Re:Count
『一緒に過ごせたこと……楽しかった』

 別れの言葉は言わなかった。最期にそれが伝えられれば、十分だった。
 体の感覚が消えて、少し経った後。意識はまだ残っているが、周りは何も見えない。何もない。あの監獄よりも暗く冷たい空間の中に、マリウスは一人で立っていた。
「……」
 何かを喋ろうとしても、言葉が出ない。それを出そうとした口は動かせるものの、音として現れてくれなかった。
 彼は再び周囲を見回してみるが、何かが見付かる事はない。命の鼓動を失ったかのような冷たさを含む、どこまでも続く暗闇と音のない世界は、マリウスを黙って囲っていた。
 一歩踏み出す。足音はない。
 もう一歩、踏み出す。何も変わらない。
 このまま歩いて行ったら何があるのだろう。どこかへ辿り着く事は出来るのだろうか。そんな疑問が渦を巻きかけるが、マリウスはそれらを、頭を振って一旦追い払った。

 罰なのかもしれない。許される事ではないと分かっていながらも、確かに命を持って存在していたホムンクルス達を消滅させた事と、それから――。

 そうせざるを得なかったのだから理不尽だ、などとは彼は微塵も思わなかった。今のこの状況から助かりたい、とも考えなかった。造られた、存在してはならない身かつ、自ら望んであの結末を迎えたのだ。そして、消える間際にアドルと約束を交わし、願いを託す事が出来た。ただそれだけで、“マリウス”として生きたあまりにも短い人生にも意味があった、と思える気がしていた。
 彼がなんとなく自身の体を見下ろすと、アドルの剣に貫かれた胸元には、傷が残っていなかった。肉体は既に失われたからなのかもしれない。
 そのことに対して、僅かに寂しさに似た感情が沸き上がった事には、敢えて気付かなかったふりをしておいた。
『………――』
 そのうち、今ここにある意識すらも、消滅の奔流に飲まれて消え去るかもしれない。そうすれば、本当に、自分はどこにも居ない存在となる。
 彼がそんな事を考えていると、近いようで遠い場所から、何かが聞こえた。今にも消え入りそうなそれは、呼び声のようにも思えた。
「……?」
『――……』
 声として聞こえたわけではない。なんとも形容しがたいが、直接語り掛けてきているようなものだ。外からそれを認識したわけではなく、耳よりも心が捉えたと言ってもいい。
 呼ばれている気がするが、どうするか。得体の知れないものに近付く必要はない。だが、今の自分は、これ以上失うものなど何もない。悪質なものだったとしても、傷付いたところで、誰もいないこの場所で今度こそ消えるだけだ――という理由を、とりあえず浮かべておいた。

