないのだ。 「……え」 「ここには俺しかいないだろう」 ティアの瞳は揺れている。マヤと出会う前、自身の宿命の重さに押し潰されそうになっていた事があったが、大丈夫、と痛々しい笑顔でごまかしていたのを思い出してしまった。 十一も年下の彼女が、その身に背負っていたものの重さは計り知れない。少しでも支えてやれれば、と思ったのは、双極の騎士としての使命があるから――という理由一つだけではなかった。 反対側に置いていた、マヤから受け取った花を手渡す。 「その、花は……」 「マヤから受け取ったものだ。……もう立派な一人前の花売りだな、と褒めたら、嬉しそうに笑っていた。あの子なら大丈夫だ――いつまでも、笑っていてくれる。ティアが信じているように、俺もそう信じている」 青い花を見つめるティア。どうしてここに、とは問われなかった。幾つもの感情が入り混じっているのか、彼女は顔を伏せてしまう。 小さく肩を震わせるティアは、ずっと堪えてきたのだろう。こんなところまできて、我慢する理由など一つもない。 一応、周囲を確認する。自分しか居ない、とは言ったが、ティアも年頃の娘だ。馴染みとはいえ、泣いている顔を見られるのは嫌かもしれない――それならば、取るべき行動は一つか。 そっと肩を叩く。胸なら貸すぞ、と敢えて言葉にはしなかったが、彼女は気付いてくれたようだった。 ティアをそのまま受け入れ、再び、樹木に背を預ける。 「……っ……マヤ……!」 辛くても、逃げる事は許されない。泣く事など出来ない。宿命を受け入れ、背負わなければいけない。 そうして幼い頃から自分を縛り続けてきたティアが最後に泣いたのは、一体いつの事なのか。近くに居た自分でさえも、それは知らない事だった。 ――泣く事が出来る場所になってやる事くらい、今だけは許されるだろうか。 それは、誰への問いかけでもなかった。 ←Back |