 ――何故だろう。単純に気になる、という事を差し引いても、無視してはいけない気がする。

 マリウスはその気配に向かって歩き出した。


【Re:Count】


 ああ、自分はきっと、変な夢を見ているんだ。
 彼がそう思えていたのは、少し前までだ。

 暗闇の中で小さな気配に触れた後、眩い光に視界が塗り潰されて、次に気が付いた時には見覚えのある床の上に転がっていた。
 妙に視線が低い。マリウスが自分の体を見てみると、何故か動物のようにふわふわしている。一体何の生き物なのか――培養槽に反射した自分の姿を見るまで、それが“聖獣ルー”のものであると気付かなかった。
 人間は、現実と夢を区別する為に自分の頬を抓る事がある、という話をふと思い出して、彼はとりあえず、頬を抓る代わりに尻尾を噛んでみる。
 しっかりと、痛かった。
 ――何が起こったんだ?
 徘徊している魔物から身を隠しつつ、どこにあるかも分からない出口を目指す中で、マリウスは考える。考えるが、消滅したはずの自分が、どうしてこの小さな生き物の姿になってしまったのかはまったく見当がつかない。思い当たるのはあの“気配”に触れた事くらいだが、そこから現状にどう繋がるのかが分からなかった。
 ルーの体は人間と比べると小さく、非力だ。けれど、素早く動く事は出来る。徘徊しているものから逃れる事は容易かった。
「とりあえず、今の状況を把握しないといけないな……」
 あの立ち合いからどれくらい経ったのか。黒幕はどうなったのか。今の自分の姿含めて気になる事ばかりだったが、ここに留まっていても仕方がない。
 マリウスが記憶を辿り、この研究棟の出口の場所を思い出したその時――視界の隅を、見覚えのある赤い色をした一匹のルーが横切った。
「……え?」
 珍しい赤毛だね、と伝えると、よく言われるよ、と返した“彼”の赤にそっくりの色。礼拝堂で出会った時から忘れられない、脳裏に焼き付いた鮮やかな赤。
 そのルーはやや覚束ない足取りで、冷え切った床を歩いていく。数秒後には曲がり角の向こうに消えてしまったが、見間違いではなかった。
「今のは……」
 話が聞けそうな存在にようやく出会えた、というよりも先に、そのルーが“彼”なのではないか、という思いがマリウスの中に沸き上がる。
 理由はマリウス自身にも分からない。あのルーが、人間であるはずの“彼”だという根拠などどこにもない。が、直感のようなものが、確かにそう告げたのだ。
 その後をすぐに追いかけて、再び赤が見えた直後、マリウスは思わず名前を呼ぶ。
「アドル!」
 呼ばれて振り返ったルーの瞳は、彼の――アドルの、あの黒く透き通った瞳とまったく同じだった。

 ◆

「よいしょ、っと……ここは、墓地かな」
「どうにか街に出られたみたいだね」
 以前研究棟から出た時の道は崩落して塞がれており、迂回してバルドゥークの街に辿り着いた時には太陽が真上にあった。
 隣で周囲を見回すアドルは、先陣を切って進んでくれたのもあり埃まみれだ。長らく使われていないであろう細い通路に頭から突っ込んだ際、蜘蛛の巣がくっ付いてしまったりもした。
 アドルの尻尾にそれが残っているのに気が付いて、マリウスは手を伸ばす。
「……」
 取り払った蜘蛛の糸が、風に乗って飛んでいく。それを目で追いながら、彼も周囲を確認した。
 静寂の空間。命なき者達が静かに眠る、バルドゥークの墓地。それらを、高い空から燦々と降り注ぐ、柔らかな光が照らしている。
 マリウスにとって、見覚えのある風景だった。少し前に“アドル”と脱獄した時も、この場所から街に出たのだ。
「さて、と。これからどうしようか」
「僕は仲間を探しに行こうと思う。あれから、どれくらい経ったのか分からないけど……街のどこかに居ると思うんだ」
「……。そうか、それなら僕も付き合うよ」
「いいのかい?」
「勿論。少し街を見て回りたいからね」
 その言葉は半分本当で、半分嘘だ。けれど、マリウスはそれ以上語らず、アドルも問う事はなく、分かった、とだけ返して歩き出した。


 バルドゥークの街は、最後に見た時と何も変わっていないように見える。ただ、なんとなく、街を覆っていた妙な気配が消え去った気がした。それが何なのかは、はっきりしなかったが。
 前を歩くアドルの背を一瞥してから、マリウスは地面に伸びる自身の影を見る。くっきりと、濃く地面に描かれたルー型の影は、当然彼に合わせて動く。
 ――制限は、かかっているのだろうか。
 彼は改めて思う。ホムンクルスとして造られた体だった時は、記憶が戻る事を見越していたかのように、自害出来ないよう制限が掛けられていたが今はどうなのだろう、と。
 アドルに続いて建物の隙間を進むマリウスの脳裏に、少し前の記憶が過る。
 それはアドルを監獄へ連れ戻した後――街へ戻る前に監獄の廃棄区画に入り、巡回用の絡繰人形を、一つ罠に嵌めて破壊した時の事だ。その場に落ちていた、絡繰人形が振るっていた鋭利な刃を見て、思い付いた事があった。
『……やっぱり、か。この命、そう簡単に捨てさせてはくれないみたいだ』
 拾い上げ、一部に誰かの深紅が付着した刃を、マリウスは自分の首の横に持っていく――が、勝手に腕に力が入り、数秒後には刃を放り捨ててしまった。
 音もなく刃が吸い込まれていった谷底へ踏み出そうとしても、足が止まる。端にぶら下がって数分が経過しても手はまったく疲労しないし、力を緩めようとしても離せない。自分のどこにこんな力があるのだろう、と思えるほどだった。
『自分で命を絶つ事は許されない。それなら……』
 浮かんだ考えという名の想い、自分では否定出来ない願いを、マリウスは一旦胸の奥にしまっておく。なんてひどい残酷な願いだろう、と自嘲気味にそう言う自分が居たものの、それは自分が自分である為に見出した光でもあり――
「マリウス?」
「!」
「ぼうっとしていたようだけど、大丈夫かい?」
 アドルに名を呼ばれて、マリウスはいつの間にか、自分が立ち止まってしまっていた事に気が付いた。
 顔を上げると、周囲は明るくもないが暗くもない。どうやら、通り抜けた建物の隙間の道は、貧民街に繋がっていたらしい。
「……大丈夫。少し、考えていた事があってね」
「考えていた事?」
「このまま人間に戻れなかったら、僕達はどうするべきだろうか――そんなところかな。君ならどうする?」
 咄嗟に取り繕った言葉ではあったが、そもそも“人間に戻る”という選択肢が存在しているかも怪しいと、マリウスは思っている。ホムンクルスとして消滅するも何故かルーの体に魂が入り、完全に消える事を免れた自分は、まず戻る事はない。そして目の前のアドルは、あの“アドル”とは別の存在――赤の王のように造られたと考えるのが妥当だろう、と。
 最初から人間としての体が存在していないとなれば、選べるものはたった一つだ。
「人間に戻れなかったら、か……」
「って……ごめん、変な事を言って。気にしないでくれ、探索を続け――」
 言葉を続けようとしたその時、ふわりとした何かが当たる。
「ん?」
「キュ」
 突然聞こえた、可愛らしい鳴き声。マリウスが振り返ると、一匹のピッカードが彼に擦り寄って来た。丸々としてはいるものの、まだ子どもなのか、アドルとマリウスの半分ほどの大きさしかない。
 妙に人に慣れているな――と考えかけたところで、今の自分は人の身を持っていない事を彼は思い出す。
「へえ、ここにもピッカードが居るんだ」
「脱走してきたのかもしれないな」
「それなら僕たちと同じ……ああ、ある意味同じ、だね」
 マリウスが撫でてやると、子ピッカードは嬉しそうに短く鳴いた。美味しい食材として扱われる事もある生き物だが、こういうところを見てしまうと少し罪悪感が生まれてしまうな――などと彼が思っていると、子ピッカードがもう一度鳴く。
「ついてこい、って?」
「アドル、分かるのか?」
「な、なんとなく……?」
 顔を見合わせて会話をしている間に、子ピッカードはくるりと向きを変えて歩き始める。どうやらアドルの推測は正しかったらしい。
「行ってみようか」
「そうだね。特に目的地もないし、いいんじゃないか」
 行った先で何かが見付かれば、運が良かった、と言える。何も見付からなくとも、そこから移動する途中で、何か手掛かりが見付かるかもしれない。
 互いに頷き合い、二人は子ピッカードを追いかけた。


 貧民街の奥からは、花の香りが漂ってくる。子ピッカードは真っ直ぐに歩いていくが、少し進んだところで、建物の陰に身を隠した。
 そしてそこから鳴き声を上げる事もなく、じっ、とアドルとマリウスを見つめている。つぶらな瞳が何を伝えようとしているのか、言葉を交わせない二人にははっきりとは分からなかったが、推測する事は出来る。
「ここに来い、って事かな?」
「そんな感じだね。行ってみようか」
 子ピッカードが居る場所へ移動すると、そこは貧民街の一番奥だった。
 日が差し込み、様々な種類の花が綺麗に並べられている。薄暗い雰囲気を持つ貧民街の中にぽつりと存在するそこは、まるで花園のようだ。
 少しだけ身を乗り出して、マリウスは看板を見る。その時――プチ・フルリスト、という名を掲げたその花屋の前で、一人の黒髪の女性が足を止めた。
「あ、アネモナさん! お買い物ですか?」
 大きな花束を抱えた老婆を見送ってから、店員と思われる銀髪の少女が女性に駆け寄った。
「はい。先日、綺麗な青の花瓶が入荷したのですが……それは売り物にせず、花を生けて店内に飾ろう、という話になりまして」
「それで来てくれたんですね、ありがとうございます! ええと、そうですね……骨董品店さんの店内、青い花瓶に似合いそうなお花は……」
 思考を巡らせながら花を一つ一つ手に取り、店の前を行き来する少女。屈んだり立ったりする度に、髪に結ばれている赤いリボンが小さく跳ねた。
待ちながらそれを見ていた女性は、口元に手を当てて笑う。
「キリシャさん、楽しそうですね」
「えっ?」
「いえ。なんとなく、そう思いまして。私の気のせい、かもしれませんが」
 誰が見ても、きっと同じ事を言うのではないだろうか。マリウスも素直にそう思っていた。貧民街、加えてその一番奥で花屋を営業するのは容易ではないはずだが、あの少女からは、雨にも風にも負けないような強さすら感じられる。
 きょとん、とした様子で手を止めた少女は、少し間を空けてから、花が咲くような笑顔を向けた。
「気のせい、じゃないですよ。色々と大変な事もありますけど、毎日充実してますから! それに、わたしからしたら、アネモナさんもそう見えます」
「……分かりますか?」
「ふふっ、分かりますよ!」
「アドルさんに出会えたおかげですね。自分を見付けられた……そして、今ここで、こうしていられること――心底、幸せだと思えますから」
 自分と同じ名が唐突に出されたせいか、ぴくり、と横でアドルが反応した。え、と短く零されたものも聞き逃さなかったが、マリウスは敢えて声を掛けず、黙って少女と女性の会話に耳を傾け続ける。
「アドルさんとドギさん、元気にしてるでしょうか……」
「ジュールさんも仰っていましたね。皆で、手紙を出すのも良いかもしれません。……凄腕の運び屋が、今バルドゥークに滞在しているそうですし。アドルさんはどこに居るのか分かりませんが、彼ならば届けられる可能性があります」
「運び屋さんですか、そうですね……お願いしてみましょうか。さっそくユファさんやジュール君、ダンデリオンの皆さんに声を掛けないと!」
 ああそうか、と、マリウスの中の記憶と二人が一致する。おそらく彼女達は“アドル”と行動を共にしていた怪人の仲間なのだろう。話が出来れば、黒幕に関して聞く事も出来たが――どうしたって出来ない事は、考えても仕方がない。それに、どうやら会話の内容からして、黒幕周りは解決したのではないだろうか。
 マリウスがアドルの方を見ると、振り向いた彼は、短い腕を組んで首を傾げた。
「……どういう事だろう? あの二人、僕と知り合いで、既に僕がここを発ったような事を話しているけど……同じ名前の違う人かな。だけど、ドギ、って」
「……」
「マリウス、君は何か知らないか?」
「…………」
 やろうと思えば、真実を隠しておく事も出来た。それでも放っておけるはずがなく、アドル自身が“あのアドル”ではないという予感、或いは証拠を得てから、本当の事を話したい――マリウスはそう思って同行を申し出たが、思っていたよりも早く得る事が叶った。
 困惑するアドルに背を向けて、マリウスは影を見つめながら口を開く。
「アドル。君に、伝えておかないといけない事がある」
「伝えておかないといけない事?」
「……場所を変えよう。ついてきてくれ」
「? 分かった」
 直面する真実に、アドルはどう反応するだろうか。
 子ピッカードがキリシャのところへと歩いていくのを見送ってから、二人は反対の方向へと歩き出す。

 ◆

 何度来ても埃っぽさを感じる施設は、時間を問わず薄暗い。
 マリウスが入り口付近で足を止めると、アドルもその場で立ち止まった。
「ここは、さっきの施設かい?」
「ああ、そうだ。……ここで造られたんだ。“僕たち”はね」
「…………造られた、だって? それに“僕たち”という事は……」
 何かを察した様子のアドル。鋭い事があるのは、どのアドルでも一緒なのだろう。
 マリウスはそのまま、一つずつ、自分が知る事実をアドルに話して聞かせた。
 バルドゥークの監獄の中で揺らめいていた意思と計画。錬金術によって造られたホムンクルス達。騎士団長・シャトラールと、おそらくその裏側に居たであろう黒幕。
 自分も人間の時はロムン現皇帝のホムンクルスであり、監獄の中で“アドル”と出会った事。時折一緒に過ごし、共に脱獄するも、生きている事が許されない身故に、アドルに立ち合いを頼んでその末に消滅した事。何らかの形で一連の件は解決して、アドルはドギと共にこの街から旅立ったという事――。
 黙って聞いていたアドルは、マリウスが話し終えた後、再び腕組みをした。途中で微かに動揺の色が瞳に混じった時もあったが、彼は落ち着いている。
「錬金術に、ホムンクルス…………それなら、あの二人の会話にも納得がいくな。バルドゥークをドギと一緒に数週間前に旅立ったのが、本物の“僕”というわけか。それに、君を……」
「……なんとなくそんな予感はしていたけど、君は冷静だな。それに、信じてくれるんだね」
「今までも色々あったからね。……さっきの事も踏まえたら、信じるしかないよ」
 アドルが浮かべた苦笑の中に含まれている感情は、マリウスから汲み取る事は出来ない。推察する事は出来ても、正解は見えない。
「…………そういえばさっきの質問、答えられてなかったね」
 何とも言い表せない沈黙が満ちようとした時、アドルが口を開いた。
「質問?」
「“人間に戻れなかったらどうするか”」
 少し前に向けた問いの復唱は、零れるように研究棟内の空気へと落とされた。
 答えを貰おうとは思っていなかったマリウスは、アドルの予想外の言葉に、喉まで上がってきていたものを押し込める。
 こんな状況でも曇る事のない瞳には、マリウスが映し出されていた。
「ルーの姿で生きていく。それでも、僕は僕だから――する事は変わらないかな」
アドルは穏やかに笑う。最初から選択肢なんて一つしかない、と言うかのように。
「冒険家はやめない、って?」
「冒険ルーというのも新しいと思うんだ」
「……っ、はははっ! それは聞いた事がないな。と、いう事は……アドルはバルドゥークを出るつもりなんだね。君ならそうすると思っていたけど」
 マリウスの脳内には、冒険に必要な道具を詰め込んだ鞄を携え、勇ましく未開の地を突き進むルーの姿が過った。確かに新しい、今までに見た事のない“冒険ルー”だ。
絵本のように展開される想像を追いかけていると、マリウスの前に、アドルの手が差し出される。
「マリウス。せっかくだし、僕と来るかい?」
 続いて向けられたのは、何の迷いもない、真っ直ぐな言葉だ。
「……え、良いのか?」
「勿論。断る理由なんてないし、それなら誘ったりしないさ。それに――僕とも“友人”になってくれたら嬉しいな」
「……。友人、か」
 染みるな、とマリウスは思った。心のどこかで、自分すら掴み切れない深層で、期待していたのかもしれない。
 目の前に居るのは“アドル”ではない。けれど、彼もルーの姿であれアドルである事には違いないのだ。
「君は狡いな。断るわけないじゃないか」
 皇帝として過ごした記憶の中に、こんな方法で友人になったひとは居ない。それが妙に可笑しく感じて、名前の分からない感情でマリウスの胸中は埋まっていく。
「そ、そうかな?」
「……でも、本当に狡いのは僕のほうだったな。――乗らせてもらうよ。一緒に冒険をしよう、アドル」
 未来を願ってもいいのだろうか。掴む事を許してもらえるのだろうか。生きていても、いいのだろうか。
 迷いを照らす光に彼はそっと手を伸ばして、握り返した。
「よろしく頼むよ、マリウス」
 頷き返して、マリウスも笑った。


 夜が訪れ、日付が変わろうとしているバルドゥークの街。
 職人街の路地裏には、身を寄せ合って地図を覗き込む二匹のルーが居た。
「いつ出発しようか?」
「もう遅い時間だし、明日の朝にしよう」
「相変わらず兵士は立っているから、正門から堂々と出るのは難しそうだね」
「それなら、商人の馬車に紛れ込もう。外に出られたらすぐに降りてもいいし、気付かれなかったら、そのまま運ばれても問題ないから好都合だ」
「それで……冒険家のアドル君は、どこを目指すつもりなのかな」
「考えてないんだ」
「いつもそうなのか?」
「いや、行きたいな、って思う場所はあるんだ。ガルマンやブリタイあたりに行ってみたい気持ちもあるし……」
「でも、その途中で何かに巻き込まれる、と」
 相談しながら、未知の未来に心を躍らせているのはどちらも同じなのだろう。人間の時にはなかった尻尾は、左右にゆらゆらと揺れている。
「そういう事も少なくはないかな」
 小さな手で地図を畳んで、アドルはそれを広げた荷物に加える。
 玩具として作られた小さなランタン。木の下に転がっていた木の実や、風に乗って飛んできた布切れ、やや丈夫な棒に、大きすぎない瓶。それらを拾った布に包めば、旅支度は完了だ。
「そうだ。お礼を言ってなかったね、ありがとう」
「礼?」
 街の一角に積み上げられた木箱に乗り眠ろうとした時、アドルがぽつりとそう呟いた。
「マリウスに出会わなかったら、僕は何が何だか分からないまま、ずっとバルドゥークをさまよっていたかもしれないから」
 広大なバルドゥークの街で、既に旅立ったドギを延々と探し回っていた可能性もある。その場合、アドルはどうなっていたか――と考えかけて、マリウスは頭を振った。
考えすぎるのは悪い癖だ。それに、今は考えるより、自分も言う事がある。
「礼を言うのは僕も同じだ」
「?」
「正直、迷ったよ。ルーの姿とはいえ、僕は僕のままで生きていてもいいのか。今度は、許されるのか。だから――感謝しているんだ」
 持ってはならない願いは、違った形で監獄都市を出た。目には見えない傷は存在の証となり、交わした約束はいつか帝国へと辿り着く。在ってはいけなかった命はここにある。けれど、在ってもいいのなら、続きを歩いていきたい。
「そっか」
 それなら良かった、と。笑い合ってから、二人は明日の為に瞼を下ろした。





設定メモ

※容姿やベースの設定は幸宏さま(@yukihiro_ys)からいただいております!
※細かい事はいいんだよ……というノリでお願いします。

【アド・ルー】
・本編に登場する“アドル・クリスティン”とは別の存在。彼とドギが\の物語終了後、バルドゥークを旅立って少し経過した頃に研究棟で目覚める。
→アド・ルーが生まれたのは、本編でアドルと赤の王の魂が一つに錬成される頃。ゾラがアドルの記憶をもとにアトラを錬成する為の実験の際、失敗して廃棄扱いになった“アトラになれなかった素体”から、ルーの姿で分裂。
→ゾラがアドルからエルディールの情報を引き出そうとした際、連動するような形でエルドゥークに住むルー達の記憶が混ざってしまい、余分だからとそれを無理矢理除こうとした結果と思われる。
→朧気な意識を保ちつつ、廃棄場所から覚束ない足取りで抜け出すが、研究棟内を徘徊する魔物に襲われ、ゾラの私室らしき場所、たまたま見付けた隠し棚の中に逃げ込む。(この途中であのボロマントを調達)
・不安定故にそのままそこで眠り込んでしまい、時間が経過。再び目覚めた後、自分がどうしてここに居るのか分からない中、出歩いていたらマルーウスと出会う。
→最初に目覚めた時の記憶は曖昧。
→その時には既にグリムワルドは消失しており、アプリリスが手を回して魔物や資料は破棄されている。

【マルーウス】
・本編のマリウスと同一の存在。ホムンクルスとしての彼は、アドルとの立ち合いの末に消滅した。
→……が、魂はすぐに消滅せず、少しの間研究棟の中をさ迷う。そこで放棄されていたルーの素体に引き寄せられるように定着。そのままルーの体で動けるようになった。
・古バルドゥーク要塞で最後の戦いを終え、アドルとドギがバルドゥークを旅立った後に目覚める。
・現状把握の為に研究棟内を探索していたところで、アド・ルーと出会う。



←Back